11 / 29
Episode10 後悔と決意
― 勇者side ―
白亜の檻へと戻されたルイアスは、力を失った人形のように、大理石の床へ崩れ落ちた。
込み上げる嗚咽を噛み殺そうとするたび、喉の奥が引き攣れるように痛んだ。
視界は涙で激しく滲み、床へ敷かれた上質な絨毯へ、大粒の雫がひとつ、またひとつと吸い込まれていった。
「何を……やっていたんだ、俺は……!」
床を叩きつけた拳から、じわりと血が滲む。
だが、その痛みさえ今のルイアスにはあまりにも軽かった。
脳裏に焼き付いて離れない光景がある。
月光と同じ彩をしたノアの姿。
薄い影が浮かび上がらせる輪郭。
自分の知らない時間。
自分の知らない痛み。
自分の知らない表情。
そのすべてを埋めたのは、自分ではなかった。
苦しいとき、傍にいたのは。
絶望に沈んだとき、その手を取ったのは。
壊れてしまいそうな夜を、共に越えたのは。
――勇者である自分ではなく、あの魔剣だった。
もう手を伸ばしても届かない場所へ行ってしまったのだと、否応なく突きつけてくる現実が、鈍い刃のように胸の奥を抉る。
ルイアスは、己の掌を見つめた。
手のひらの皮は、木剣を振り続けたせいで、彼方此方が破れている。
ラグエルの忠告を頑なに拒み、自分の力だけで強くなるのだと意地を張り続けた無様な証が、そこにはあった。
鍛錬そのものが無意味だったとは思わない。
だが、自分は剣を振っていたのではない。
神に選ばれた現実から目を逸らし、勇者であることを拒み続けていただけだ。
反吐が出るほど、愚かな甘えだった。
この一か月は、前へ進むための時間ではなかった。
受け入れ難い現実に背を向け、己を誤魔化し続けるための猶予だった。
戦っているつもりだった。
抗っているつもりだった。
だが違う。
ルイアスは、ただ立ち止まっていただけだった。
その間にも、ノアは痛みに耐え、絶望の中に独り取り残されていた。
自分が神殿で怒りをぶつけ、意地を張り、無意味な反抗に時間を費やしていた、その間にも。
もし最初から神の力を受け入れ、完全な勇者としてノアの元へ駆けつけていれば、何かが違っていただろうか。
少なくとも――今よりは、ずっと。
何よりも守りたかった存在に、指先ひとつ触れることすら叶わなかった。
伸ばした手は届かず、ただ無力に地へ這い蹲ることしかできなかった。
己の浅慮が。
己の傲慢が。
取り返しのつかない時間を生んだのだ。
抉られた胸の奥で、なおもぎらついた光を放つものがある。
魔剣の黄金の双眸。
そこに宿っていたのは、怒りでも憎悪でもない。
あまりにも矮小な者へと向ける、冷え切った無関心。
道端に転がる石ころでも見るような、侮蔑を隠そうともしない眼差しだった。
あの瞳は、己の愚かな驕りも、独りよがりな意地も、すべてを見透かしていた。
「……魔王って、この世界を壊すんだろ」
声は、ひどく掠れていた。
静まり返った室内に、呟きだけがぽつりと落ちる。
いつの間にか背後へ立っていた白金の光――ラグエルが、感情の見えない黄金の瞳でルイアスを見下ろしていた。
「あぁ。それが魔王という存在に課せられた理だ」
「なら、何かの間違いだ。あいつに、そんなことできるわけない」
ルイアスは力なく首を横に振った。
頬を伝った雫が、またひとつ、大理石の床へ落ちる。
「だってあいつは……誰より優しくて……いつも笑ってて……神様にも毎日祈ってて……」
震える吐息が、言葉を途切れさせる。
「俺なんかより、ずっと……綺麗な奴で……っ」
浮かぶのは、綻ぶように笑う顔だった。
少し困ったように、眉を下げる表情。
