13 / 29

Episode12 聖剣の修復

― 勇者side ― その夜を境に、世界から忽然とラグエルの気配が消えた。 あれほど毎夜、ルイアスの意思など意にも介さぬように現れていた男が、ぱたりと姿を見せなくなったのだ。 勇者としての覚醒は、今も確かに進んでいる。 剣を振るうたびに身体は軽くなり、以前なら届かなかった領域へと少しずつ手が届き始めているのが分かった。 それでも胸の奥には、小骨が刺さったような違和感が残り続けていた。 数日後。 久方ぶりに現れたラグエルの姿を見た瞬間、ルイアスは息を止めた。 何かがおかしい。 一目で、そう分かった。 常に溢れ出していた眩い光が、今日は妙に遠い。 月光を溶かして形にしたようだった白金の髪も、黄金の双眸も、その輝きをどこか失っている。 そして何より、決して揺らぐことのなかったその男の表情に、微かな陰が落ちていた。 それは人間でいうなら、疲労や焦燥と呼ぶべきものによく似ていた。 「ラグエル……お前、どうしたんだ?」 ルイアスが歩み寄ると、ラグエルは自嘲するように長い白金の髪を払いのけた。 衣の隙間から覗いた肌に、ルイアスは息を呑む。 そこには、まるで硝子に走る亀裂のような痣が刻まれていた。 鈍く光を反射するそれは、傷というより、存在そのものがひび割れてしまったかのように見えた。 「これは――」 言葉を失うルイアスの前で、ラグエルは無言のまま、その本体を半ば透過させるように顕現させる。 現れた白銀の刃を見た瞬間、ルイアスの思考は止まった。 光を鍛え上げたような、美しい刀身。 その一部が――無残に、欠けていた。 ――あのときだ。 宿屋の二階。 魔王となったノアが、魔剣を振り下ろしたあの瞬間。 ラグエルが、自分を庇うように前へ出た。 そして。 目の前で、光の破片が散った。 あまりにも大きすぎた力の差に、聖剣の刃は耐えられなかったのだ。 砕けたのは、ただの武器ではない。 ラグエル自身だった。 「……俺の、所為だ」 言葉は、考えるより先に零れていた。 「ごめん、ラグエル……」 伸ばした指先が、ひび割れた痣へそっと触れる。 久方ぶりに触れた肌は、以前よりも冷たかった。 まるで、光そのものが失われているようだった。 無力だったのは、自分だ。 神を拒み、現実から目を逸らし続けた。 その幼稚な意地が、目の前の存在にまで傷を負わせたのだ。 「お前のせいではない」 ラグエルは淡々と言った。 「相手の力を見誤った。私の判断ミスだ」 いつものように冷徹な声音。 だが、その声には微かな掠れが混じっていた。 「躰に傷がついた。力が思うように戻らない。魔王の進化速度は、私の予想を超えていた。かつてないほどにな」 「治す方法は?」 ルイアスは間髪入れずに尋ねた。 「腕利きの鍛冶屋なら、なんとかなるのか?」 「私は剣の形をしているだけだ。剣ではない。人の力では如何ともし難い」 「なら、別の方法があるんだろ」 ルイアスはラグエルを真っ直ぐ見据えた。 「お前を治す方法が」 ラグエルの黄金の瞳を前にしても、もう視線は揺れなかった。 かつてのように反射的に牙を剥くこともなければ、その威容に気圧され、目を逸らすこともない。 ルイアスの瞳は、ただ真っ直ぐにラグエルを捉えていた。 いつの間にか、それは神を見上げる眼ではなくなっていた。 「頼む。あるなら教えてくれ」 ラグエルはしばし沈黙を守っていた。 やがて、諦めたように口を開く。 「あるにはあるが……やめておこう。お前への負荷が大き過ぎる」 ラグエルの言葉に、ルイアスは僅かに眼を見開いた。 以前の彼ならば、有無を言わさず従わせただろう。使命のためならば、勇者のことなど案じることはない――それが、聖剣という存在ではなかったか。 ここで勇者を失うリスクを鑑みて、総合的に判断しただけかもしれない。 それでも、ルイアスは嬉しかった。自ずと、口元に笑みが乗る。 「なんだ」 ルイアスは肩を竦めた。 「迷う理由がそんなことなら問題ない」 その口調は軽い。 だが、その瞳だけは少しも揺らがない。 「あるなら、その方法を取る」 静かな声だった。 しかしそこに宿る意思は、鋼のようだった。 「……お前の躰に私を突き刺し、再び強制的に胎内へと戻す。一度、光に還す方法だ。私はお前の生命力と魔力を吸い、内側から癒される」 ラグエルはしばらく言い躊躇った後、静かに言葉を続けた。 「刺し貫かれる痛みはおそらく、想像を絶する。加えて、お前が私を産み落とした時のあの苦痛を、もう一度……いや、その何倍もの負荷で味わうことになる。お前の肉体が耐えられる保証は――」 「すぐにやろう。