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Episode09 鏡像の絶望【R18】

― 勇者side ― 部屋の中には、淡い月光が降り注いでいた。 凪いだ湖面を思わせる青白い光の中に、彼はいた。 月の光と同じ彩をした白磁の肌が、寝台の上で淫らに揺れている。 金の髪がしっとりと濡れて、白いシーツの上に乱酷に散っていた。 「――は……?」 震えるルイアスの視線の先で、透き通る肌が月光に濡れていた。 浅い呼吸を繰り返しながら、背中を大きく弓なりに反らせている。 ――それは紛れもなく、ノアの姿形をしていた。 流麗な曲線を描く脚の間に、漆黒の髪と褐色の肌を持つ美貌の男がその体躯を沈めていた。 ノアは男に細い腰を深く抱き竦められ、一糸纏わぬ姿を曝け出している。 細い腕が、その身に圧し掛かる男へと縋りつくように伸ばされていた。 その碧眼が湛えるのはかつての純無垢なものではなく、蕩けた快楽の熱に溺れきったそれだった。 「あれが魔王だ。相手は魔剣だな」 ラグエルの冷えた声が鼓膜の内側に響く。 目の前に広がる凄絶な情景に、ルイアスの足と視線は、縫い付けられたように動かすことができなかった。 熟れた果実が腐り落ちたような甘ったるい香りが鼻腔を満たし、脳髄を痺れさせる。 「そんな……わけ、ないだろ……なんで……なんであいつが……」 汗ばんだ肌とシーツが擦れ合う、冷ややかな音。 不規則に響く、淫らな潮奏。 力なく開かれた唇が零す、微かな艶声と乱れた呼吸音。 それらが重なり合う気配だけが、静寂の底にひっそりと波紋を落としていた。 「――あぁ…っ、 ぁん……っ」 いっそう深くを穿たれたノアの口から、甘い悲鳴が漏れた。 繋がったままびくびくと痙攣し続けた体躯が、やがてゆっくりと脱力する。 次の瞬間、絶頂の余韻を帯びたノアの気怠げな視線が、扉の隙間に佇むルイアスを真っ直ぐに捉えた。 重なる視線。 ルイアスは息を呑み、その場から動けないでいた。 ただ自分の耳障りな呼吸の音だけが、うるさいくらいに繰り返されていた。 先ほどまで部屋に響いていた耽溺的な音が、鼓膜に纏わりついて離れない。 ずっと、大切だった。触れたいと思うことはあっても、関係が変わってしまうのが怖くて、その想いを閉じ込めてきた。 キスどころか、手を繋いだこともない。指先がその肌に触れた記憶すら、まだそのような欲の欠片すら抱かぬ遥か遠い昔のことだった。 ――それなのに。 白い肌を、余すところなく曝け出している。衣服の下に隠されていた肌は、こんなにも妖しく滑らかだった。 吸い付くような肌に触れているのは――艶めかしい体躯に覆い被り、その身に自身を深く割り込ませているのは、自分ではなく、禍々しい見た目の見知らぬ男だった。 ルイアスの清純を装っていた心の壁が、音を立てて崩された。 隠されていた昏い劣情が曝け出され、ルイアスの乾いた喉を鳴らした。 下腹部の辺りがじんと熱くなる本能の浅ましさを、絶望的な思いで感じ取る。 ノアはただ、寝台の上に身を横たえたままルイアスを見ていた。 慌てる風もなく、恥じることも隠すこともせず、ただじっと、ルイアスを見つめている。 「――――……」 やがて、その濡れた唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。 ルイアスはそれを、信じられないものを見る眼で見ていた。 それはもう、ルイアスの知るノアの顔ではなかった。 そのあまりに妖艶な表情を、ルイアスは瞬きをすることも忘れて魅入った。 「ルイアス!目を閉じろ!!」 ラグエルがそう叫んだときにはもう、遅かった。 脳が処理するよりも早く、理性を見失ったように、聖剣を抜き放つ。 「ノアから離れろ、化け物ッ!!」 床を蹴り、必死の剣技で斬りかかる。 しかし、その刃がオルフェに届くことはなかった。 オルフェがその金の瞳を僅かに細めた瞬間、濃縮された魔力の圧が、ルイアスの肉体を音もなく凪いだ。 見えない力に、ルイアスの身体は赤子同然に弾き飛ぶ。 「が、はっ……!?」 床に叩きつけられ、背を強かに打ちつけた。 息をすることもままならないルイアスを、オルフェの冷たい双眸が射る。 「近寄るな、勇者」 「くそっ……ノア…ノア!!」 ルイアスは、叫ぶようにノアの名を呼んだ。 しかしノアはどこか遠い眼をして、窓の外の月を仰いでいた。 まるでルイアスの姿など、視界の隅にも入っていないかのように。 かつてはルイアスが呼べば、すぐに振り向いてくれた。 真っ直ぐに向けられる曇りのない瞳は、硝子玉のように輝いていた。 手を伸ばせば、届きそうな距離にいる。 だがその距離は、果てしなく遠いようにも感じられた。 白い肌も、金の髪も、碧い眼も。 すべてを月の彩に染めた姿は、色彩の一切を失ってしまったかのようにルイアスの眼には映った。 「ノア!操られてるんだろ……!今助けてやるから……!」 痛む身体を奮い立たせ、立ち上がろうとしたルイアスの前に、オルフェが立ちはだかる。 その背後から、シーツだけをその身に纏ったノアが、静かに歩み寄ってきた。 「――違うよ、ルイ」 ノアの声は、ルイアスのよく知るものだった。 しかしそうでありながら、脳を甘く痺れさせるような響きをもっていた。 「精神魔法だ。魔王の声を聞くな!」 