9 / 10

Episode08 慢心の足音

― 勇者side ― 「魔王の居場所が分かった」 月の妙に明るい夜だった。 いつものように音もなく傍らに立ち、ラグエルは言った。 突如姿を現す彼に、もうルイアスも驚かなくなっていた。 冷めた視線だけで、彼を見る。 「魔王の気配は魔剣が隠してるんじゃなかったのかよ」 「魔王の力が、隠す必要がないまでに成長したということだ。今の不完全なお前では勝ち目はない」 「そんなの、やってみなきゃ分かんねぇだろ。――行こうぜ」 退屈そうに机についていた頬杖を解き、ルイアスは立ち上がった。そのまま扉へと向かおうとする。 制止しようとするラグエルの腕を、ルイアスは乱暴に振り払った。 聖剣との交わりを拒み続けてはいたものの、血の滲むような鍛錬を重ね肉体を追い込んできたのだ。 ただ呑気に日々を過ごしてきたわけではない。 「早い方が楽だろ。さっさと終わらせよう」 慢心を覗かせる言動に、ラグエルはそれ以上何も言わなかった。 ただその瞳が冷え切っていることに、背を向けたルイアスは気づいていなかった。           ※ 「……ここか?」 ラグエルの言う気配を追って辿り着いたのは、王都の片隅に佇む、古びた木造の宿屋だった。 宿屋から滲む禍々しい紫黒の魔力が、夜の帳を侵食するように澱んでいる。 「ルイアス。悪いことは言わない。今すぐに引き返せ」 腰に据えられた聖剣の声が、勇者の脳内に直接響いた。 その声はいつにも増して、低かった。重苦しい振動が、脳を震わせる。 「んだよ、ビビってんのか?魔王と言えど元は人間だろ。条件は同じだ」 ルイアスは聞く耳を持たなかった。 魔王を討ち滅ぼせば、勇者はお役御免だ。さっさと終わらせて、家に帰ろう。 きっと、ノアが待っている。連絡もよこさなかった自分に、少しだけ頬を膨らませて文句を言うだろう。 そうだ、手土産でも持っていこう。卵を駄目にしてしまった詫びも兼ねて、アイツの好きなものを買っていってやろう。 そんなことを考えながら、宿屋の扉を押し開けた。 ――その瞬間。 ぞわり、と。氷水を背骨へ流し込まれたような悪寒が、全身を一息に駆け抜ける。 思わず足が止まった。全身から、冷たい汗が噴き出した。 壁に掛けられたランプの火が、小さく揺れている。 油の匂いの染みついた空気が、肺に纏わりついてくる。 目に映るものは、どこにでもある寂れた宿の光景だった。 だが身体中の細胞が、警鐘を鳴らしていた。 肌が粟立つ。 血がざわめく。 胸元の聖痕が、凍りつくように痛い。 ――戻れ。 身体の奥底で、何かが叫んでいた。 これより先へ進んではいけない。今すぐに引き返せ。 そう叫んでいるのが勇者の本能なのか、それとももっと別の何かなのか、ルイアスには分からなかった。 「……っ」 無意識に一歩後ずさる。 足元で、床板が軋んだ。 刹那、空気が変わったのを感じた。 言葉には形容し難い緊張が走り、針のような空気が肌を刺す。 まるで地の奥底に潜む何かが、こちらへゆっくりと視線を向けたかのような、そんな気配がした。 「もう、引き返すことはできない。――魔王に気付かれた」 頭の中の声が、低く言った。 「進むしかない。お前が決めたことだ。覚悟を決めろ」 「っせぇな……わかってる」 ルイアスの震える瞳が、二階へと続く階段の先を見据えた。 明かりに灯されているはずの場所は、深い闇が蠢いていた。伸びてくる闇に、絡め捕られそうな錯覚すら覚える。 ――この先にいるものは、人ではない。 世界を滅ぼす災厄。 世界が生まれたその時から、幾重にも渡り討たれ続けてきた存在。 「生きて帰れる保証はないがな」 頭の中に響くのは、何処か吐き捨てるようでいて、それでも静かな声音だった。 珍しくも、確かな緊張が滲んでいる。 勇者と魔王。 