少しでも早く、その傷を治さないと」 ルイアスの決意は、ラグエルの言葉にも微塵も揺らがなかった。 あまりにも迷いのないその様子に、ラグエルの眉根がひっそりと寄る。 「お前、私の話を聞いていたか?」 「聞いてるよ。俺なら大丈夫だから」 その強い意志を宿した瞳を見つめ、ラグエルは小さく息を吐いた。 「相変わらず、馬鹿な男だ」 呆れたような声音だった。 だが、その口元には、僅かに笑みが浮かんでいた。 神の欠片が浮かべるにはあまりにも人間じみたそれを、どう呼べばいいのかなど、ラグエル自身もきっと知らなない。 「神がお前を選んだ理由が、漸く分かった気がする」 ルイアスは答えなかった。 ただ静かに、その言葉を受け止める。 もう、勇者であることを呪おうとは思わなかった。 ノアが魔王に選ばれたのなら。 それに向き合うのが他の誰かではなく、自分で良かったと、心からそう思う。 ノアを止めることができるのも。 ノアを取り戻そうと足掻けるのも。 世界でただ一人、自分だけなのだから。 胸元の聖痕が、静かに熱を帯びる。 それを振り払おうとは、もう思わなかった。           ※ 大聖堂の中央。磨き上げられた白亜の床には、巨大な神聖魔術の陣が描かれている。 魔法陣の中心に、ルイアスは静かに佇んでいた。 その目の前には、白銀の光を放ちながら宙に浮かぶ聖剣――ラグエルがいる。 周囲を、神殿最高位の神官たちと、高位治癒士たちが幾重にも取り囲んでいる。 堂内には、肌を刺すような緊張が満ちていた。 「随分と仰々しいな」 「勇者の身に万が一のことがあってはならないからな」 自分一人のために、これだけの人間が集められている。 改めて、勇者という存在の重さを思い知らされた。 「本当に、良いんだな。今ならまだ引き返せる」 頭の中に直接響くラグエルの声は、どこか躊躇うようだった。 「しつこいって」 ルイアスは肩を揺らして笑った。 「暫く会えなくなるんだろ。静かになって清々するな」 ルイアスは不敵に口角を上げた。その軽口に、以前のような棘はない。 「減らず口を」 「でもまぁ、ちょっと、寂しいかもな」 「……ふん」 吐き捨てるようなその声音に、ルイアスは小さく笑った。 「早く治して出て来いよ。その間、お前の言う通りたくさん食って栄養摂ってやるからさ」 「座学もさぼるなよ」 「分かってるって。じゃあ、またあとでな」 ルイアスは静かに目を閉じた。 肺いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 そして、迷いなく顔を上げた。 「――来い、ラグエル!」 その声を合図に、聖剣が眩い光を放つ。 白銀の刀身が宙を翻り、刃先が真っ直ぐにルイアスを捉えた。 刹那。 光が奔る。 次の瞬間、聖剣は吸い寄せられるようにルイアスの胸元――聖痕の真上を貫いていた。 「――っぐ……ッ!!」 肉を裂き、骨を軋ませる鈍い音が、大聖堂に響いた。 聖剣が胸を貫いた衝撃に、ルイアスの身体が大きく揺らぐ。 周囲では神官たちが一斉に祈りを捧げ、高位治癒士たちの掌から眩い光が溢れ始めた。 「が……ぁ……ッ!!」 身体の内側へ流れ込んだ光が、神経という神経を焼き潰していく。 喉の奥から血が込み上げ、赤い飛沫が白亜の床を濡らした。 視界が赤く滲む。 膝が折れそうになる。 ――それでも。 ルイアスは倒れなかった。 震える二本の足で、大理石の床を踏み締める。 ここで倒れるわけにはいかない。 ここで膝をつくようでは、ノアのもとへ辿り着くことなどできない。 この程度の痛みで膝を折るようなら。 あの日、暗闇の中で独り耐え続けたノアに、顔向けなどできない。 その執念だけが、今にも崩れ落ちそうな身体を辛うじて支えていた。 口から零れた鮮血が、胸を貫く白銀の刃を伝う血が、足元の魔法陣へと滴り落ちる。 勇者の血を受けた魔法陣が、紅く、そして眩く爆発的な輝きを放った。 白銀の刀身が、光へと還りながら、ゆっくりとルイアスの胸へ沈んでいく。 やがて完全にその姿を消したとき、魔法陣の光もまた、ふっと収束して消えた。 張り詰めていた力が途切れ、ルイアスの身体が大きく傾ぐ。 「――勇者様!!」 駆け寄る神官たちの声が、遠くで聞こえた。 急激に遠退いていく意識の底で、ルイアスは確かに感じていた。 躰の奥深く――心臓のすぐ隣。 そこに、温かく、強大な光が息づいていた。 今のルイアスにとって、その気配は不思議なほど心地よい。 まるで、失くしていた何かが、ようやくあるべき場所へ戻ってきたかのようだった。

ともだちにシェアしよう!