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6章(31)

バルコニーから見下ろす庭園は、月光の中で青い薔薇の輪郭だけをかろうじて識別できる暗さだった。 四日前にフルールが触れた花は、今も静かに夜の闇の中で揺れている。 アルフレッドは、疲れを隠すということをしないままにバルコニーの塀に背を任せていた。 軍礼服は既に脱いでおり、代わりに薄手の上衣を羽織っている。襟元の釦は空けたまま夜風が肌を掠めるのを感じながら、近づいてくる気配を辿っていた。夜の中でも空間を見つめる二つの瞳は、紅柘榴石のように光っている。 夜まで続いていた戦いと混乱の余韻を塗り潰すように、魔の者が姿を現した。 暗い空間が滲み、波立つように歪んでから足よりも先に花弁が舞うのが視界に入る。 深い思考の波を漂っていた男は、ただその様を眺めていた。周囲に非現実的な光の粒が舞い、冷たさを孕む夜気を春の日差しのような芳香が満たしていく。 「やあ、良い夜だね」 フルールの軽やかすぎる声が、張り詰めた空気をくすぐった。欄干の隣にまでやって来たそれは足音を立てることも、風を動かすこともしなかった。ただ、空間を滲ませた後に春の風と共に隣に立っていた。 長い銀色の髪が闇の中でも白く輝き、虹色の毛の先は月の光よりも眩さを持っている。 アルフレッドは視線さえくれることなく、低く突き放すように声を返した。 「何が良いと?俺は疲れているから手短にしろ」 「月も星も綺麗な良い夜じゃないか。月の輝きは、まるであの子の宝石のようだ」 「お前まで詩を詠むな、煩わしい」 「あの詩人がお気に召さなかったようだから」 フルールが悪戯っぽく肩を竦めてみせる。 アルフレッドの冷ややかな態度を楽しむように言葉を繋いで、その不機嫌の温度へと触れたがっている表情をしていた。 いるはずのない時間、いるはずのない場所のものを、全て見ている。その時のアルフレッドの感情も行動も全て。十五年続くその観察の動作を、今更何か言うことはしない。 「ノアは?」 自分への問いには答えないとわかりきっているのか、フルールはノアの名前を出してきた。 それを読み取ったアルフレッドの眉間に微かな陰が落ちる。 「寝かせた」 その口から出た短い返答の中に含まれる温度をフルールは聞き逃さなかった。 「おや。あんなことがあったというのに眠れるとは……予想に反して随分根性があるのか、それとも鈍感なのか」 意外性も、驚愕も、嘲りも、何もない声だった。 わかりきった答えをわざわざ言葉にしてくるのがこの男だ。こちらに何かを言わせるために、その言葉の中に含まれたものを読み取り、養分とするために的外れのことを意図して言ってくる。 アルフレッドは呆れたように敢えて少しの間だけ沈黙を挟んだ。星空から目を離すように瞼を落とし、その裏に染まった暗闇の中で、あの瞳を思い出す。王宮で出かかった何かも、強張ったまま眠れずにいた背中も、全て鮮やかに残っていた。 「視ていたのだろう、魔術で眠らせただけだ。俺が来なければ…、…お前に話すことでもないな」 「あれがあの子の在り方として自然だろう。目の前で人間が凶器を持ってやり合っていたのだから」 フルールの声には変わらない距離と温度があった。 ノアという少年の在り方を肯定も否定もせず、ただそれが自然だと事実だけを観察した側からの視点で差し出す。 「───十八の」 アルフレッドは一度言葉を切っていた。切る意図はなかったものの、気づいたらそこで一度止めていた。 夜の闇の中を見るアルフレッドの横顔を、フルールは見ている。途切れた言葉の先を促すでも何をするでもなく、ただその顔を見ていた。 「十八の…子どもとは、あんなものか」 自分がその年齢だった頃、既に戦場を幾度も駆けていた。 大きな戦線に立っていた。王位継承七位を授かった年齢でもあった。笑うことも泣くこともなかった十八の自分と、震える身体を隠せず、自分で眠りにつくことさえできなかった十八の少年との差を測ろうとしたものの、できなかった。 ノアという存在の異質さが、胸の中に奇妙な重さとして置かれていた。 「あんなもの、とは?」 「よく笑い、泣く。自分の気持ちを隠すということを考えない。……自分の恐怖を、取り繕おうとしない」 それは、王宮で生きるアルフレッドにとっては最も縁遠く、最も危うい振る舞いだった。 他者に読まれること、他者に知られることこそが脅威である。