17 / 29
Episode16 忘却の輪廻
― ???side ―
茜に染まった陽が、山の稜線へゆっくりと身を預けていく。
一面に咲き誇る名も知らぬ花が、燃えるような夕日に染まっていた。
長く伸びた二人の影が、静かに寄り添っている。
「やっぱこの場所で見る夕日が、一番きれいだよな」
「そうかな」
「あれ、違う?」
「景色なんて、どうでもいい」
「え?」
「お前が隣にいるなら、それで」
「……なにそれ。……恥ずかしいんだけど」
やがて陽は山の向こうへと沈み、空には淡い紫が滲み始める。
草原を吹き抜ける風が、昼の名残を攫っていった。
二人に、それ以上言葉は要らなかった。
手を握った。指を、一本ずつ絡めるように結ぶ。
ぎゅっと、握り返してくる。
甘やかな空気が流れた。
風だけが、二人の間を縫うように吹き抜ける。
どちらともなく、隣の相手を見た。
すぐ至近で、視線が交わる。
夕日の余韻を残す空の色を、その瞳は映していた。
唇が重なる。ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。
一人が穏やかに笑う。もう一人もまた、つられるように肩を揺らした。
二人の顔は離れることなく、そのままコツンと額が合わさった。
額に伝わる互いの熱で、その存在を確かめ合う。
夕陽は、何も語らぬまま山の向こうへと沈んでいく。
茜色に燃えていた空は少しずつ熱を失い、世界は静かな薄暮へと溶けていった。
今日という一日が終わることを惜しみながら、世界は眠りへと落ちていく。
明日もまた、この陽は昇る。
二人は、疑いもしなかった。
二つの影は境界をなくし、まるでひとつであるかのように重なり合っていた。
これが、二人で共に見た最後の夕日だった。
※
彼は、血に塗れていた。
髪も、頬も、指先も。
全てを昏い赤に染めて、佇んでいる。
周囲には既に、生きたものの気配はなかった。
ただ、数多の骸だけが転がり、積み重なっていた。
一面に咲き誇っていた花はすべて枯れ落ち、辺りは荒野と成り果てていた。
山の稜線だけが、以前と変わらぬ形をしていた。
その手には、剣が握られていた。
それもまた、本来の色が分からぬほどに血に塗れている。
血に塗れた青年の瞳は、鈍く金色を宿していた。
そして向かい合う青年もまた、同じ光を映していた。
どちらも、あの夕日の空の下にあったときの彩をしていなかった。
対峙する青年の握る剣は、眩い光を放っていた。
世界が祝福する光。
ただ一人、その剣を握る青年だけが、それを祝福できないでいた。
闇を纏う青年は、血塗れの両手をゆっくりと広げた。
光を纏う青年は、その胸へ切っ先を向けた。
次の瞬間。
光は、闇を貫いた。
それは、一瞬の出来事だった。
しかし、永遠にも感じられた。
光の剣が引き抜かれる。
世界は、瞬く間に赤く染まった。
光は、崩れ落ちる闇を抱き留める。
腕の中の青年は、穏やかに笑った。
あの日、夕日の下で見せた、あの笑顔のまま。
止まらない。
血が、止まらない。
唇から溢れ、腕を伝い、大地を濡らしていく。
何度も、その名を呼んだ。
繰り返し、繰り返し。
腕の中のたった一人の名を。
返事は、もうなかった。
手を握る。
あの日のように、一本ずつ指を絡める。
微かに、握り返す力があった。
それが最後だった。
握った手を離さぬまま、光は静かに額を寄せた。
冷え始めた肌に、自分の熱を分け与えるように。
神に選ばれた光は、何よりも大切だった闇を失った。
冷たくなっていく身体を抱き締めて、彼は涙を零した。
零れ落ちた雫が、頬を伝い、闇だった彼の顔を濡らした。
それは、これまでで一番冷たい雫だった。
世界に、平和が訪れた。
世界は、それで満足だった。
泣いていたのは、彼だけだった。
彩を失った夕日が、山の向こうへ沈んでいった。
※
― 勇者side ―
ルイアスは、泣いていた。
止め処なく溢れる涙が肌を伝い、髪を濡らし、枕に染みを作った。
少しずつ、意識が確かなものになっていく。
眼に映るのは夕日ではなく、見慣れた天蓋だった。
「ルイアス……気がついたか」
確かな記憶に刻まれた声が、降ってきた。
視線を向けると、ラグエルがこちらを見下ろしていた。
「……泣いてる?」
「泣いているのは、お前の方だ」
ラグエルの金の瞳は、涙を流さない。
それでも何故かルイアスには、ラグエルが泣いているように見えた。
「なんか……夢、見てた……」
どんな夢だったかは、思い出せない。
ただ、何処かで見たことのある景色、聞いたことのある声音だった気がする。
「……ただの夢だ」
震えるルイアスの手を、ラグエルは握っていた。
