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Episode08 慢心の足音
― 勇者side ―
「魔王の居場所が分かった」
月の妙に明るい夜だった。
いつものように音もなく傍らに立ち、ラグエルは言った。
突如姿を現す彼に、もうルイアスも驚かなくなっていた。
冷めた視線だけで、彼を見る。
「魔王の気配は魔剣が隠してるんじゃなかったのかよ」
「魔王の力が、隠す必要がないまでに成長したということだ。今の不完全なお前では勝ち目はない」
「そんなの、やってみなきゃ分かんねぇだろ。――行こうぜ」
退屈そうに机についていた頬杖を解き、ルイアスは立ち上がった。そのまま扉へと向かおうとする。
制止しようとするラグエルの腕を、ルイアスは乱暴に振り払った。
聖剣との交わりを拒み続けてはいたものの、血の滲むような鍛錬を重ね肉体を追い込んできたのだ。
ただ呑気に日々を過ごしてきたわけではない。
「早い方が楽だろ。さっさと終わらせよう」
慢心を覗かせる言動に、ラグエルはそれ以上何も言わなかった。
ただその瞳が冷え切っていることに、背を向けたルイアスは気づいていなかった。
※
「……ここか?」
ラグエルの言う気配を追って辿り着いたのは、王都の片隅に佇む、古びた木造の宿屋だった。
宿屋から滲む禍々しい紫黒の魔力が、夜の帳を侵食するように澱んでいる。
「ルイアス。悪いことは言わない。今すぐに引き返せ」
腰に据えられた聖剣の声が、勇者の脳内に直接響いた。
その声はいつにも増して、低かった。重苦しい振動が、脳を震わせる。
「んだよ、ビビってんのか?魔王と言えど元は人間だろ。条件は同じだ」
ルイアスは聞く耳を持たなかった。
魔王を討ち滅ぼせば、勇者はお役御免だ。さっさと終わらせて、家に帰ろう。
きっと、ノアが待っている。連絡もよこさなかった自分に、少しだけ頬を膨らませて文句を言うだろう。
そうだ、手土産でも持っていこう。卵を駄目にしてしまった詫びも兼ねて、アイツの好きなものを買っていってやろう。
そんなことを考えながら、宿屋の扉を押し開けた。
――その瞬間。
ぞわり、と。氷水を背骨へ流し込まれたような悪寒が、全身を一息に駆け抜ける。
思わず足が止まった。全身から、冷たい汗が噴き出した。
壁に掛けられたランプの火が、小さく揺れている。
油の匂いの染みついた空気が、肺に纏わりついてくる。
目に映るものは、どこにでもある寂れた宿の光景だった。
だが身体中の細胞が、警鐘を鳴らしていた。
肌が粟立つ。
血がざわめく。
胸元の聖痕が、凍りつくように痛い。
――戻れ。
身体の奥底で、何かが叫んでいた。
これより先へ進んではいけない。今すぐに引き返せ。
そう叫んでいるのが勇者の本能なのか、それとももっと別の何かなのか、ルイアスには分からなかった。
「……っ」
無意識に一歩後ずさる。
足元で、床板が軋んだ。
刹那、空気が変わったのを感じた。
言葉には形容し難い緊張が走り、針のような空気が肌を刺す。
まるで地の奥底に潜む何かが、こちらへゆっくりと視線を向けたかのような、そんな気配がした。
「もう、引き返すことはできない。――魔王に気付かれた」
頭の中の声が、低く言った。
「進むしかない。お前が決めたことだ。覚悟を決めろ」
「っせぇな……わかってる」
ルイアスの震える瞳が、二階へと続く階段の先を見据えた。
明かりに灯されているはずの場所は、深い闇が蠢いていた。伸びてくる闇に、絡め捕られそうな錯覚すら覚える。
――この先にいるものは、人ではない。
世界を滅ぼす災厄。
世界が生まれたその時から、幾重にも渡り討たれ続けてきた存在。
「生きて帰れる保証はないがな」
頭の中に響くのは、何処か吐き捨てるようでいて、それでも静かな声音だった。
珍しくも、確かな緊張が滲んでいる。
勇者と魔王。