読まれる情報を身に纏わないこと、知られる感情を表に走らせないこと、それこそがアルフレッドの生き方だった。 「大人にはできないだろうね。そんなことをしていては、他人に弱点を握られる」 フルールが少し微笑んで、客観的な物差しとして言葉を口にした。 「その割に…こちらから近寄らなければ、一人で不安感に耐えようとする」 ノアについてアルフレッドが言語化しようとしない部分までフルールは正しく把握していた。その場にいたことなど、ないのに。 あの子が感情を見せるのは誰かが近寄った時だ。誰も寄らなければ、誰かを呼び寄せてまで感情を露わにはしない。その時は、ノアは一人で抱えるだけだった。 「両親によく愛されているようだ。手紙は続いている、あの子も書く内容を考える時間を丁寧に作っている」 「人間とは多様な生き物だからね、一概にこうとは言えないのさ」 アルフレッドの言葉には、どこか遠い世界を眺めるような、別の生き物をみるような響きさえあった。 かつて自分が求めなかったもの、切り捨てたもの、考えようとすらしなかったもの、その全てをあの子どもは含有しているようだった。 「アルドヘイムにおいて、ノアのような子どもはそう多くないだろう」 フルールの声が温度を下げていた。 「何せ、僕が知っている子どもは……自分の弟を守ろうとして実の母親を殺害し、魔物と契約して自ら地獄への道を歩んでいる」 その言葉に感情は込められていない。ただ事実を読み上げるものだった。 しかし、その事実がこの男の目の前で他者から口にされることこそに、フルールの選択が覗いていた。他の誰かの前では言葉にすることはない。 「地獄の道か」 アルフレッドが笑った。目元には届かない、口元だけの笑いの形をなぞるものだった。 「色々な子どもがいる。あの子はあまりにも白すぎる。両親に愛情深く育てられ、汚いものも見ずに生きてこられた、稀有な例だ。比べることなど詮無きことさ」 アルフレッドが何も言葉を返してこないのを知っていたのか、フルールは物語を読み続けるような速さで言葉を続ける。 「あの子は随分と君を慕っているようだ」 「そうだな」 「たかが子どもとはいえ、何故こうも君を好いているのかな」 答えはない。ただ、眼前に広がる庭園を見つめる眼差しがあるだけで、アルフレッドは答えようとすらしていなかった。 答えを持っていないということを、この男に見せたくない、持っていないと自分で認識していることも、情報として渡したくなかった。 「本当に運命の番ではないか……その可能性を考えたことは?」 「不確定要素が多い。人の気持ちなど、いつどんな時でも変わり得るものだ」 完璧に整えられた否定の形だった。 社交の場で身に着けた流暢な切り替えしの温度にもよく似ている。しかし、フルールにはその整った言葉の中身が見えていた。 「魔性の皇子。君は人の心を手玉にとるのがどこまでも上手いからね。自分の心や本能すら理性と技術で律することができてしまうから、アルファとしての強い衝動をあの子に感じていたとしても、無意識下に消している可能性があるし……当てにはできないねぇ、困った困った」 口調は軽いままに内容だけが重たいものだった。 アルフレッドはその指摘も否定しなかった。並べられているものは全て事実であり、否定しないということ自体が、アルフレッドの応答の質を示していた。 「運命の番ではないと願うしかない。そうでなければ、ノアが気の毒だからな」 その言葉が出た瞬間、場の空気が僅かに変化した。アルフレッドがそれに気づいていないことも、フルールはわかっていた。 「へえ。君にもその心はまだ残されていたか」 フルールの応答は軽い口調の温度を保ったままだった。一貫していた。 しかし、軽口の下には観察する者としての長く綴られる記録の重たさが存在している。今夜の対話の中で最も大きいと言えるであろう情報が、たった今この男の口から落ちた。フルールは瞳を細めながら、微笑んでみせる。 「下心が一切ない、純粋な好意は…とても居心地が良いだろう」 その言葉は、分厚い鎧の隙間に滑り込んでくるようだった。 強引に割り開くものではない。ただ元々あったほんの僅かな間をするりと抜けてくるものだ。フルールの言葉に、アルフレッドは胸の奥を刺すような違和感──あるいは充足感──を認める他なかった。 「可愛いと言うのだろうな、その感覚はわかるさ。ノアの言葉も、あの視線も…抵抗感を持たない。本心が見えているのに、汚らわしくない」 自分自身を主語にしない言葉はこれまで何度も繰り返されてきたものだ。 