嬉いとき、細くなる双眸。
驚いたとき、さらに大きくなる硝子玉のような瞳。
出来上がったオムレツを得意げに差し出してくれた、あの柔らかな笑顔。
当たり前のように隣にあった日々。
明日も、その次の日も、ずっと続いていくものだと疑いもしなかった時間。
気づけば、自分は随分と遠くまで来てしまったらしい。
もう二度と戻れないほど、遥か遠くへ。
「逆じゃねぇの……。カミサマ、間違ったんだって。本当は俺が魔王で、あいつが勇者だったんだって!じゃないと……おかしいだろ……どう考えたってさ……!!」
もし、自分が魔王だったなら。
ノアが光に選ばれていたなら。
あの優しい笑顔が絶望に染まることもなく、孤独に泣くこともなく、闇に呑まれていくこともなかったのではないか。
そんな救いのない仮定が、何度も脳裏を巡る。
だが、ラグエルの無慈悲な声音が、その淡い願いを容赦なく断ち切った。
「神は間違えない。お前が勇者で、あれが魔王だ。認めろ。それが、揺るぎのない事実だ」
「ラグエル……ッ!」
「どれほど心を痛めようと、理は覆らん。世界は、お前が魔王を討つことを求めている」
ルイアスは、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
世界など、どうでもよかった。
救いたいのは世界ではない。
「――ノア…!」
このまま自分が弱ければ、ノアは本当に『魔王』として世界に殺される。
あるいは――神に選ばれたこの手で、自分が殺さなければならなくなる。
そんな未来だけは、絶対に認められなかった。
「……どうしたら……あいつを止められる?」
ルイアスは、縋るようにラグエルを仰ぎ見た。
「今のお前には無理だ。あれはもう、限りなく魔王の完全体に近い」
視線が重なる。
だが、ラグエルの黄金の瞳は、縋るようなルイアスの眼を優しく受け止めてはくれなかった。
そこにあるのは慰めではない。救いでもない。
ただ事実だけを淡々と、その声音に乗せる。
「魔王は孤独だ。魔剣は、それにつけ込む。世界に拒絶された魔王の心を、逃れられぬよう精神的に囲い込む」
ルイアスの瞳の奥に、あの光景が蘇る。
褐色の腕は、その身を守るように、あるいは世界のすべてから隔てるように――静かに、だが決して逃がさぬように、ノアを抱いていた。
ノアはあの男に慰められ、あの腕に護られながら、孤独に倦んだ心を癒されていたのだろう。
そして、ノアはその腕を選んだ。
ルイアスではなく、オルフェを。
ラグエルの声音に、感情の揺らぎはなかった。
それは、幾度となく繰り返されてきた勇者と魔王の歴史を語る声だった。
救う者と滅ぼす者。
世に育てられる者と、異形を育てる者。
自ら育つ者と、魔剣に育まれる者。
世界が始まって以来、何度となく繰り返されてきた、冷酷で、揺るぎのない理。
やがて、ルイアスを射抜いていた黄金の双眸が、ほんの僅かに細められた。
「いつも、決まってそうだ。そうなるように定められている。――お前だけではない」
涙を流し、己を責め続ける勇者を憐れんだわけではないのだろう。
それでも、その声には僅かばかり、これまでにはなかった静かな音が滲んでいた。
ルイアスは、その微かな優しさの片鱗を振り払うように頭を振る。
「違う。俺のせいだ」
絞り出した声は、なおも掠れていた。
「俺が、そうすることを選んだんだ。ノアのところへ駆けつけられなかったのも、俺が不甲斐なかったからだ……」
「魔王は力をつけるまで徹底的に気配を殺す。仮にお前が自由に動けたとしても、見つけ出すことは不可能だった」
「それでも!!」
