70 / 71
7章(2)
肩に置かれた手の重みで、ノアは目を覚ました。
触られて痛みがあるわけでも、揺さぶられて衝撃があったわけでもない。
ただ置かれただけで目を覚ましたことに気づいたのは、手の温度が最も安心できるものだったからだ。
「アルフ…?」
掠れた声が唇の間から漏れるように名前を呼んだ。
あの夜の翌日から、ノアの眠りは浅かった。
夜が来るたびに、王宮の廊下のあの冷たさが戻ってくるのだ。
あの人に差し出すように強く掴まれた手首、服の下を探る手、抵抗できない身体に圧し掛かられる重さ。──右肩が外れる、鈍い音と熱が逃げない痛み。
知らない手に弄られた肌の冷たさと強張りは、いくつ寝てもふとした拍子に戻ってきた。あの夜の中で、ただ温かいと認識できたのは肌を掠めた炎と、アルフレッドの手が触れた肩だけだった。けれど、その温かさもすぐに冷えていった。
それから──「アルフ」と呼んだのに、振り返ってもらえなかった。名前を口にしても、背中は遠ざかっていった。
痛みはもう何もない。あの時、フルールが治してくれた。痛くないのに、ずっと重い。痛みの代わりに、あの時から…あの背中を見た時から、ノアには説明できない何かが深くまで沈み込んでいる気がした。
掠れた声に引きずられるように、ノアは寝台の上で緩慢に身を起こそうと動いた。
「そのままでいい」
そんなノアの身体を、アルフレッドの手が軽く肩を押すようにして白布の上へと戻した。慌てて起きなくていいという意味だと、半分も目覚めていない頭で理解ができた。
寝台の縁に腰かけ肩に触れたまま、ノアの開ききっていない瞳を少しの間アルフレッドは見ていた。
「…痛みは戻っていないな」
「うん…もうないよ」
ゆっくりと撫でながら布越しのアルフレッドの指が動いた。あの夜にあった痛みの名残を、確かめるように辿っていく。
「フルールが、治してくれたから」
「ああ、そうだな」
カーテンの隙間から、夜が明けるか明けないかの本当に淡い光が一筋差し込み、その光が差さない位置にアルフレッドはいた。
三日ぶりに会う姿だ。その間、ノアは自分がどう過ごしていたかよくわからない。
離宮の使用人はみんな優しかった。本当に少しの時間だけ、レティシアもアレンもシエルも顔を見せてくれた。忙しいのか、どこにも腰を落ち着けることなく、数秒立ち止まって一つ二つと会話をして別れてしまうものの、みんな良くしてくれていた。
ただ、あの夜まで厩で一緒の時間を過ごしていた年寄りの使用人だけが、もうどこにもいなかった。
あの人は震える手でノアを渡し、抑えきれない感情で乱した声のまま、娘を人質に取られてと口にして倒れた。それきり、あの人の姿を見ていない。目覚めたのかもわからない。
裏切られたのだと、思う。
けれど、あの人が今どうしているのかも知りたかった。人質に取られてしまった娘が無事だったのかも、ずっと気になっていた。
酷いことをされたのかもしれないが、それでも元気でいるのか、無事なのかを知りたい気持ちも、胸の中の同じ所にあった。
回廊でレティシアに助けを求めて縋り付いてきた名前も知らない少女もそうだった。
泣いていた、辛そうにしていた。レティシアに言われるままあの場を離れるしかできなかったが、その後はどこにもいなかった。
知りたいと思ったが、聞いていい相手がいないと思った。
誰もあの夜のことを、いなくなった人のことを話さないのだ。それぞれが、ノアに対して話さないとしていることだけはわかった。
だから、知りたいと思いながら聞かないということを、この三日間ずっと選び続けた。
何とも言い表すことができないその感情を胸の中で抱え直して、その気持ちも全て捨てることはせずに、そのまま置いておくことにした。
ノアの肩から離れたアルフレッドの手は、そのまま何にも覆われずにある額へと伸びた。
