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さらわれた花嫁
「湯玄様」
「ん? なんだ?」
優しい笑みを浮かべる湯玄に、凪の心は震える。
――俺だって、この人を失いたくない。
心の底からそう思った。
椿屋の前に咲いている姫椿の花は、枯れることなく地面にぽとりと落ちてしまう。昔からそれは縁起が悪いことだと敬遠されてきた。しかし、凪はそう思わない。枯れることなく自ら花を落とす椿はとても潔い。
目の前にいる湯玄は、まさに椿の花のようだ。あまりにも潔くて綺麗だけれど……それでは悲し過ぎるのではないだろうか。
「お願い、消えないで」
「凪……」
「あんたは、俺の初恋の人なんだから」
凪は湯玄の唇に自分の唇を押し当てる。「相変わらず口付けが下手くそだなぁ」と、またからかわれてしまうかもしれないけど、そんなことはどうでもいい。
そっと湯玄の唇を啄んで体を離した。湯石がいやに熱くて、凪の体も徐々に熱を帯びていく。凪と湯玄は指を絡めて、強く握り合う。心が締め付けられるように苦しいのに、幸せで。心が掻き乱されていった。
「私も凪が好きだ。離れたくない……」
初めて見る湯玄の切ない表情。この手は絶対に離してはいけないんだ……と凪は思った。
「凪、もう一度口付けをしよう?」
「うん」
凪は期待に胸を膨らませながらそっと瞳を閉じる。「可愛いな」という湯玄の声が耳元で聞こえてから、再び二人の唇が甘く重なった。
「あ、はぁ……」
湯玄との甘い口付けに、凪の唇から切ない吐息が漏れる。
「おぉぉぉ! 滝の勢いが増したぞ!」
「本当だ! もしかしたら我々の思いが湯玄様に届いたのかもしれない!」
温泉が凄まじい勢いで滝壺に落ちていく音と共に、村人から歓声が上がる。熱くなる湯石、柔らかな湯玄の唇。凪は眩暈を覚えた。
その時。
「わぁぁぁぁ!」
凪は何者かに体を掴まれ、勢いよく湯玄から体を引き離されてしまう。
「凪⁉」
「湯玄様‼」
咄嗟に湯玄が差し出してきた腕を掴もうとしたが、あと一歩のところで二人は引き離されてしまう。
「湯玄様‼ 湯玄様‼」
あんなに離してはいけないと心に誓った手と手が、いとも簡単に離れてしまったことが悲しかった。必死に湯玄の名を呼ぶが、無残にもその距離はどんどん遠くなっていく。
凪は体に熱風を感じた。それと同時に聞こえる荒々しい息遣い。まるで獣に噛みつかれたようだ……と恐る恐る顔を上げると、亜麻色の毛色をした獅子が視界に飛び込んできた。
「…………⁉」
凪はあまりの恐怖に言葉を発することさえできずに、目を見開いた。このまま殺されてしまうのだろうかと、全身からサッと血の気が引いていく。自然に体がガタガタと震え出した。
獅子の口からは鋭く大きな牙が生えている。しかし、凪が怪我をしていないところをみると、怪我をさせないよう加減して凪を咥えてくれているのかもしれない。いや、でもやっぱり自分を食べようとしているのだろうか……。
「なんなんだよ、こいつは……」
凪は混乱した頭で色々考えを巡らせてみるが、恐怖のあまり考えなどまとまらず頭の中が真っ白になってしまった。
獅子は立派な馬三頭分くらいの大きさで、亜麻色の長く美しい毛を夜風になびかせている。大きな前足から伸びた鋭い爪で攻撃されたら、きっとひとたまりもないだろう。
大きく見開かれた瞳は、毛と同じ亜麻色をしていた。
――なんて綺麗な獅子なんだろう。
凪が知っている獅子と言えば、神社の狛犬である紅さんと青さんくらいだ。あの二匹とは比べ物にならない程大きな体に、堂々とした風貌。そんな獅子を見て、凪の頭に一つの疑問が浮かんだ。
――この獅子、見覚えがある。一体どこで……?
凪はじっと獅子を見据え、震える声で問い掛けた。
「……お前は、何者だ?」
「さぁ、参りましょう。僕の花嫁」
「……なんだって……?」
獅子はそう言うと、疾風のごとく夜空を走り抜けていった。
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