頭の中でラグエルが必死に叫んでいる。だが、その声すらひどく遠く、煩わしい。 ルイアスの全身の細胞が、魂が、ノアの声を、その吐息を渇望していた。 意識のすべてが、目の前の甘美な存在に吸い寄せられていく。 「久しぶりだね。元気だった?」 「ノア……ノア、ごめん、俺……!お前を、置いて……っ」 地に伏せたまま見上げるルイアスを、ノアは静かに見下ろしていた。 かつては晴れ渡った空のようだった碧眼。その奥で今は、鮮やかな金の彩色が、まるで生き物のように妖しく燦めいている。 人の理を外れたその瞳はゆっくりと瞬きを落とすたびに明滅を繰り返し、ふと昏い彩を落としたときには、部屋を満たす月光すらも吸い込んでいくようだった。 「僕は、操られてなんかいないよ」 ノアは穏やかにその双眸を細めた。 纏ったシーツから覗く鎖骨には、オルフェにつけられた生々しい痕が、まるで呪印のように赤黒く浮かび上がっている。その淫靡な色から、ルイアスは眼を逸らすことができないでいた。 胸元に刻まれた勇者のものとは異なる紋様が、仄かに金色を帯びている。 「僕が魔王になったあの日、世界中が敵になった気がした。痛くて、怖くて、ずっと続く絶望に、いっそ死んでしまいたいと思った。でも、誰にも助けてって言えなかった。だって僕は、魔王だったから」 ノアの告白が、ルイアスの胸を容赦なく突き刺す。 ルイアスは勇者として目覚めたとき、聖痕を成す痛みは既に消え去り、その後は神殿で至高の環境を与えられていた。ラグエルや神官に、八つ当たりする余裕すらあった。 だが『光』に選ばれなかったノアは、どうだったのか。 深淵を思わせる瞳が、その絶望のすべてを物語っているようだった。 「オルフェだけだった。僕に触れてくれたのは。大丈夫だって、頑張ったねって、そう言って僕の痛みごと抱き締めてくれたのは」 魔剣の化身が、静かにノアの背後から寄り添った。 褐色の逞しい腕が、ノアの細い首と腰に回されて、その身を護るように、そして所有を主張するように抱き竦める。 オルフェの黄金の双眸が、ノアの瞳の奥で揺れる金色と不穏に共鳴していた。 「……ルイは?」 オルフェの大きな手が、シーツから覗くノアの腹部に散る白濁を、その指先でゆるく塗り拡げる。 ノアはぴくりと一瞬身を強張らせ、そして熱を帯びた吐息を漏らした。 「ルイも、痛かった?そばに、誰かいてくれた?」 ルイアスは何も答えられなかった。 否、何も考えられなかった。脳髄まで闇に塗り潰された思考は、完全に考えることを放棄していた。 胸の裡で狂ったように暴れる鼓動と、浅く速い呼吸の音さえ、ひどく遠いもののように掠れていた。 「さよなら、ルイ。僕はもう――戻れないから」 茫然と見上げるルイアスの眼の前で、魔王の半身であるオルフェが魔剣へとその姿を変えた。 ノアの手に握られた刀身が闇色に揺らめいた刹那、ルイアス目掛けて大きく振り下ろされる。 身体が、動かない。 避けられない。 ――終わった、と。辛うじてそれだけを思うよりも早く、ルイアスの眼の前に長い白金の髪が流れた。 ギィン!! 金属がぶつかり合う激しい音と共に、光の欠片が砕け、宙を舞う。 そこには、闇を払う輝きを纏う聖剣の姿があった。ラグエルの姿に重なるようにして、剣の輝きが透けて見える。 激しく鼓膜を叩く音に、どこか遠くに追いやられていた意識が引き戻される。 「……っ……勇者を殺すな。神の意思に逆らう気か」 魔王の手に握られた魔剣が纏う闇は、聖剣の光を以てしても少しも揺らぐことはなかった。 それどころか、光のすべてを吸い込むような漆黒を前にして、聖剣の輝きはあまりに心許なくも感じられた。 「その出来損ないが消えれば、次の勇者が生まれるだろう。その方が、早いのではないか?」 そう言うと、魔剣は再び褐色の青年の姿をとる。 「それを決めるのはお前の役目ではない。神はこれを選んだ。私にはこれを護り育てる使命がある」 二本の剣が交わす会話の意味は、ルイアスには分からなかった。 ただ、ラグエルがこの身を庇ってくれたことだけははっきりと分かった。 今も魔王と魔剣から護ろうとするかのように、目の前に立ち塞がってくれている。 ラグエルは、なおも言葉を続けた。 「お前こそどういうつもりだ。定められた理を逸脱するとは……お前らしくもない」 「……ふん。お前が出張ると踏んでいたに過ぎん」 魔剣の凍るように冷えた眼が、その脚で立ち上がることも叶わない非力な勇者を見下ろした。 「……脆い。あまりにも。これでは、世界を滅ぼし尽くしてしまうかもしれん」 道端に転がる塵芥を見るような眼に、ルイアスは掌を握り締めることしかできなかった。 オルフェは、どこか虚ろな瞳で佇んでいる魔王の身を囲い込むように抱いた。 回された腕に、ノアはそっと自らの手を重ねる。その瞳だけは、ずっとルイアスを映していた。 そのまま闇に融けるように、二人はその場から姿を消した。 「……ノア……」 残された勇者は床に頽(くずお)れたまま虚空を見つめ、震える声でその名を呟いた。 カシャン、と。聖剣が床を叩く音が響き、無機質な残響だけが静寂の中に残った。 厚い雲が、月の姿を覆い隠す。 彩の欠けた世界は終にすべての色を失って、ただ黒一色に包まれた。

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