先日王宮で奪われ、血に汚れたリボンはノアの元には戻ってこなかった。寝台の傍に置いてあるのは、あの時、アルフレッドによって新しく結び直された染み一つない白いリボンである。前のリボンの行方は知らない。
アルフレッドの指は宝石の辺りを撫でているというのに、その瞳はノアの顔を見ていた。あの夜、あの男に触れられた時は寒くて嫌な感触が背中を上ってきたのに、やはりアルフレッドの体温が宝石に触れてもそんな感覚にはならない。撫でられていると落ち着いていく、そんな心地良ささえ感じていた。
「アルフ、いつ帰って来たの…?」
「夜半だ」
「……起こしてくれればよかったのに」
「起こしてどうする」
前と同じ言葉だとノアは思った。アルフレッドは、覚えていないだろう。
これまでに積み重なってきたいくつもの夜のうちの一つを、その中の言葉の一つを、アルフレッドが覚えているはずがない。
アルフレッドにとっては、何も意識せずに口から出た言葉の一つだ。ノアにとっては、あの時と同じだと、彼の言葉と表情の全部を覚えていたいものであっても。同じ言葉がまた届いたことを、ノアだけは胸の中で温かく感じた。それで良いとも思った。
アルフレッドの指が下りてきて、ノアの目元をゆっくりとなぞる。
「目が腫れている」
「……ん」
「眠れなかったか」
問いの形をしてはいたものの、ノアの口からの答えを求めていなかった。事実として既に見えたものを、問いの形として残している。
ノアが何も言わないでいると、アルフレッドの親指の腹がまるで涙を拭うように、もう一度その目元を撫でた。それから、僅かに口の端が上がる。揶揄うときの表情に似ている気がした。
「俺がいない間に、随分大人しくしていたらしいな」
「アルフが…いなかったから」
「そうか」
その声は何かの色があるような、それでいて何かの色が欠けているような、不思議なものだった。今までの言い方と似ている気がするのに、何かが足りない気がした。
大人しくしていたつもりは、ノアにはなかった。そうする以外の過ごし方を知らなかっただけだった。
けれど、その違いを言い直すための言葉をノアは持っていなくて、持っていないことにも気づかないまま、ただ足りない何かを見ていた。
───三日離れても、この子は離宮の中で自分を待っている。待つ以外のことを、この子は選ばない。
三日の間、ノアが何を選んで過ごしていたのかを、アルフレッドは問わなかった。問う必要のあるものがそこにあるとは、考えていなかった。
熱と快楽にうなされながら「好き」と形にしたその心が、容易には離れないとアルフレッドは知っていた。
その通りに過ごしていたことに、充足感に似た何かを感じていることに気づかないまま、アルフレッドは話を切り出した。
「焦る必要はないが、そろそろ起きるといい。今日は長くなる」
「今日…?」
ノアが上体を完全に起こしてから、首を傾げた。
「王宮へ行く。お前も、連れて行く」
まだ目が覚め切っていないノアの前に、その言葉が突然置かれた。数秒の間黙りこんだノアは、自分の中でその言葉の意味が少しずつ浮かび上がってくるのを感じていた。
王宮は、先日襲われた場所だ。──あの時、振り返ってもらえなかった場所。
その二つが結びつきながら頭の中に思い浮かんですぐ、ノアは無意識に唇を引き結んでいた。掛布の上に両手が力なく下りたまま、どこともいえない所に視線を落としぼんやりと眺める。
胸の奥で、また何かが沈もうとしていた。
「儀式……?」
意味がわからないままにノアは無意識に頷き、そして尋ねていた。
離宮の外に出るのは、あの夜と今日で二回目になる。どちらも同じ場所だった。自分以外と離宮の外に出てはいけないとアルフレッドは言って、そしてアルフレッドと一緒なら外に出られるのかと聞いたことがある。その時はいずれと、当分は我慢するようにと返された。そのいずれが来るのはいつだろうと、ノアの心は実は楽しみにしていたのだ。けれど、いずれ行けると期待していた場所とは違う所に、二度も行くことが決まっていた。胸の奥で沈んだ何かが、冷たくなっている気がした。
