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Episode14 崩壊の序章【R18】
― 魔剣side ―
外の雨はとうに止み、やがて雲の切れ間から、月の光が射し込んできた。
そのあまりに頼りない月光は、室内の二人の輪郭を、微かに闇に浮かび上がらせた。
部屋を満たすのは、熱を帯びた二人分の吐息と、シーツの擦れ合う乾いた音。
冷たい身体に自らの熱を押し付けてくるノアを、オルフェは固く抱き竦めていた。
いつもと変わらず求めてくるノアの、その胸元に刻まれた『魔痕』は、なぜか今夜はひどく冷たかった。
「……ん、ぅ……ふ……っ……」
指先を肌に這わせるたび、唇を重ねるたびに、蕩けたような眼差しが揺れる。
愉悦の海に深く沈んでいるであろうノアの瞳は、オルフェの姿を映しながら、その視線の先はもっとずっと遠くを見ているようだった。
何かが違う。
違和感の正体を探ろうと、オルフェは執拗に彼を責めた。
その身が揺さぶられるたび、あ、あ、と鈴を零す唇は、何も変わらないかに思われた。
しかし、その刹那。
「……あ……っ、ルイ……っ……」
掠れた、しかし明らかに熱を帯びた声音が、その名を呼んだ。
その瞬間、オルフェの纏う闇の魔力が凍りついた。
自身でも自覚せぬまま、ノアの腰を抱いていた手に力が篭る。
柔らかな肌に、その爪が食い込んだ。
「……今、誰の名を呼んだ」
音の粒子が凍りつくような声音だった。
オルフェ自身、それが何という感情なのか理解していなかった。
魔剣はただ、己を産み落とした魔王を『管理』し『完成』させるシステムに過ぎない。
しかし、その胎内から響いた異物の名が、彼の内なる何かに致命的な狂いを齎そうとしていた。
以前、想い人を思い浮かべて良いと言った。
それでも構わないと思っていた。
魔王を創り上げるプロセスに、何の支障もなかったからだ。
だが今、あの勇者の名がノアの唇から零れた途端、それが誤りだったことに気がついた。
自分はそれを、到底受け入れられないということを知った。
理由など、わからない。
理屈の上では成立していた。
想い人という変数は、魔王の生成式に干渉しないはずだった。
例えノアが勇者の名を呼ぼうとも、それは許容された揺らぎに過ぎず、魔王を創るという目的には影響しないはずだった。
だが今、その前提が崩れている。
勇者の名が、枠の外に零れ落ちた。
本来ならば存在しないはずの『異物』として。
それは理解ではなく、拒絶として処理されるべきものだった。
――許されるべきではない、と。
「あ……、おるふぇ……痛、い……っ」
甘く融かされていたノアの眼差しに、怯えたような色が宿る。
オルフェは、何も応えない。
見下ろす魔剣の金色の瞳は、凍りつくように冷え切っていた。
「――っ、ひ、ああぁ……ッ!?」
これまでの呼吸を労わるような甘美な交わりとは、あまりにもかけ離れていた。
人間の器に収まりきらぬ強大な質量が、ノアの細い身体を引き裂かんばかりに、容赦なく穿つ。
「うぅ……ッ! あ、あ、ぁ……っ!」
激しい衝撃に、ノアは大きく身を捩った。
本能のまま逃れようとする体躯を抑えつけ、なおもその身を蹂躙する。
「い、たい……!オルフェ、痛い!やめて……!」
悲痛に叫ぶノアを見ていると、奇妙な感情が湧き上がる。
憐み。苛立ち。焦燥。悦楽。固執。
ごちゃ混ぜになった感情の名は、形容し難いものだった。
ただ苛烈に歪んだ感情の突き動かすままに、オルフェはノアに圧し掛かった。
「私だけがお前の味方だと言ったはずだ。世界がお前を拒もうと、私だけがお前を肯定すると。……お前を生かすのは私だ。あの出来損ないの勇者ではない」
