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Episode06 甘美な熔解【R18】
―魔王side ―
宿屋の狭い一室は、いつも薄暗い。
窓を閉め切り、遮光のカーテンを引いた部屋には、微かな夜の雨の匂いに混じり、オルフェの纏う冷ややかな香炉の香りと、そして甘ったるい花の香りが満ちていた。
机の上に置かれているのは、お世辞にも豪華とは言えない、素朴なスープと硬いパンだけだ。時折オルフェは食べたいものを聞いてくるが、元より食が細いためか、用意されたものだけで満ち足りていた。
穏やかな静寂の中、オルフェが静かに問うてくる。
「スープが冷めてしまう。少し口にできるか」
漆黒の髪を揺らし、オルフェがベッドの端に腰掛ける。褐色の肌は、闇に優しく融け込むようだった。
向けられる金の瞳は、ただ、目の前で壊れそうに横たわる一人の人間だけを、深い色で見見下ろしてくる。
ずっと見つめていたい色だと思った。
「……うん」
身を起こそうとする細い肩を、すかさずオルフェの手が支えた。そのまま大人しく、腕の中に身を納める。
「オルフェの身体は、冷たいね」
「お前が望むなら、体温を上げることもできるが」
「ううん。ひんやりしてて、気持ちいい」
胸元に頬を押しつけて、擦り寄った。
布越しに感じる体温が、火照った頬に心地良い。
スープの器を差し出される。両手で受け取ったそれに、そっと口を付けた。
卵の優しい味がした。ふと、思い出されるものがある。
「オルフェは、オムレツ、好き?」
「私は、食べ物を摂取しない」
「……そっか。うん、そうだよね」
「食べたいのか?」
「……ううん。大丈夫」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。吐き出す吐息が、切なく震える。
脳裏に浮かびかけたものを振り切るように、細い指先がオルフェの服を小さく掴む。
「オルフェ、髪、梳かして」
彼の長い指先が、金色の髪をゆっくりと解いていく。
梳かれるたびに、さらり、と細い髪が指の間を流れていった。
指先が頭皮を滑る感触は心地よく、張り詰めていた肩の力が少しずつ抜けていくのが分かる。
まるで壊れものでも扱うような慎重さで、指は髪を梳き続けた。
規則正しいその動きに身を委ねていると、髪を整えられているというより、心のささくれまで一緒に撫で付けられているような錯覚を覚えた。
やがて、指先が名残を惜しむように髪をひと撫でする。
磨かれた金糸のような髪が、僅かな光を弾いた。
「ありがとう」
「お前の髪は美しいな」
「オルフェの黒い髪も、綺麗だよ」
この黒髪が陽光を浴びたとき、きっと黒いだけではないのだろう。
瞼の裏に、焼き付いている光景がある。
夜の欠片を編み上げたような黒だった。
陽を受ければ群青を宿し、風に揺れれば藍を零す。
黒は光を拒む色ではないのだと、その髪は教えてくれた。
「……どうした?」
「ううん。何でもない」
外界から切り離された、小さな鳥籠。
そこには雨音と、闇の香りと、二人分の呼吸だけがあった。
魔王は此処で、闇の深淵に甘やかに熔かされていた。
「オルフェ……僕、また少し、忘れちゃった」
オルフェの胸に顔を埋めながら、魔王は消え入りそうな声で呟いた。
雨に滲む水彩のように、人であった頃の色が溶けていく。
何が失われていっているのかは、明確には分からない。分からないが、好きだったもの、大切だったものが、少しずつ、ぼやけていくような感覚だった。
霧のように霧散していく輪郭は、誰のものだったろうか。
「怖いなら、思い出さなくていい。お前を苦しめる記憶なら、私がすべて塗りつぶしてやろう」
「……違うよ。忘れたいわけじゃないんだ。でも、思い出せない。思い出せなくなることが、怖い」
「思い出そうとしなくていい。忘れていくのであれば、それはきっと、お前には要らない記憶だ」
オルフェの低い声が、耳元で鼓膜を震わせる。
記憶を手繰り寄せようとするのを遮るように、オルフェの指が顎を掴んだ。迷いもなく、唇が降ってくる。
