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7章 審判の儀
7章 審判の儀
春の盛りを過ぎたとはいえ、夜明け前の空はまだ暗かった。
黒い軍礼服の上に外套を羽織り、自らの肌が露出する箇所などほぼないというのに、首や頬を掠める風は夜の冷たさを含んでいる。あと数刻待てば明るくなるであろう東の空を一度見てから、離宮の門をくぐったのは夜半のことだった。
離宮の中で最も早く明かりが灯り、最も遅くまで明かりが消えないのがアルフレッドの執務室である。
その日も離宮執務室の燭台の火は消えていなかった。
机の上には三日という時間を費やして整えられたものが積み上げられている。
照合の済んだ書類、封蝋の写し、押収してきた原本。形になるものを揃えてきたのは三日前のあの夜からであり、既に動かさなくて良い段階に入った落ち着きを取り戻していた。
破棄すべき数字、写すべき証明、保管すべき冊子。どの書類をいつどのように開けるのかまで、順序良く並べられたそれらに手を加えるものはなくなった。
分類したそれの角を揃えながら机の上にまとめた頃、足音を立てずにレティシアがその身を扉の中へと滑らせてきた。扉を叩く音はない。彼女も共にこの部屋で書類と向かい合っていたその隙間で、数分だけ離宮玄関まで席を外していた。出る時に律儀に音を立てずに扉を閉めたため、アルフレッドが開けてそのままにしていた。その意図を彼女は無言で読み取って、戻りはノックをせずに執務室の中へ入ってきた。
「殿下。皇帝勅命の書状を門にて受領しました。使者はそのまま王宮へお戻りになりました」
生活の音が絶えた静寂の時間に、レティシアの声が静かに響いた。
アルフレッドは机の上で書類を一枚閉じ、それに視線を落としたまま短い言葉を告げる。
「開けろ」
王家の印璽は証明するまでもなく皇帝勅命のものであり、偽りようがない。
黒に近い深紅の蝋は光を吸って沈んでいる。厚く、他の誰から届くものよりも大きい封蝋。アルフレッドの命令通り、レティシアの手が封を解き、封蝋を割る乾いた音が響いた。
書状の日付は昨夜のものだった。
告発が受理されたその夜のうちに勅が発せられ、夜明けを待たずして並木道を抜けていく。
王宮がこの一件を今日のうちに処理するつもりであることが、その速さでよくわかった。
「読みます」
アルフレッドが無言で頷くのを、彼女は既に文字を目で追いながら、視界の隅で確認した。
一度だけ呼吸を自分の心拍に合わせるように置いてから、彼女の声がその文を読み上げ始める。
「──皇帝勅命。第七皇子アルフレッドに対し、詐称罪の告発がなされた。これより審判の儀を執り行うため、本日、番を伴いて登城せよ」
レティシアの声に抑揚はなく、読み上げるのに癖もない。書状に記された文章をそのまま音に変換しただけの、完璧な読み上げの中の、番を伴いての所で呼吸が僅かに短くなった。アルフレッドはそれを言うでもなく、結びに勅が出された日にちが添えられるのを聞いた。
「予定通りだな」
しかし、レティシアは主君のその言葉に同意することができなかった。
自分の中で思い描いていた予定通りとは中身が違う。
書状に書かれた文章は、彼女にとって思いもよらないものだった。息を乱さないよう努めながら瞬きだけをして、動揺を強引に押し込んだ。
「アシュレイか」
「はい。告発状の写しが添えられております」
ようやく顔を上げたアルフレッドの肌が燭台の光に照らされた。顔色も平時の通り、目の下に隈もなく、白い肌の上に疲労の蓄積は少しも見受けられない。
既に礼装はほとんど整えられていた。
彼の表情には疲れだけでなく、驚きも焦りも困惑も何一つとしてなかった。三日間形を整えてきたものの行く先が、今この書状をもって決められたというだけのことである。
「地下牢の件もまだ収まっておりません。軍務省が三日目の照会を出していると」
アルフレッドはペンを取り、別の書類の余白に文字を書き入れていた。
レティシアの言う照会先は警守総監であるアルフレッドだ。国儀の夜の警備を統べた皇子の机には、その夜を越えた後にも紙が日毎に増え続けている。
「王宮の兵が四名…処分を受けております」
ペンを走らせる速さは変わらないままだ。
「何もなかったことにせよ」──国の儀式の最中に王宮に賊が侵入した。その騒ぎを無にしたい父帝にとって、この三日間ほど耐え難いものはないだろう。それが、兵の処分という形で現れ出ている。
「不足はあるか」
「いえ。三日ありましたので、全て揃えました」
三日だった。
アルフレッドの指示の通りに彼らは動き、全てを揃えてきた。
守衛配置の変更命令書、引き上げた通路から侵入した賊の身元、それと王族の別邸を結ぶ金銭の往復。それらを集め、原本を押さえ、照合し、御前で全てを明け渡すという経路を開くのに、本来であれば三日という日数では到底足りないだろう。足りる速度にできたのは、この準備が叙勲式、そして行われる予定だった双璧の儀よりも前から始まっていたからだ。
第十三皇子がいつか動くことははっきりと見えていた。
同じ年の皇子。片や十八歳という異例の年齢で第七位の王位継承順位を授かり、片や十三位という特権を何も持たない末端の方に数えられる。あの視線が自分に向けられる時に他とは違うことなど観察しなくてもわかることだった。何度も手を差し入れてきたが、それを全てアルフレッドは机の引き出しにしまう温度感でいなしてきた。
本当なら放っておいてもよかった。