オルフェは、呪詛を刻み込むようにノアの白い首筋に噛みついた。
ぶつりと皮膚が破け、鮮血が伝い落ちる。溢れ出るそれをオルフェが舐め取るのと同時に、二人の間で魔力の奔流が狂ったように渦巻いた。
「いや……オルフェ……やめ、て……こわい……」
「委ねろ。すべてを。抗うな。魔王」
「……あ……ルイ……る、い……」
虚空に伸ばされた手を、オルフェが掴んだ。細い手首を、シーツの上に戒める。
ノアの瞳からは、涙が堰を切ったように溢れた。
拭われることのないそれが、シーツに染みを広げていく。
じわじわと。白い領域を侵していくにつれて、胸元の魔痕もまた、蠢くように金色を帯びていった。
「――――……!!」
魔王の叫びが、悦楽と苦痛の混ざり合った悲鳴となって室内に響き渡る。
暴力的な闇の力は容赦なく、ノアの精神の最後の領域までをも侵していった。
涙を溢れさせたまま見開かれた瞳が、妖しく金色に染まる。
虹彩の奥から、光が滲むように色を塗り替えていく。
それは抗いの痕跡ごと飲み込むように、ゆっくりと支配していった。
鮮やかな金色は、果てしなく闇に近い色をしていた。
「あ……、あ……」
それでも最後まで抗うように、瞳は激しく明滅を繰り返す。
しかしやがては光が失われるように、すべてが昏い金色に落ち着いた。
魔剣の瞳と同じ、闇を思わせる金の輝き。深く、昏く、全てを呑み込む深淵の色。
世界に齎す絶望を、そのまま模ったような色彩は、ノアの肌に刻まれた魔痕と虹彩に、静かに宿っていた。
それは紛れもなく闇に呑まれた証――『魔王』を象徴する彩だった。
※
宿屋の一室は、以前にも増して濃密な闇に沈んでいた。
建物の周囲にあったはずの木々は、いつの間にかその輪郭を失い、地面には草の気配すら残っていない。
魔王と魔剣の存在は、どれほど些細な命であろうとも、そこに在ることを許さない。
まるでこの場所だけが世界から切り取られたかのように、静かだった。
月は空にある。だが、その光はこの部屋には届かない。
届いているのかもしれない――それでも、何かに吞み込まれるように、途中で途切れてしまっていた。
部屋の中に満ちていたのは、甘い花の香りのはずだった。しかし日を追うごとにその甘さが増していき、今では腐りきった果実のような、芳醇を過ぎた香りとなっている。
それは嗅いだ者の精神を狂わせてしまう、魔香の毒のようだった。
寝台の上で、ノアはただ外を見つめていた。
白磁の肌は、以前と変わらず美しい。むしろ、何も刻まれていないことが不自然なほどに。
かつて首筋にあった痕は、消えたのではない。
肌に浮かぶ歪な紋様にかたちを変え、魔王の一部として静かに息づいていた。
窓の外を見つめるその瞳は、何も映してはいなかった。
ただ美しいだけの、魂の抜けた人形のように、静かに佇んでいる。
「ノア」
背後から、オルフェが音もなく抱き寄せた。
指先は迷いなく衣服の隙間へと潜り、白い肌へと触れていく。
それはもはや、以前のような『儀式』ではなかった。
必要も、理由も、意味さえも失ったまま、それでも続いている接触だった。
ノアはゆっくりと振り返る。
金の瞳は、何も映していないようでいて、確かにオルフェだけを見ていた。
「……オルフェ」
呼吸のように、その名が落ちる。
「……もっと、噛んで」
自ら首筋を差し出すその仕草には、躊躇がない。
まるで痛みだけが、確かな『現実』であるかのように。
オルフェは一瞬だけ動きを止めた。
理解できないはずのものが、そこに当然のように存在していることだけが、静かに彼の内側を軋ませていた。
「もっと……痛くして……」
あの日以降、ノアは狂ったようにそれだけを繰り返した。
