67 / 71
6章(30)
王宮の南西区画は、昼間と同じ数の灯りが広がっていた。
宴は終わり、楽の音も止み、着飾った人々の影は一つもなくなっており、大広間の扉は閉じられている。
それでもこの区画では人の声があり、足音が響き、灯りは一つも落ちていなかった。卓上に王宮の見取り図が広げられており、複数の人間がそれを囲んでいた。
上座に立つ男の他に、軍務卿と南西区画の守衛長、そしてレティシア、アレン、シエルがいた。誰も疲れた顔をすることなく、動きを鈍らせることもしていない。後ろで忙しく動き回る他の足音が響いていても、誰一人として気を散らすことはなかった。
軍務卿は卓の右手に立っていた。
黒の立襟も銀の釦の並びも他の者と何一つ変わらない。それなのに、この男の袖口だけが灯りを返さなかった。刺繍の銀に燻しがかけてあるためである。書く手の先で光が散らないようにというだけの理由で誂えられたものが、そのまま三十年変えられていない。
行軍のための飾りである両肩の肩章の房はなく、二つの銀の大星だけが動かずにいる。
左腰に剣もない男だった。剣帯の通るはずの位置に、書類を束ねるための革の綴り紐が一本だけ通されている。
黒革の手袋は卓に着く前に既に外されて、脇に綺麗に揃えて置かれていた。
「始めろ」
上座から降った声に、軍務卿が一枚目の書類を捲った。
捲る前に、指が紙の角を揃えていく。癖と呼ぶには繰り返しすぎて、もう癖の形すら残っていない動きだった。
「アルフレッド殿下。賓客の退出は全て滞りなく終えています。異変にお気づきになった方は、確認できた範囲では一人もおりません」
「大広間の扉は」
「アルフレッド殿下のご指示の通り、内側から閉じたまま楽も続いておりました」
彼は頷くだけをして対応に問題が一つもなかったことを確認する。
「侵入経路は確定したか」
「南西の通用門でございました。配置表よりも守衛が二人ほど少なく……」
守衛長の言葉がそこで途切れる。軍務卿が僅かに顔をそちらへ向けるものの、何かを言うことはしなかった。
この卓には、配置を二名減らす発令をした人物の名前を知らない者が一人もいなかった。言葉が途切れた理由を聞き出すことはせずに、上座の男は短く言う。
「続けろ」
「はい。王宮の兵が預かりますのは五名でございます。回廊の二名と、渡り廊下の物置から出てきた三名」
数え上げる守衛長の背後を書類を抱えた兵が一人通り、足音だけを残して卓の奥へ消えた。
軍務卿の視線が卓の向こうへと動き、「中佐」とだけ口にした。声は大きくなかった。この男には大きな声を出す理由がない。
「私が一名を撃ちました。残る二名は音を立てずにその場で押さえ、守衛に拘束させました」
「銃声に関する記録はどうする」
「宴の最中でございました。私が撃ったのは一度きりであり、大広間に届いた形跡はございません」
「よろしい」
軍務卿が頷き、そのまま記録する音がした。軍務省の印を刻んだ銀の筆入れが、卓の上で一度だけ小さく鳴る。守衛の足音が聞こえ、後ろから数枚の書類を受け取った。
「渡り廊下の一名は」
「北東の地下牢に。殿下のご指示通り、うちの人間は入れずに王宮の兵で回しております」
上座からの問いにすぐ答えたアレンの言葉に、卓の空気の一部が動いた。
番を襲った男の牢の見張りに、第七皇子の部下が一人も入っていないという事実を初めて聞いた人間の動揺だった。妙だと感じたものの、それをわざわざ口にはしなかった。この男の判断に理由も異議も口にするほどの疑念も何もない。
「そのままで問題ない」
その一言で終わった。あまりにも理由も何も付け加えないものだから、この瞬間に誰もが口を挟む時機を失った。
卓の端に、外から入ってきた足音が一つ止まる。北東棟から回されてきた哨長だった。上座の男へ一礼し、両手で綴りを差し出す。
「北東棟、地下の出入りでございます。夜半までに一名。──アルフレッド殿下のご入室とご退室のみです」