おそらくずっとそうしてくれていたのだろう。互いの体温が、均一になっていた。
指を一本一本絡め、しっかりと握り込んでくる大きな手。
この手の繋ぎ方を、自分は知っているような気がした。
「……っ……」
涙が、止まらない。理由など、解らなかった。
ただおかしなくらいに、心が搔き乱されていた。
胸の奥に、大きな穴が開いてしまったようだった。
きっとそこには、大切なものが埋まっていた。
嗚咽を漏らし、泣きじゃくる。
見下ろしてくる金の瞳は、静かだった。
涙など流していない。
それでも、その金の瞳は、泣いているようにしか見えなかった。
「ルイアス。息を整えろ」
「っ……、ぁ……」
「大丈夫だ。落ち着け。言っただろう、あれはただの夢だと」
まるでラグエルも同じものを見てきたかのように言う。
親指の腹で、眦を拭われた。それでも止まることの知らない雫が、ラグエルの指を濡らしていく。
「なん、なんだよ……これ……っ、……わけ、わかんねぇ……」
「……すまない。……私の所為だ」
嗚咽が止まらない。呼吸が乱れる。
胸がひどく締め付けられて、息苦しい。
頭がくらくらして、拍動に合わせて頭の深いところが痛んだ。
「息を吐け。ゆっくりだ」
「……吐い、てるよ……ッ……」
息苦しさを何とかしようと、何度も深く息を吸う。
しかし、そのたびに肺は痙攣するように震え、吸い込んだ空気が喉の奥で引っ掛かった。
いっこうに、肺は満たされない。
足りない。もっと、と身体が悲鳴を上げていた。
「はっ……、は……っ」
「そうじゃない。吐け。吸うな」
無茶を言う。握った手に、力が篭った。
焦るほど呼吸は浅く、速くなる。
喉がひゅう、と細く鳴り、何度吸っても酸素が身体の奥まで行き届かない。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
ゆっくり吸え。ゆっくり吐け。
命じれば命じるほど、身体はその命令を拒むように呼吸を速めた。
制御の効かない身体に、焦燥ばかりが募る。
空気を貪るように吸い込み、それでも息苦しさはひどくなるばかりだった。
指先が痺れ、視界の縁が白く霞み始める。
「っは、……ぁ……」
「――ルイアス」
次の瞬間、ラグエルの手が頭部を支え、そのまま唇が重ねられた。
吐き出そうとした息ごと塞がれる。
「――っ……!」
吸えない。
もがこうとした身体を、大きな手が静かに押さえた。
落ち着け、と。頭の中に直接響く声がある。
強制的に呼吸の間隔を止められると、不思議なほど暴れていた肺が少しずつ静かになっていく。
瞼を落とし、片方の腕を縋るように相手の背へまわした。
もう片方の手は、ずっと握られている。指の痺れが、次第に治まってきた。
少しずつ、頭の中に立ち込めていた霧が晴れていく。
呼吸が落ち着いた頃、ラグエルの唇は離れていった。
「……っはぁ……」
「少しは落ち着いたか?」
ラグエルの瞳が、至近に覗き込んでくる。
あんなに疎ましかった色が、今は不思議と心を落ち着かせてくれた。
「熱は――下がったようだ。痛みはどうだ?」
「……大したことない。……だるいけど」
「随分と長く寝込んでいたからな」
瞼に掛かる前髪を、ラグエルの手が払う。
火照った肌の上を、ひんやりとした指先が掠めていく。
「お前の方は……もう、大丈夫なのか?」
「あぁ。お前のお陰だ、ルイアス。礼を言う」
「……やめろよ。そんなこと言われると調子狂う」
ふと小さく笑うと、ラグエルの双眸が僅かに細められた。
さきほどと変わらず、平静なようでいて、その瞳だけが本音を隠し切れていなかった。
長い睫毛の奥で、危うく揺れる瞳。
しかし何を聞くよりも先に、握っていた手が離れていった。
「――ゆっくり休め」
立ち上がろうとする気配を見せたラグエルの服を、気がつけば掴んでいた。
掴んでおかなければ、何処かへ行ってしまうような気がした。
勿論、そんなことはあり得ない。分かっているはずであるのに、漠然とした不安が胸を過った。
「……今日は、いいのかよ」
「何だ。そんなもの欲しそうな顔をするな」
「なっ……そういうんじゃねぇって……!」
「今は身体を休めろ。じゃあな」
それきり、姿が見えなくなった。
「……んだよ……」
しんと静まり返った室内を見回す。
この部屋は、こんなに広かっただろうか。
胸の中には、なおもすきま風が吹いていた。
ルイアスは寝具を深く被り、暗闇の中で目を閉じた。
次第に微睡んでいく意識の中。
瞼の裏には、朱に染まる空のような色が広がっていた。
疲れてシーツに沈む身体は、手のひらの温もりだけを、いつまでも連れていた。
ともだちにシェアしよう!