オルフェがそれに応じてやると、悦びに激しく身を震わせた。
「あ……っ、んんっ、ぅ……!」
何故痛みを求めてくるのか理解できぬまま、オルフェは求められるままに応え、その白い肌を貪るように傷つけ、悦がる体躯を抱き潰していった。
完全体となった魔王を、なおも毎夜のように抱き続ける魔剣。
その行為を、神は認めない。
それは個への執着が齎すものであり、神の台本を完全に逸脱した行為に他ならなかった。
二人の間にあるのは、もはや祝福でも堕落でもない。
名前のつかないまま形を変え続ける、歪んだ継続だった。
「足りない……オルフェ……もっと、もっと……痛いのが、いい……!」
オルフェは、胸元の魔痕へと唇を寄せ、思いきり歯を突き立てた。
尖った犬歯が柔らかな皮膚を貫き、鮮やかな赤が溢れ出す。
魔痕はその刺激を悦んでいるかのように、黄金の彩を放っていた。
肌を伝い落ちる温かな液体。魔王の身体を形成するものの一部。
自らが魔王の身に傷をつけ、流れさせたもの。
魔剣は本来、魔王を護る剣だった。
その刃が、魔王に向けられることなど許されない。
理解していた。永劫に繰り返されてきた輪廻の中で、その道を外れたことなどただの一度もなかった。
それは、神の定めたプログラムを逸脱した行為に他ならない。
致命的なシステムエラー。
分かっているのに止められない。
それは、衝動だった。
神の定義から零れ落ちた、名もなき感情。
護りたい。
傷つけたくない。
この手で傷つけたい。
奪われたくない。
自分だけが、触れることを許された存在。
この身に傷を残せるのは、自分だけでいい。
誰にも触れさせない。
渡さない。
殺させない。
この魔王は、私だけのものだ。
この腕から、決して離さない。
「……っ……オルフェ……オルフェ……!」
分かっている。分かっているのだ。
胸の裡の軋み。この軋みは、警告だ。神からの。世界からの。
「――――ノア……!」
その名を呼んだ。細い腕が、縋りついてくる。
途端に、すべてがどうでもよくなった。
ただ、己の与えた快楽と痛みに溺れ、身をくねらせて善がる姿を見ているだけで、胸は満たされた。
それだけだ。何を悩むことがあろうか。これほどにも簡単なことだった。
何度も何度も最奥を穿つ。貪るように抉ってやると、腕の中の身体は壊れたように身を跳ねさせた。
白く晒された喉。目の前にあるそれに、噛みついた。喉笛に、歯を立てる。獰猛な獣に仕留められた被食動物のように、儚い喉が震えていた。
「っは……あ、あぁ……っ」
濡れそぼる先端から、力なく垂れ続ける粘液。痙攣する身と同調して、どぷり、とひと際濃い白濁が溢れ出した。
愉楽に溺れ切った瞳は何もない虚空を映し、妖しい金色だけが細かく揺れている。
絶頂のあと不規則に震える身を抱き寄せてやると、やがては静かな呼吸に落ち着いていくことを知っている。
だが今宵は、そうしなかった。
態勢を変え、イキ果ててなおも震え続ける身を、容赦なく突き上げる。
汗ばんだ互いの肌のぶつかり合う音が、闇の静寂に弾けた。
「――あぅッ……!!」
堪らず上がった悲鳴のような声に、オルフェはその口角をゆっくりと上げた。
欲望のままに腰を打ち付けてやると、ビクビクと不規則に収縮を繰り返す器が、粘膜の擦れ合う水音を奏で続けた。
二人は、誰にも祝福されぬ暗がりのなかで、今宵もその境界を融かし合う。
互いを狂わせながら、世界の底を探すように、どこまでも深く、深く、堕ちていく。
世界の壊れていく音がする。
まだ誰も、その音の名を知らない。
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