綴りを受け取る手も、そこへ目を落とす速さも、いつも通りだった。
「俺が入った後の異状は」
「ございません。ただ、あそこは地下の通路がございます。表は固めておりますが、奥は……王族の方々の通路には、我らは立ち入れませぬ。表の立哨だけでも、増やしてはいかがかと」
「王宮の兵で足りる」
一寸も思考する時間がなかった。まるで最初から決まっているような答えの速さだ。哨長は一礼し、それ以上を続けなかった。この方の帳面には増やす理由の一行がないのだろうと、勝手に納得して下がっていった。
本当に僅かな疑問だけを隅に丸めたまま、次の報告と指示へ耳を傾ける。
「アルフレッド殿下。南の回廊の血痕が僅かにありますので、明日削らせようかと」
「記録を取ってからだ。寸法と、位置と、深さを。それから削れ」
守衛長の筆が一度止まり、それから走る音がする中で、シエルが口を開いた。
「退出記録に合わない箇所がありました。南の階段口から出た方が七名。しかし、順番が記録と合いません」
「名前を」
順番に読み上げられた名前を、彼は最後まで聞いていた。聞き終えてから、シエルが報告しながら差し出した書類の余白に二行だけ書き加えて返した。
「この二名は退出時刻を訂正しろ。残りはそのままでいい」
「いいんですか、それ」
「合わない記録を無理に合わせれば、合わせた人間の名前が残る」
「うわ、えげつな」
すぐ軍務卿が咳払いした。今日一度もしていなかった男の咳払いは、形だけのものだと誰もがすぐ理解できた。
シエルが首を竦め、「すんません」とだけ口にする。その態度にレティシアが小さく息を吐いた。このやりとりも、これまで数えきれないほど見てきたものであり、視線を上げたところで何も違和感を感じるものはなく、書類へと視線を戻す。
「殿下。王族の方々の在席確認でございますが……お二方、とれておりません」
「誰だ」
「北区画の監督殿下と──アシュレイ殿下でございます。アシュレイ殿下は、ご自身の区画の後処理をされていると伺っておりましたが、南西の詰所にはいらっしゃっておりません」
その場が静かになり、誰も何も言わなかった。
片方は叙勲式の最中、後方に立っていたというのに前方にまで届く声を張り、配置を組み直させていた区画監督の一人でもある。その男が、担当していた区画を破られたというのに、後処理の場にはいない。
「探しますか」
「いや。区画監督の所在は、監督の職掌だろう。俺が数えるものではない。…双璧の儀の布告は」
「皇帝陛下のご意向により後日とだけ」
「それでいい」
双璧の儀が行われなかった理由はどこにも書かれない。書かれない一行の上に、明日からの噂が立つだろう。
「以上か」
「は。以上でございます」
「解散しろ。夜明けまでに報告書を上げる」
人が次々に動く音が重なって響いた。
その波に押されるように燭台の火が揺れ、影の輪郭を崩す。人がおおむね引いた頃になって、シエルは理由なく不思議に思っていたことを聞きに行こうと書類を抱えたまま近づいて行く。
「あの、殿下」
「なんだ」
「離宮から戻るの、早くないですか」
「そうか」
「そうかじゃなくて」
シエルがもう少し距離を詰めていた。自分でも気づいていない様子である。
「その、ノア……大丈夫でした?」
赤紫色の瞳が動いた。この場で初めて、シエルと完全に目が合い、シエルは理由なく背筋を伸ばしていた。
「本人にしかわからん」
即答だった。
その答えにシエルが考えが及ぶよりも先に息を詰まらせていた。理解よりも先に身体が反応していたのだ。
本人にしか、わからん。
返答を何度も頭の中で繰り返していくうちに、ようやく追いついてきた思考の中で、シエルは背筋を冷や汗が伝うのを感じる。
「……聞いていいやつですか、これ」
「聞いても良いが、答えは同じだ」
書類が一枚捲られる音がして、シエルの動きはそこで止まった。
