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五穀豊穣の神

 それはよく晴れた午後の出来事だった。  凪が朝早く洗濯して干した着物が、春の香りを含んだ風に揺れている。最近は、虎徹の小さくて可愛らしい着物も一緒に干されていて、その穏やかな光景に思わず目を細めた。  椿屋の前に植えられた大きな姫椿の花が、一つ、また一つと花を咲かせ始めている。近くには蝋梅も植えられており、黄色くて小さな花が満開を迎えていた。風に漂ってフワリと漂う蝋梅の花の香りを、凪は思いきり吸い込んだ。 「よし、もう少し頑張るぞ!」  大きく伸びをしてから椿屋に戻ろうとした時、「おこんにちは」と背後から声がする。凪が振り返ると、そこには長身の男が立っていた。  涼しげな切れ長の瞳に、黄金色の髪が風にさらさらと揺れている。すらりとした長い手足に細身の体格をしているのに、貧弱な印象は受けない。人懐こく微笑むと、両側に鋭く尖った八重歯がちらりと見えた。 「あ、こんにちは」 「急にすみませんね」  突然声をかけられた凪は思わず体を硬くする。こうやって何の前触れもなく話しかけられるときには、ろくなことが起こらない。そう思うと、無意識に警戒してしまった。 「ふふっ。そんなに警戒なさらずに。私は佐之助(さのすけ)と申します」 「はぁ……」  警戒するなと言われても、佐之助と名乗った男が目を細めて笑うと、なんだかひどく胡散臭く感じるのだ。うっかり気を許すと化かされてしまうのでないか? そんな危機感を抱いてしまう。  そんな不思議な雰囲気を纏った男だった。 「この椿屋には、絶品の稲荷寿司があると聞いて、遠路はるばる参りました。どうぞ、私にその稲荷寿司をいただけないでしょうか?」 「あ、これは失礼しました。お客様だとは思わずに……」 「いえいえ。胡散臭い奴だと思われるのは慣れていますので、どうぞお気になさらずに」 「え、あ、申し訳ありません!」   自分の心を見透かされたような気がして、凪が慌てふためいていると、佐之助がニコッと目尻を吊り上げた。 「私、稲荷寿司がとても楽しみです。ささ、参りましょう」  凪は佐之助に引きずられるように椿屋の中に入っていったのだった。 「これは美味しい! 絶品ですね!」  椿屋のお座敷に佐之助の声が響き渡る。昼時を大分過ぎてしまっているせいか、客は佐之助しか見当たらない。  佐之助は出された稲荷寿司をペロリと平らげてしまった。 「本当に美味しいですね。あと五個いただけますか? あと、お茶ももう一杯お願いします」 「あ、はい。今持ってきますね」 「はい。よろしくお願いします」  佐之助が目を細めて笑うと、鋭い八重歯を窺い見ることができる。ひどく稲荷寿司を気に入ってくれたようで、凪は胸を撫で下ろした。  凪が厨房に稲荷寿司を取りに戻ろうとした時、聞き慣れた声に呼び止められた。 「おい、凪」 「あ、湯玄様。おかえりなさい。用事はもう済んだのか?」  厨房に戻ろうとした凪を呼び止めたのは、朝から用事があると出掛けていた湯玄だった。最近、湯玄は疲れたような顔をしていたから、凪は湯玄が帰ってくるまで気が気ではなかったのだ。  無事椿屋に戻って来てくれたことに、安堵の溜息を漏らす。 「あぁ。用事といっても、湯花神社で少し休んできただけだがな。其方が生気を分けてくれないから、少しずつ神力が弱まってきてしまっているのだ。最近また、源泉の湯量が減ってきてしまったではないか?」 「それはそうだけど……。それより湯玄様、しっかり休めたのか?」 「心配には及ばん。今日あたり其方が口付けをしてくれたら……ん? あれは佐之助ではないか? 何で奴がこんな所に?」 「湯玄様、あのお客を知っているのか?」  湯玄が驚いたように見つめる視線の先には佐之助がいる。それに気が付いたのか、佐之助がこちらに向かってひらひらと手を振った。  「知り合いも何も……あいつは其方が待ち望んでいた五穀豊穣の神だ」 「え!? あの人も神様なの?」 「あぁ。あいつは宇迦之御魂神(うかのみたま)の佐之助。なんでこんな所にいるんだ?」 「稲荷寿司を食べに来てくれたんだ」 「なるほど……あいつはお稲荷さんだからな」  その言葉を聞いた凪ははっとする。先程から、佐之助は何かに似ている……とずっと考えていたのだが、なかなか考えがまとまらずにいたのだ。 「そうか。佐之助様は狐に似ているんだ」  そう考えれば、なんだか胡散臭く感じたのも、意味もなく化かされそうだと感じたことも、全てに納得がいった。  湯玄と佐之助は知り合いらしく、佐之助は人懐こい笑みをこちらに向けている。その笑顔も、狐だと思えば不思議と可愛らしく感じられた。  

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