「可愛いと感じていれば上出来さ。そう、あの子は愛い子どもだ」 欄干に肘を置き、月の方角を見ながら語りかけているものの、アルフレッドには視線を向けていない。 向ければそれは観察の色が濃くなってしまい、この男は身構えてしまう。向けないことがフルールの作法であり、最も見たいものを引き出す手段でもあった。 「君の知るオメガといえば、どれも性や金銭、権力に溺れたがる者ばかりだった……ああ、彼女の弟だけは違ったか」 フルールが並べたのはこの男がこれまでに目にしてきたオメガという存在の様式だった。 段差をつけるのではなく、どれも並列に扱っている。 「君の落胤でも作ってしまおうと、発情期中のオメガが寝室で待ち構えているのでもなく、それを裏で操るベータでも、横から手を出すアルファでもなく。君を惑わし力づくで手に入れようと画策するオメガでも、権威のために蹴落とそうとするアルファでもない。ただひとりの人間として、君を慕っている」 言葉が静かに、だが重く落ちた。フルールは責めておらずただ事実を並べているだけだった。しかし、並べられた事実がアルフレッドの中で別の質を持って沈んでいく。 「だが……そんな心からの好意を受けて、それを裏切り、王の座を手に入れられるのかい」 問いだった。 答えを引き出すための問いではない。この男の中に既にある何かを確認するための問いだった。 アルフレッドはゆっくりと姿勢を正した。 塀に預けていた背中を起こし、夜空に向き直る形になる。表情は一切変わることがなかった。 「───それが、我が道なれば」 短く、迷いのない言葉だった。 新しく決めた覚悟ではなかった。ずっと彼の中にあったものが、フルールの問いを経てたまたま言葉という形になっただけだった。 「……そうか」 それを確かに受け取ったフルールは、悲しげにあるいは歓喜を込めて微笑んだ。 どちらの微笑みだったかは、フルール自身も判別していなかった。アルフレッドが一歩を踏み出し、その終わりを告げる。 「話は終わりだな。もう、ノアの夢の中に入るなよ」 「夢の中から、淫らなオメガに作り変えてあげることもできるんだけどな」 「そんなものに価値などない」 では何に価値があるのか。その問いを、フルールは口にしなかった。 「手ずから育てる喜びを感じているのかい?」 「さあな」 無関心そうに言い放ち、アルフレッドは踵を返す。 背を向ける動作はいつもの完璧な所作の温度だというのに、その完璧さの中に小さな防御があった。これ以上の問いを受けたくないというそれを、フルールは追及しなかった。 その背に、祝福とも呪いともつかぬ言葉を投げかける。 「良い夢を、アルフレッド」 歩みを止めることも、振り返ることもないまま、彼は部屋の奥へ消えた。 その足は寝室には向かっていなかった。今夜、ノアの隣で眠ることを選ばないまま別の部屋に向かう足音だけが、廊下に響く。 その背中が夜闇に溶けて消える前に、ただ一言フルールは呟いた。 「……悪魔の皇子、か」 呟きには、長く生きた者の温度があった。また一つの夜を見届けたという温度。 その名で呼ばれ始めた日を、フルールは覚えている。 判断に感情の痕跡がなかった。捕虜のオメガを嬲らなかった。「合理的に人を殺す」という声が軍の内に積み上がった。 慣例に従わず、美貌さえ武器にした。「読めない皇子」という声が貴族の間に広まった。 夜会では全員に何かを与え、全員を適切な位置に置き、そのどこにも本音を残さなかった。誰が最初に言い出したのかは、とうとう分からないままだった。 今宵もそうだった。貴族たちは品格を疑うと眉を寄せながら、その姿から目を離せずにいた。軍人たちは祈りに似た言葉を言いかけて、不敬の手前で呑み込んだ。玉座の脇に並んだ王族たちは、手順で、情報で、順位で、それぞれの物差しであの男を測り終えた顔をしていた。 名を編んだ事実に偽りは一つもないのだ。 全てが事実で編まれて、それでいて、名前を囁くどの口にもあの男を渡していない。あの男はそれを知りながら、否定も肯定もしないまま、名前がそこにあることを許してきただけである。 だが今夜、その名の届かない場所から言葉が一つこぼれ落ちた。 長い記録のどこにも前例のないものだ。彼自身もまだそれを言語化していない。 夜明け前の離宮に、静寂が再び戻る。 バルコニーから見下ろす庭園で、青い薔薇の輪郭がまだ夜闇の中で揺れていた。

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