光と闇。 救う者と、滅ぼす者。 討つ者と、討たれる者。 世界に育まれる者と、異形を育む者。 本来なら、未だ決して交わってはいけない二つの理が、今まさに同じ空間に在ろうとしている。 ――ルイ。 不意に、耳の奥へ届いた声。 そんなはずはない。 けれど、聞き間違えるはずもない。 その声で、その口調で、ずっと昔から幾度も名を呼ばれてきた。 すぐ隣で笑っていた彼の、儚く優しいその声音。 「……ノア……?」 当然、返事はない。 ただ湿った空気だけが、澱のように沈んでいた。 それでも、確かにこの耳は聞いたのだ。 自分を呼ぶ、彼の声を。 来てくれ、と。 置いていかないでくれ、と。 今にも泣きそうな声だったように思う。 その声を聞いた途端、勇者だとか、魔王だとか、世界の敵だとか――そんなものはどうでもよくなった。 ただこの先にノアがいるというのなら、迎えに行かない理由はない。 勇者ではなく、ルイアスとして。ノアの幼馴染として。 本能の警告を踏み越えて、ルイアスは宿の奥へと足を踏み出した。 古びた木の階段へ、足を掛ける。 ぎし、と、湿気を吸った木材が、低く軋んだ。 二階からは、何の物音もしない。 本来あるはずの宿の主人の気配も、宿泊客の話し声も、食器の触れ合う音すらも。 まるで世界から音だけが失われてしまったような静寂だった。 一段。また一段と上るたびに、呼吸がしづらくなってくる。 冷たい鉛を直接肺に押し込まれているような、そんな息苦しさだった。 胸元の聖痕は、相も変わらず冷え切っている。身を凍てつかせるような感覚が、じわじわと全身へ拡がっていく。 頭の中の声も、沈黙を守っていた。 鼓動だけが、狂ったように早かった。 自分の心臓が奏でる音に違いないが、早めているのは血の奥底に刻み込まれた、聖なる本能に違いなかった。 ――行くな。戻れ。それ以上進むな。 血が拒絶していた。 骨が拒絶していた。 この身を構成する何もかもが、ここから先へ進むことを拒んでいた。 「……うるせぇ」 この先に、ノアがいるかもしれない。 そう思うだけで、足は止まらなかった。 勇者としての自分と、ルイアスとしての自分が、互いに噛み合わない歯車のように、軋みを上げて擦れ合っていた。 やがて、最後の一段を上り終えた。 視線の先には、重い闇に覆われた廊下が続く。 泥濘に足を取られているかのように、歩みは鈍かった。 それでも長い廊下を歩んでいた足は、とある扉の前で、ぴたりと止まった。 まるで身体が扉の向こうに吸い寄せられるかのようだった。 その瞬間。 胸を締め付けていた重苦しい圧迫感が、不意に形を変えた。 今度は恐怖ではなく、何処か懐かしい、そんな感覚だった。 「――――……」 扉の向こうから、声がした。 今度ははっきりと、この耳に届いた。 あり得るはずがない。 それでも、ルイアスには分かるのだ。 扉の向こうにいるのは、魔王などではない。 ――ノア。 顔を見たわけではない。 空気が、気配が、存在感が、彼の纏うそれだった。 十年以上隣にいたのだ――間違えるはずがない。 ルイアスは、扉の把手へと手を掛けた。 この先にノアがいるのなら、すぐにでも扉を開け放つべきだろう。 そう思うのに、何かがそれを阻んでいた。 手を掛けたまま、固まる。 5秒。10秒。或いはもっとかもしれない。 手のひらはじっとりと汗ばみ、指先は震えていた。 嫌な予感が脳裏を過る。思考がそれを否定し、本能がそれを肯定した。 薄い扉一枚が、世界を隔てている。 開ければすべてが終わる気がした。 開けなければ、まだ何も失ってはいない。 それでもルイアスは、開けることを選んだ。 ほとんど音もなく、扉が開く。 ほんの僅かな隙間から、部屋の中を覗き込む。 その先にあった光景に、ルイアスは絶句した。

ともだちにシェアしよう!