跳ねるように立ち上がり、ルイアスはラグエルの胸倉へ掴みかかった。
握り締めた指先は、自分でも情けなくなるほど震えていた。
「それでも、見つけてやらなきゃいけなかった!」
叫ぶたび、喉が焼けるように痛んだ。
「ノアは、たった一人で痛みに耐えてたんだぞ……!俺が呑気に神殿で飯食って、寝て、当たり散らしてた、その間……!」
脳裏に浮かぶのは、あの日の宿屋だった。
泣きたいほど優しい顔で笑う魔王。
魔剣へ寄り添うように身を預ける姿。
「……あいつは、どんな顔して俺を待ってたんだよ……っ!!」
「ルイ」と自分を呼んだ、あの弱々しい声が、今でも耳の奥で木霊している。
ノアはきっと、自分を待っていた。
痛みに耐えながら。
孤独に震えながら。
それでも、いつか迎えに来てくれると信じて。
けれど、暗闇のなかにあった彼のもとに一筋の光を注いだのは、自分ではなかった。
絶望に沈む彼へ寄り添い、その痛みを抱き締めたのは。
「大丈夫だ」と囁き、孤独を埋めたのは。
他でもない、あの魔剣の男だった。
瞼の裏に焼き付いて離れない。
月光の下で、自分を見つめていたノアの瞳と、濡れた唇の端に浮かんでいた、あの静かな笑みが。
あれは再会を喜ぶ笑顔でも、助けを求める笑顔でもなかった。
きっとあれは――諦めだった。
迎えに来なかった幼馴染への。
そして、もう戻れない自分自身への――静かで、どうしようもない絶望だった。
ラグエルは何も言わない。
ただ、じっとルイアスを見据えていた。
目の前で慟哭する勇者を、まるでその魂の在り方まで見定めようとするかのような、静かな眼差しだった。
「――ノアを止める」
ラグエルの衣を掴んでいた指先から、ゆっくりと力が抜け落ちていく。
俯いていたルイアスが、静かに顔を上げた。
その漆黒の瞳に宿っていたのは、もはや焦燥でも、苛立ちでも、後悔でもなかった。
昏く、鋭く、そして揺るぎない決意。
ノアを、取り戻す。
あの男の手から。
魔王という運命から。
たとえ何を失おうとも――たとえその果てに、自分自身が壊れてしまうとしても。
あいつだけは、渡さない。
「ラグエル」
ルイアスは真っ直ぐに、その美しい化物を見据えた。
憎み、拒み、抗い続けてきた存在。
けれど同時に、自分が勇者として立つために、決して欠かすことのできない光でもあった。
「俺を――強くしてくれ」
聖痕を通じて交わされる契約。
あれほど悍ましいと拒絶していたものへ、自ら手を伸ばす。
それはすなわち、神の描いた物語の登場人物として生きること――世界が望む『勇者』となることを意味していた。
だが、その筋書きの通りに踊ってやるつもりなど毛頭ない。
勇者の力を欲する理由は、世界を救うためではない。
ただ一人――闇の底へ沈んでしまった大切な幼馴染を、この手で掬い上げるため。
そのためならば、神だろうと、運命だろうと、世界のすべてであろうとも、敵に回すことを厭わない。
ラグエルを見据える瞳は、静かにそう断じていた。
「俺の身体も、魂も――全部、お前にくれてやる。だから俺に、力を貸せ」
ルイアスは、言葉を切る。
そして、まるで誓いを捧げるように、その名を呼んだ。
「――ラグエル」
勇者は、自ら聖剣を選んだ。
与えられる力ではなく、押し付けられる使命でもなく。
己の願いのために、己の意志で、聖剣の力をこの手に掴み取ることを決めたのだ。
胸元の聖痕が、その決意に応えるように熱を帯びる。
ドクン、と。
確かな鼓動が、胸の奥で脈打った。
それはまるで――今まさに生まれ落ちようとしている、新たな勇者の産声のようでもあった。
ともだちにシェアしよう!