止まったまま先ほどの彼の一言を頭の中でだけもう一度聞きなおして、それから目の前に立つ男の端正な横顔を見た。灯りに照らされながら、赤紫色の瞳も、線の良い輪郭も、黒い髪の落ち方も、書類を持つ指の形も、いつも通りの様子だった。どこにも、変化は何一つなかった。ないというのに、直前にこの男はわざわざ変化を言葉で伝えてきた。
ようやく身体へと追いついた頭の理解に、シエルは大げさなほどに後退りのように身を引いてから、反射的に声を大きくする。
「い、言ってくださいよ!入れ替わるなら、先に!」
「今言っただろう」
「答え合わせって言うんですよ、それ!」
嫌な汗をかいた、とシエルは頭の後ろを掻き、思わず口の中でぶつぶつと文句を言いながら書類の束を抱え直した。
書類を捲る速さも、持つ角度も、文字の追い方も、報告の促し方や指示の仕方まで全く同じである。だから軍務卿も守衛長も、そしてレティシアやアレンも何の疑いもなく報告を続けていたのだ。
理解が追いついてくると、今度は理解を越えたものがやってくる。
いつどこでこんなにも密に情報のやり取りをしたのか。
この夜の出来事を一から十まで頭に入れているだけでなく、起きた事象に兄がどう思考を巡らせ、どう判断を下すのか、そこまでぴったりと回路を合わせている。だから直前まで王宮執務室で、あの距離で話していた自分ですら違和感を持てなかったのだ。継ぎ目がどこにもない。入れ替わりには必ずどこかに綻びか、強引に合わせた継ぎ目が見えるはずだというのに、この兄弟に関しては連綿とした絵巻物のように空白が生じない。
入れ替わりをされてそのままのことの方が多い。要は先ほどのようにシエルがそれに気づくことも、どちらかから明かされることもほとんどない。今のは、気づかれてもよいと判断した上で、わざと見せられた綻びに過ぎない。本当に出し抜く時には、ヒントなど与えてくれやしない。目の前で明かされると、まるで見分けのつけられない自分に落ち度があるような、情けない気持ちになってくる。
ただもう一つ、引っかかりを感じたものがあった。
──本人にしかわからん。
誰の話をしていたのかわからなかった。
しかし、今それを自分が考えるべきことかと問われると否である。シエルは形だけの礼をしてから、その場を離れる。日付を跨いでだいぶ時間も経ち、そろそろ頭も体も活動限界を迎えそうなものだが、この一瞬でシエルは覚醒しきってしまっていた。
報告の間隔が空き始めた頃も彼は南西区画に立っていた。
壁に背を預け、廊下の先を見る。その視線の先には何もない、燭台の火が等間隔で灯り、月の光は今は見えなかった。彼が見ているものは、もっと先の、奥の方にある。
兄が王宮の後始末を放って離宮へ戻る夜など、これまでに一度もなかった。
今宵は警守総監の任もあった。王宮の動きも軍の動きも、そして襲撃犯の動きも全て詳細までこの場で入れておきたかったはずでもある。持つべき情報を持ち、渡すべき指示を渡していたのは考えるまでもない。それとは別の話である。
ノアが襲われたとは聞いている。宝石の台座が傷ついたなら確かめに行くのは当然だと誰かに説明すれば、誰でも納得できるだろう。
当然のはずだった。
彼はそれ以上を考えなかった。思考を止めるのではなく、答えの出ないものを一度置いておく場所を作り、そこに収めた。恐らくはこの一度きりではないものだ、今夜のうちに答えが出るものでなければ、出せる時に取り出せる位置に置いておくのが良い。
組んだ腕を替えたところで、守衛長が駆けてくる足音が聞こえた。
切り替えるという意識すら持つことなく、彼の身体は自然とその姿で立っている。書類を受け取り、目を通した後に二行分だけ訂正を加えて返す。その読む時間も、訂正を出す速度も、筆致も、全て兄のものだった。
空の際が白み始める手前で、彼は王宮を後にした。
ともだちにシェアしよう!