光と闇。
救う者と、滅ぼす者。
討つ者と、討たれる者。
世界に育まれる者と、異形を育む者。
本来なら、未だ決して交わってはいけない二つの理が、今まさに同じ空間に在ろうとしている。
――ルイ。
不意に、耳の奥へ届いた声。
そんなはずはない。
けれど、聞き間違えるはずもない。
その声で、その口調で、ずっと昔から幾度も名を呼ばれてきた。
すぐ隣で笑っていた彼の、儚く優しいその声音。
「……ノア……?」
当然、返事はない。
ただ湿った空気だけが、澱のように沈んでいた。
それでも、確かにこの耳は聞いたのだ。
自分を呼ぶ、彼の声を。
来てくれ、と。
置いていかないでくれ、と。
今にも泣きそうな声だったように思う。
その声を聞いた途端、勇者だとか、魔王だとか、世界の敵だとか――そんなものはどうでもよくなった。
ただこの先にノアがいるというのなら、迎えに行かない理由はない。
勇者ではなく、ルイアスとして。ノアの幼馴染として。
本能の警告を踏み越えて、ルイアスは宿の奥へと足を踏み出した。
古びた木の階段へ、足を掛ける。
ぎし、と、湿気を吸った木材が、低く軋んだ。
二階からは、何の物音もしない。
本来あるはずの宿の主人の気配も、宿泊客の話し声も、食器の触れ合う音すらも。
まるで世界から音だけが失われてしまったような静寂だった。
一段。また一段と上るたびに、呼吸がしづらくなってくる。
冷たい鉛を直接肺に押し込まれているような、そんな息苦しさだった。
胸元の聖痕は、相も変わらず冷え切っている。身を凍てつかせるような感覚が、じわじわと全身へ拡がっていく。
頭の中の声も、沈黙を守っていた。
鼓動だけが、狂ったように早かった。
自分の心臓が奏でる音に違いないが、早めているのは血の奥底に刻み込まれた、聖なる本能に違いなかった。
――行くな。戻れ。それ以上進むな。
血が拒絶していた。
骨が拒絶していた。
この身を構成する何もかもが、ここから先へ進むことを拒んでいた。
「……うるせぇ」
この先に、ノアがいるかもしれない。
そう思うだけで、足は止まらなかった。
勇者としての自分と、ルイアスとしての自分が、互いに噛み合わない歯車のように、軋みを上げて擦れ合っていた。
やがて、最後の一段を上り終えた。
視線の先には、重い闇に覆われた廊下が続く。
泥濘に足を取られているかのように、歩みは鈍かった。
それでも長い廊下を歩んでいた足は、とある扉の前で、ぴたりと止まった。
まるで身体が扉の向こうに吸い寄せられるかのようだった。
その瞬間。
胸を締め付けていた重苦しい圧迫感が、不意に形を変えた。
今度は恐怖ではなく、何処か懐かしい、そんな感覚だった。
「――――……」
扉の向こうから、声がした。
今度ははっきりと、この耳に届いた。
あり得るはずがない。
それでも、ルイアスには分かるのだ。
扉の向こうにいるのは、魔王などではない。
――ノア。
顔を見たわけではない。
空気が、気配が、存在感が、彼の纏うそれだった。
十年以上隣にいたのだ――間違えるはずがない。
ルイアスは、扉の把手へと手を掛けた。
この先にノアがいるのなら、すぐにでも扉を開け放つべきだろう。
そう思うのに、何かがそれを阻んでいた。
手を掛けたまま、固まる。
5秒。10秒。或いはもっとかもしれない。
手のひらはじっとりと汗ばみ、指先は震えていた。
嫌な予感が脳裏を過る。思考がそれを否定し、本能がそれを肯定した。
薄い扉一枚が、世界を隔てている。
開ければすべてが終わる気がした。
開けなければ、まだ何も失ってはいない。
それでもルイアスは、開けることを選んだ。
ほとんど音もなく、扉が開く。
ほんの僅かな隙間から、部屋の中を覗き込む。
その先にあった光景に、ルイアスは絶句した。
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