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Episode01 最後の平穏
― 勇者side ―
「ルイ、今少し時間ある?神殿に届けて欲しいものがあるんだけど」
冒険者ギルドの煤けたカウンターの向こうから、幼馴染のノアが顔を覗かせた。
掲示板に並ぶ無機質な文字の羅列から逃れるように、ルイアスの視線がノアへと跳ねた。漆黒の瞳が幼馴染の姿を捉えた途端、その表情にぱっと笑みが咲く。
「あぁ、いいぜ。ついでにギルドの依頼もこなしてくるわ」
無造作に貼られた数多の依頼の中から、神聖な紋章の刻まれた一枚を選んで剥がす。
何てことはない、依頼品を届けるだけの簡単な仕事だった。
ノアの両手に抱えられているのは、籠に溢れんばかりの卵だ。ルイアスはそれを、カウンター越しに慎重に受け取った。
「すげぇ量。司祭様に差し入れか?」
「うん。今朝は特にたくさん産んでくれたんだ」
ふわりと笑うノアの笑顔は、綻んだ花を思わせた。
春の陽を溶かしたような金の髪。澄み渡る湖面を思わせる青い瞳。
あどけなさを残したその顔立ちは、青年というより、未だ少年の領域に片足を残しているように見える。
ギルドを訪れる者の中には、依頼より先に彼の顔を見に来る者も少なくない。
今も幾つかの視線がこちらを窺っている気がして、ルイアスは牽制するように周囲を見回した。
「ルイのぶんもあるよ。あとでオムレツつくってあげる」
「マジ?お前のオムレツは最高だからな。依頼こなしたらお前んち行っていい?」
「僕は仕事終わりにマザーのところに寄って帰るから、いなかったら上がって待ってて」
「おう、了解。マザーも卵好きだもんな」
孤児院を巣立って久しい今でも、二人は時折あの場所へ帰る。
手土産を抱えて顔を見せれば、マザーは決まって困ったように笑うのだ。
近々自分も彼女の元に顔を見せよう。手土産は何がいいだろうかと、そんなことを考えながらギルドを出た。
眩い陽射しに双眸を細めれば、春の光を纏った神殿の尖塔が遥か先に聳(そび)えている。
澄み渡る空はどこまでも果てがなく、頬を掠める風は芽吹の香りを連れていた。
広場の石畳の上を、子どもたちが笑い声を上げて駆け回っていた。
その無邪気な笑い声に、遠い記憶がくすぐられる。あの輪の中を駆けていたのは、そう昔のことではない。
屋台の並ぶ通りから、炭火で焼かれた肉の香りが風に乗って流れてくる。
ギルドの報酬で串焼きでも買って帰るか。
ノアの分は多めに。あいつはもう少し肉を付けた方がいい。
袖口から覗く白く細い手首が、ふと脳裏を過った。
世界は、あまりにも平穏だった。
神様なんてものは信じないが、今日も空の上で人々を見守っているのだと言われれば、そうなのかもしれないと思えた。
王都の中央に聳える神殿は、街のどこからでもその姿を望むことができた。この街に生まれ育った者なら、尖塔を一度も視界に入れずに一日を終えることはない。
日頃から祈りを捧げに訪れるノアとは違い、ルイアスにとって神殿とは遠くから眺めるだけの場所だった。
だからこそ、間近で見上げたその威容に思わず息を呑む。
蒼穹へ向かって鋭く伸びる幾本もの尖塔は、まるで天へと至る梯子のようにも見えた。
大神殿へ足を踏み入れた瞬間、ルイアスは思わず足を止めた。
見上げた先には、視界に収まりきらぬほど高い天井が広がっている。
高窓から差し込む陽光がステンドグラスを透かし、虹色の光が白亜の大理石へと降り注いでいた。
磨き上げられた床は鏡のようにその光を映し返し、神殿全体が淡い輝きに包まれている。
まるで王城だ、とルイアスは思った。
否、勿論王城になど足を踏み入れたことはない。だが、それほどの威容だった。
ここでは王ですら神の前に膝をつくのだと、誰かが言っていた。あながち誇張ではないのかもしれない。
こんな場所へ放り込まれれば、誰だって神の存在を信じてしまう。
信仰など持ち合わせていないルイアスでさえ、そう思った。
場違いも甚だしい。
居心地の悪さを覚えながら、ルイアスは周囲へ視線を巡らせた。
「えぇと、司祭様は何処に……」
気がつけば、大聖堂の奥へと足を踏み入れていた。
先ほどまでいた礼拝者たちの姿はなく、聖堂はしんと静まり返っている。足音だけがやけに大きく響いた。
足を踏み入れてはいけないところまで来てしまったのかもしれない。慌てて踵を返そうとしたそのとき、大聖堂の正面を飾る巨大な絵画が、ふと視界に飛び込んできた。
祭壇の、さらに奥。
そこには、壁一面を覆うほどに巨大な、一枚の絵画が掲げられていた。
描かれているのは、一振りの剣。