しかし、あまりにもちょうどよかったのだ。利になるものがあれば、使う他なかった。
「同じ勅にて、叙勲式の夜の関係者に出頭が命じられております」
ペンは止まらないまま、頷きの代わりとなっていた。何かあれば口を挟む。わかっているレティシアも言葉を切らずに続ける。
「私と、シエルに。南西区画の守衛長と、軍務卿──ほか数名でございます」
「そうか」
自分の名前すらもまるで他人の名前を読み上げるかのような平坦さで言葉の中に置いていた。
アルフレッドへの番の詐称罪。
そして、同じ勅で三日前の夜の警守について問う。
本来であれば別々の所に置かれるはずの二つが、同じ御前に呼ばれている。この二つを繋ぎ合わせることができる人間は限られていた。勅はもちろん断れず、証言席では嘘も誤魔化しも、真実以外は何も口にすることはできない。
しかし、それも特に対策を講じるべきものではない、彼女たちは真実をそのまま話せば結果へと行き着く。証言席の細工は何もいらないことを、アルフレッドは知っていた。
「ノアを王宮に連れて行く」
レティシアが書状から顔を上げた。
一瞬だけこの部屋の中に空白が落ちた。
まだ三日しか経っていない。
レティシアはあの夜からずっと動き続けているため、ノアと顔を合わせるのもごく限られた時間だけだった。侍女から特段の報告が上がってこないため問題はないと判断していたが、この三日間をあの少年はどう過ごしていたのだろうか。
今日、あの夜に怪我を負った王宮に連れて行く──。レティシアは言葉にできないものを飲み込んでから、承知の意を示した。
「……御意」
「今日は離宮に残せる人間がいない。アレンは俺に付き、お前とシエルは召喚で御前に立つ…離宮の守りが薄い。王宮では守衛を付ける」
「かしこまりました」
この時期に、守りの主である者が誰も残れない離宮にノアを一人で残すことは安全とは言い難かった。まだあの皇子の手の者で動けるのがいるかもしれない。天秤にかけた上で、今日という日に最も安全が確保される場所は自分の手が届き得る王宮の控えの間だった。口の開いている罠があるなら、口の見える場所に置く。それ以外は悪手になるとアルフレッドは考えていた。
「お前が支度をしてやれ」
「装いはいかがしましょうか」
「儀礼装束は不要だ。外出着で良いが……顔を隠せる外套を羽織らせろ」
「はい。──ノアくんには、なんと」
三日前怪我を負わされた王宮に行くこと。
その理由が、アルフレッドの番の詐称罪に関する審判の場であること。その襲われた夜の警備を巡ってレティシアたちも召喚命令を受けていること。
国の中心、あの少年にとっては知らない所で偽物だと言われていることも、ましてやあの襲撃の詳細も何も知らない。そこへ突然また連れて行かれるというのは、何とも言い難い何かがレティシアの口を重くさせた。
「俺が話す」
「かしこまりました」
レティシアは一度頭を下げた。その間にアルフレッドは書類を閉じ、立ち上がる。
立ち上がる動作の中で机の上に置かれた書状に一度目をやったものの、その視線に乱れはなかった。封蝋が灯火の中で赤く沈み、紙面の上で影が揺れる。
「審判の儀の開始時刻は」
「三刻後です」
十分だ、と言った主君は既に執務室の扉へと向かっていた。そして、直前の言葉通りのことをすぐ行動に移すと決めたのか、彼の足の方向は寝所の方だった。レティシアはいつどの瞬間に見ても同じ背筋の背中を見送ってから、机の上に整理された紙の束へと視線を落とした。
彼らが寝所で話している時間を使って、自分の支度も整える必要がある。勅令の場で、あの夜のことを話す。
全く乱れていない書類の角に触れてから、その部屋を後にした。
廊下を歩きながら、レティシアは自分の口で読み上げた一語を頭の中で繰り返す。
番の詐称。
その一語がレティシアの中で意味を結ばなかった。
この三日間、自分たちがアルフレッドの指示のもとで備えてきたのは逆の方だ。
襲撃の夜、ノアの額の布が剥がされ、襲撃者に宝石を見られた。見られた瞬間をレティシアは確認していないが、あの様子を見るに恐らく見られている。だからこそ、情報が漏れるとすれば番が存在していること、そして、その宝石の在り処のはずだった。
双璧の儀を潰したいのであれば、宝石の有無を正しく調べ、その情報を武器にするだろう。宝石がある、番がいる、その話題を自分たちがどのように蓋をするか…三日間の警戒の最終地点はそこなのだと考えていた。
しかし、その中で届いた告発は詐称。番が存在しないというものだった。
自分は賊と交戦した立場でその審判に呼ばれている。あの皇子がアルフレッドの足を掬おうとすること自体は想定通りだったというのに、方法が理解できなくてずっとレティシアの中に残り続けている。
何故番がいないという話を皇帝に運んだのか。主君を失脚させようと企てること自体は想像できても、過程を見通せない。しかし、アルフレッドだけはその「わからない」ことをわからないと思っていない様子だった。
一人でわからないことを考えるのに今は価値がない。
わからないことを無理に埋めようとするとどこかで綻びが出る。そのままにしておくことにしたレティシアの歩幅は、少しも変わっていなかった。
書状は誰もいない執務室の机の上に残されている。
封蝋の深みのある赤が、燭台の光を吸ってしばらく動くことはなかった。
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