「……ん、ぅ……」
いつも気づけば、境界は曖昧になっていた。
齎される悦楽にずるずると溺れるように、この身はオルフェの差し出す闇を受け入れていた。
重ねられる唇は驚くほど優しく、呼吸を甘やかに奪っていく。
冷たい指先が衣服を割り、肌と肌が擦れ合う。
胸の奥の痛みは、気づけば随分と鈍くなっていた。
刺さっていた鋭利な棘は、寄せては返す波に磨かれる硝子片のように、静かに摩耗していった。
魔王は、魔剣にすべてを委ねる。
背に感じるシーツの感触よりも、オルフェの肌は冷たかった。
だが何故か、その冷たい指に触れられた箇所だけは、火がついたように火照るのだ。
「んっ……う、うぅ……っ」
大きな熱塊が、ゆっくりと身体の中に入ってくる。
細い体躯に対して、あまりにも無慈悲な質量だった。
「ゆっくりと息を吐け。目を閉じるな。私を見ていろ」
「っは……はぁ……あ、ぁ……」
「そうだ。上手いぞ。痛かったら言え、無理にはしない」
痛い。だがそれ以上に満たしてくれるものがある。
痛いと言えば、この優しい魔剣はそこで止めてしまう。それだけは嫌だった。
「大丈夫か?」
「ん……平、気……ぜんぶ、はいった……?」
「あぁ」
身体の内側に、新たな脈動を感じる。
それに呼応するかのように、胸元の魔痕がドクドクと熱く脈打った。
ナカの粘膜のすべてが、猛る熱に絡みつく。もう幾度も受け入れた相手のカタチを、この身体はしっかりと覚えている。
「ぁ、ん……っ……ぁ、あ、っ」
身体の中で蠢く熱が最奥を突いてくるたびに、熱い奔流が渦巻くように駆け巡る。
突き抜けるほどの悦楽に、目の前がチカチカした。
淫らな水音に、耳からも犯される。潤滑に使われた香油の香りが、気持ちよく鼻腔を擽った。あの、蕩けるように甘い花の香りだ。その香りは前よりも、いちだんと甘くなっている気がした。
「……あ……オルフェ、もっと……っ……」
何も、考えたくない。何も、考えられなくなる。
闇の奔流が、神経の先端まで駆け巡る。
爪先がぴんと伸びて、身体はおかしなくらいに震えた。
もっと欲しい。乞うように手を伸ばしてしがみつく。
それは、喉の渇きにも似ていた。飲んでも飲んでも癒されない渇き。
いずれ満たされる日など、来なければいい。
オルフェは応えるように、何度も奥を穿ってくれた。
見下ろしてくるオルフェの金の眼差しは、いつもと変わらず静かだった。動きだけが、激しくなっていく。
「あっ、あ、あ、……ッ……おる、ふぇ……だ、め、だめ……!」
「ん?やめるか?」
「あ、ッ……や、だ……やめちゃ、や……ぁ、あ、あぁっ」
「悦さそうだな。お前が気持ち良くなってくれるなら、私も嬉しい」
身体も、思考も、すべてを掻き回されたようだった。自分はこんなにぐちゃぐちゃなのに、オルフェはずっと冷静だ。温度差が、少し悔しい。
オルフェと、天井を映す視界が、大きく揺さぶられる。次第にその輪郭が滲み、溶けるように歪んでいった。
「……ふ……っ……」
涙が溢れた。
しかし、その涙の理由は解らなかった。理由を知ることが怖かった。
それ以上考えたくはなくて、さらなる闇を求めて縋りつく。
オルフェはその涙すら受け止めるように、そっと瞼に口付けてくれた。
「私の、可愛い魔王」
「ん……っ……あぁ、ぁ……!」
思考が、すべてを遮る暗闇に覆われていく。
どこまでも深い、安寧の闇色。
それは深い帳に包まれた、守護の揺籠のようでもあった。
この場所にある限り、決して傷つくことはない。
オルフェひとりが想ってくれるのであれば、それ以上は何も望まなかった。
不意に、背中へ誰かの気配が触れた気がした。
懐かしい、と感じた。
けれど、そんなはずはない。
次の瞬間には、その気配はまるで最初から存在しなかったかのように掻き消えていた。
雨粒が、屋根を叩く音がする。
外の雨は、勢いを増しているようだった。
すべて、洗い流してしまえばいい。
魔王は隔てられた暗がりで、蜜を含んだ声を零し続けていた。
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