34 / 47
深夜の笑い声
凪が店前の暖簾をしまうために玄関に出ると、村の中に並べられた行燈の灯が、村の中を流れる川から上がる湯気をユラユラと照らしている。そんな幻想的な光景が凪は好きだ。
湯玄が椿屋に来てから、源泉から湧き出る湯量が増えている。それは凪が湯石をもっていることと、湯玄が凪の傍にいつもいることが関係しているのだろう。
それをいいことに「ほら、私に力を授けるのだ」と、凪の体に触れようとする湯玄から逃げ惑う凪に、そんな様子を見て目くじらを立てる泰富の姿が、椿屋の日常風景となっていた。
そんなことを露も知らない村人たちは、湯玄に花嫁を捧げてもいないにもかかわらず湯量が増えたことに首を傾げている。中には「何か悪いことが起こる前兆かもしれない」と噂する者さえいるくらいだ。
しかし、湯量が戻りつつある湯滝村には、もう一つ大きな問題が持ち上がっている。
それは稲の不作続きだ。近年湯滝村は雪が多く、春になっても寒い日が続いている。加えて日照時間が短いことが原因で、発芽した芽は皆病にかかり枯れてしまうのだ。
稲だけではなく、収穫できる人参や大根は痩せ細り、芋は赤子の握り拳くらいしかない。それでも頑張っている農家を見ていると、凪の心は痛んだ。
「なぁ、湯玄様。あんたの力で作物を実らせることはできないのか? もし稲を豊作にしてくれるのならば、口付けくらい我慢するからさ」
「はぁ? 稲だと?」
そんな凪の言葉を聞いた湯玄が、風呂掃除をする手を止めて凪を睨みつける。椿屋の仕事に慣れてきた湯玄は、風呂掃除も手慣れたものだ。
珍しく自分に冷ややかな視線を向ける湯玄に、凪は腰が引けてしまう。やはり神様と呼ばれるだけあり、湯玄の威厳は別格に感じられた。
「私は温泉の神であり、五穀豊穣の神ではない」
「そっか、それは残念だな」
「それに、口付けくらい我慢するなんて、大分失礼ではないか? その言い回しだと、其方は私と渋々口付けをしていたように聞こえるのだが?」
「そ、それは……」
湯玄の問い掛けに、凪は一瞬言葉を詰まらせてしまう。うっかり凪が漏らした言葉が湯玄の機嫌を損ねてしまったらしい。
しかし、湯玄の言う通り渋々口付けをしていたわけではないが、自ら望んでしていたわけではない。凪は、過去に湯玄との間に起こった出来事を未だに清算できずにいることは確かだ。
「湯玄様、ごめん。機嫌直してよ」
「嫌だ。なぜなら私は深く傷ついたのだから」
「そんな……」
まるで子供のように不貞腐れる湯玄を見ていると、凪は可笑しくなってしまう。これが本当に神様なのだろうか? そう思うと、笑いが込み上げてきてしまった。
「湯玄様、機嫌直してよ。この後甘酒を入れてあげるからさ」
「なぬ? 甘酒だと?」
「あぁ。風呂掃除が終わったら湯玄様と一緒に飲もうと思って、温めておいたんだ」
甘酒、という言葉を聞いた湯玄の表情が一瞬で明るくなる。どうやら機嫌が直ったようだ。
「仕方がない、甘酒で手を打とう。ではさっさと掃除を終わらせるぞ」
「うん」
凪が湯玄に笑いかけると、顔を赤くしてからふいっとそっぽを向いてしまう。そんな姿も可愛らしいと思えてしまうから不思議だ。
「凪よ、お詫びに其方から口付けをしてくれても構わんぞ?」
「おい、調子にのるとお湯をぶっかけるからな」
「なんだと⁉ 私は湯の神様だぞ!」
「あはははは!」
空から雪が舞い降り始めた深夜、凪の笑い声が静かな空間に響き渡ったのだった。
ともだちにシェアしよう!

