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Episode15 神意の否定

― 聖剣side ― 傷ついた聖剣をその身に還し、勇者は再びこの世へ産み落とした。 神殿が誇る最高位の治癒士たちの術により、引き裂かれた胸の肉も、砕かれた肋骨も、その日のうちに癒えた。 肉体の傷は、確かに治った。 だが、高熱だけが、いつまでも引かなかった。 一週間。 二週間。 白亜の檻の寝台で、ルイアスは絶え間ない高熱と激痛に苛まれ、浅い呼吸を繰り返していた。 擦り切れた呻きだけが、静まり返った室内に細く零れていく。 寝台の傍らに立つラグエルは、その姿を静かに見つめていた。 黄金の双眸は、珍しく揺れていた。 ――流石に、おかしい。 ラグエルは静かに思考する。 これは、本当に神の描いた筋書きなのだろうか。 どこかで、致命的な誤差が生じてはいないか。 ラグエルは神のシステムそのものだった。 己の傷が癒えれば、それに呼応して勇者もまた完全へ近づく。 それが、この世界の理だ。 だが今ルイアスの生命力は、満たされる端から失われていっているように見えた。 どれほど癒しの術を施そうとも、底の見えぬ穴へ吸い込まれていくかのようだった。 回復と減衰が拮抗し、総量だけが静かに削られていく現状は、理に反する現象だった。 なぜだ。なぜ、システムが正常に機能しない。 思考の海が濁るその最中、ラグエルの脳裏に、あの宿屋の二階で魔剣オルフェが嘲笑混じりに告げた言葉が、唐突に蘇った。 『――この出来損ないが死ねば、次の勇者が生まれるだけだ』 あの時、ラグエルは言い返した。それを決めるのはお前ではない、と。 だが。もしも。 ――もし、それを決めたのが『神』だとしたら? ラグエルの背筋を、凍りつくような寒いものが伝った。 悠久の時を神の御使いとして生きてきたラグエルにとって、それは生まれて初めて味わう感覚だった。 それが何という感情であるのか、説明はできない。知らない。分からない。 ルイアスを失うかもしれない。 その可能性が脳裏を過った瞬間、その身の内側で何かが音を立てて軋んだ。 神が、この不完全な器を『欠陥個体』として見限り、処分しようとしていたとしたら。 次の、より都合の良い器へ、聖剣を挿げ替えるつもりだとしたら。 「――お待ちください、神よ」 痛みに耐えかね、身の置き場もないといった風にシーツを掻きむしるルイアスの手を、ラグエルは衝動的に握りしめていた。 震えていた。 震えているのはルイアスではなく、自分の方だった。 「この勇者は、私の身を癒してくれました。何の見返りも求めず、躊躇いもなく。私を直すために、自らの命を懸けて、この苦痛を受け入れたのです」 気づけば、虚空の神へ向かって言葉を吐き出していた。 「勇者に相応しい、強い意志を持った器です。ですから、どうか――……」 それ以上の言葉は、続かなかった。 神罰を恐れたわけではない。 ただ、喉が塞がれていた。 声が震え、その先を紡ぐことができなかった。 神の意志へ、初めて異を唱えた。 神の理に従うだけの存在だった聖剣が、悠久の時を経て初めて創造主へ「否」と告げた瞬間だった。 ラグエルは、すでに殆ど意識のないルイアスを見下ろした。 時折、うわ言を漏らしながら薄く瞼が上がるが、その向こうにある漆黒の瞳は、泥のように濁り、完全に焦点を失っている。苦痛に表情を歪ませるその肉体からは、目に見えて力が失われているようだった。 近頃は、握ってやった手を握り返してくることもなくなった。 もはや、この命は神殿の魔術師たちが絶え間なく注ぐ癒しの魔力によって、辛うじて繋ぎ止められているだけのように思われた。 それが途絶えれば、この命は容易く零れ落ちる。 そんな危うさが、今のルイアスにはあった。 「……おい、ルイアス。聞こえているか」 ラグエルは、以前より細くなった気がするその手を、きつく、力の限り握り締めた。 痛むほどに握り締めれば、戻ってくるのではないかと思ったからだ。 「魔王に、会うんだろう。……こんなところで、死んでる場合か」 その声に魔力を乗せ、彼の昏い脳内に、直接強く語り掛ける。 声が届いたのか、固く閉ざされていたルイアスの瞼が微かに震え、それを縁取る睫毛が小さく揺れた。 しかし、やはり瞼が上がることはない。ただ、薄い瞼の下で、瞳が微かに震えていた。 その瞳は、現実の白亜の部屋ではなく、瞼の裏――魂の深淵に映し出される何かを、必死に見つめているようだった。 「ぁ、……」 乾き切った唇が、微かに震えた。 聞き逃すまいと、ラグエルは身を屈める。 だが零れたのは、言葉になり損ねた掠れた吐息だけだった。 その続きを待つように耳を澄ませても、もう何も聞こえない。 だが、ラグエルには分かった。 その唇が、掠れた輪郭が、誰の名を呼ぼうとしたのかを。 ――こいつはまだ、諦めていない。 ラグエルは、繋いだ手を握り直した。 指を一本ずつ絡めるように結び、その手を静かに額へと寄せる。 金の瞼を閉じる。 それは神へ捧げる祈りではなかった。 気づけば、胸の内にはたった一つの願いだけが残っていた。 ――こいつを、死なせたくない。 神の意志よりも。 世界の理よりも。 今は、その願いだけが真実だった。 握った手が淡く光る。 ラグエルの精神は、昏い深淵へと沈んでいく。 深く、さらに深く――求める何かを探すように。 ルイアスの指先が、ほんの僅かに動いた。 その意識は、此処ではない世界の中にあった。

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