天を衝くように垂直に掲げられた白銀の刀身は、まるで光そのものを鍛え上げたかのように輝いている。
柄には金糸にも似た繊細な装飾が絡みつき、鍔からは翼を思わせる意匠が左右へと広がっていた。
背後には、幾重もの光輪が描かれている。
その中心に掲げられた剣は、まるで神の座そのものだった。
「――これは、聖剣です」
不意に届いた声に、肩が跳ねる。声のした方に視線を向けると、そこには神官が立っていた。金糸の刺繍が施された白衣を纏うその姿は、一目で高位の神官と知れた。
「あ……どうも、すみません。広過ぎて迷っちゃって」
「構いません。貴方がこの場に立っているのも、神の御導きでしょう」
「はぁ……」
如何にも居心地が悪い。早くこの場を離れたいと思うのに、その意思に反して視線は絵画の剣へと縫い留められてしまう。
踵を返そうとしても、胸の奥の何かがそれを許そうとはしなかった。
「聖剣は、神の欠片と言われています。この世に魔王が現れたそのときに、それを打ち滅ぼすべく勇者もまた現れる。聖剣は、その日を待っているのです」
「はは、お伽噺ってやつですね」
「いいえ。確かなこの世の理です」
世界を救う聖なる剣。
いつの日か現れる勇者の傍らに立ち、魔王を討ち滅ぼす神の使徒。
数百年前に実際にあった出来事だと聞いてはいる。
だがルイアスには、英雄譚の一節と大差ないように思えた。
――――……。
ふと、声が聞こえた気がした。
周囲を見回す。
いつの間にか、神官たちが皆こちらを見ていた。
背を冷たい汗が伝う。
呼吸が浅くなる。
喉がひどく渇く。
きっと今、自分はひどい顔色をしている。
抱えていた籠を落としそうになり、慌てて抱えなおした――その刹那。
――ドクン。
心臓でない何かが、身体の中で蠢いた。
それは、唐突だった。
異質な何かが、身体の内側で目を覚ます。
漆黒の瞳が、見開かれた。
嫌な予感がした。
本能が逃げろと叫んでいた。
だが、逃げようがない。
抱えていた籠が落ちる。
地に叩きつけられた卵殻が、躊躇いのない圧に応えるように脆く砕けた。
外殻の破壊が本来あった姿の喪失を招き、中の世界がどろりと外に晒された。
それは二度と元には戻らぬ均衡の崩壊だった。
「待っ――」
言葉は最後まで続かなかった。
躰の中心が、軋む。
胸の骨が内側から、みしみしと押し広げられていく。
「……あ……っぐ……ッ」
信じ難い力だった。
内臓が圧迫される。肋骨の砕ける音がした。
次の瞬間、何かが弾けるような感覚が走った。
目の前が、真っ赤に染まった。
幾瞬かの後に、それが自らの身体から吹き出した鮮血であると気づいた。
「――え……?」
驚きに漏れた音は、声にならなかった。
代わりに喉から溢れ出るものも、鮮やかな赤色をしていた。
「……っ……ガハッ!」
その場に頽(くずお)れ、膝をつく。
止め処なく込み上げてくる熱い液体が、気道を塞いだ。
反射的に咳込むと、勢いよく吐き出された血液が、びちゃりと床へと散った。
白亜の床に散りばめられていた虹色の煌めきが、躊躇いもなく鮮紅に穢されていく。
ひどい耳鳴りの向こうで、鐘の音が聞こえた。
身体の芯を震わせる音が、幾重にも重なって鳴り響く。
周囲を取り囲む神官たちが一斉に膝を折り、天を仰いだ。
青年の世界を彩っていく赤を映す彼らの瞳は、愉悦にも似た気配を湛えている。
それは、信仰する神を仰ぐ眼差しそのものだった。
「神託が下された。是より、聖剣が顕現なされる」
大神官が、聖杖を掲げた。
「神の与え給うた奇跡に祝福を」
神官たちは皆、祈るように頭を垂れた。
静かに、涙する者すらある。
――は?何だよ、それ。
誰一人として、苦悶する青年へ手を伸ばそうとはしなかった。
――どうして誰も、助けてくれない。
奇跡の最中(さなか)にある青年の瞳だけが、深い闇色に染まっていた。
やがて眩い光の中から、一人の男が姿を現した。
白金の髪。
黄金の瞳。
神話の一頁から抜け出してきたような、美しい男だった。
――なんなんだ、これ。誰だよ、お前。
赤く染まった世界の只中で、青年は突如眼前に現れた男を仰いだ。
男は苦痛に顔を歪める青年を、感情のない瞳で見下ろした。
「――勇者よ」
――うるせぇ。黙れ。
視界が、暗くなる。意識が、遠退いていく。
――あいつが…待ってるのに……ノア……。
虚ろな目が最後に映したのは、己の血に塗れた、一振りの剣だった。
それが絵画と同じものだと気がつく前に、彼の意識は光に呑まれた。
神殿の鐘だけが、いつまでも鳴り続けていた。
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