「儀式ではない」
「じゃあ、」
「俺の用事だ。お前は別室でそれが終わるのを待っていればいい。長くはかからない」
アルフレッドはその一言で全てを言い切っていた。儀式かと聞いたことへの答え、そしてノアが聞くよりも先に、ノアは何をすればいいのか、どのくらいそこにいればいいのか、全てを言っていた。
ノアはその言葉を聞いて、それ以上は何も聞かずに頷いていた。
これ以上のことはノアに説明する必要がない。そういうものだと、この数日の間にノアは学んでいた。ノアに話して理解できることは、この一言以上にはないのだとわかった。どうしてわかるようになったのかは、わからない。
あの場所に行くのが怖いと言わなかった。
言えば、アルフレッドはその言葉を片付けてしまう。綺麗にされてしまえば、自分がそこへ行く理由がまた少しわからなくなる気がした。怖いけど、行かなくていいものをアルフレッドは言わない。だから、行かなくてはいけないのだ。ノアが怖くても、行かないといけないのなら行く……そういうものなのだと納得した。
「肩は本当に大丈夫なんだな?」
まるで確かめるように、もう一度、今度は布越しではなくノアの寝衣の襟から素手の指を滑り込ませ、アルフレッドが尋ねる。
右肩の鎖骨の下にまで届いたその温度の高さに、少し身体を跳ねさせながら、ノアは小さく頷いた。
「ん……」
「あの夜に外されたのは、ここだったか」
「うん、たぶん」
「跡は残らなかったな」
「……うん。フルールのおかげで、全部治ったよ」
ノアは少し笑った。その笑い方がいつもより下手だったことに、ノア自身は気づかなかった。すぐ近くから、アルフレッドの赤紫の瞳がそれを見ていた。
あの後、ノアは自分の肩を鏡で何度も確かめていた。
フルールが治癒魔術をかけながら傷跡を残さないと呟いた時、恐怖もあった。何が怖かったのかまでは思い出せないが、その後何度も鏡で傷跡がないか確かめようとしていた。
そう思い起こしているうちに、アルフレッドの指は鎖骨の下の肌を確かめていた。触れている肌は、知らない手に触られて冷たくなった場所と同じだと思った。
三日の間、ふとした拍子に戻ってきたあの冷たさは、今触れているアルフレッドの手の下で少しずつ温まっていくようである。すぐに冷えてしまった所が、今はすぐに冷えなかった。それが嬉しいと感じている気がするのに、感じた理由までは行き当たらなかった。
アルフレッドの手は肩から首筋、それから頬へ移った。
撫でるというよりも、確かめるような触れ方だった。ノアの寝起きの体温と自分の指先の温度とを、ひとつずつ照らし合わせるようなもので、等しくなっていく互いの温度がノアには気持ち良かった。
痛み、熱、目の腫れ。三日前の夜がノアの身体に残したものを、アルフレッドの手が確かめ、確かめ終えた場所から順に離れていく。その手つきが心地良いのに、確かめられていく度に、胸の奥の重さだけが手つかずのまま取り残されていく気がした。
「アルフ」
「なんだ」
どうしてかわからずノアは名前を呼んでいた。何を言葉にするか全く決めていなかった。
話したいことも聞きたいこともたくさんあった。この三日間で、色々なことを考えていた、気になっていた。だから聞きたかったはずなのに、すぐに言葉は出てきてくれなかった。
会えなかったこと。
王宮の廊下で、名前を呼んだのに振り向いてもらえなかったこと。
しかし、ノアはそれが喉元にすら上がってこないのを感じた。覚えているはずがないのだ。小さな、特に必要のなかったノアの呼びかけなど、あの時のアルフレッドにとっては数ある音の一つに過ぎなかったのだろうから。
ノアの唇が何かを言おうと動いて、やがて閉じた。それを見ていたアルフレッドの指の動きが止まる。
ともだちにシェアしよう!

