22 / 29

Episode21 慈愛の道標

― 勇者side ― ルイアスは孤児院を訪れていた。 窓の外には、かつてと変わらぬ庭の風景が広がっている。 子供たちの笑い声が、庭いっぱいに響いている。 鬼ごっこに興じる幼い子らは、転んでもすぐに立ち上がり、泥だらけの手で互いを引き起こしている。泣き声すら、次の瞬間には笑い声へと変わっていた。 かつては自分も、あの庭を駆け回っていた。 楽しかったあの日々は、遠い過去のはずなのに、つい昨日のことのようにも感じられた。 転んで膝を擦りむけば、ノアが真っ先に駆け寄ってきた。 転んだのは自分ではないというのに、泣きそうな顔をして「痛い?」と聞いてくるのだ。 大丈夫だ、と強がれば、ノアはいつも少し怒った。 「痛いときは痛いって言っていいんだよ」 そんな風に言われたことを、今でも覚えている。 誰よりも細っこくて小さな身体だったくせに、しっかり者で、皆から頼りにされていた。 そんなノアの優しさに何度も救われていたのは、自分だけではなかったように思う。 走り回る子供たちの姿を、ルイアスはしばらく言葉もなく眺めていた。 もし魔物がこの場所を襲えば、この穏やかな日常は容易く壊れてしまうという事実を、改めて突きつけられた。 そうなる前に、何としてでもノアを止めなければならない。 当たり前の日常を誰よりも愛していたはずの彼に、そんなことをさせるわけにはいかなかった。 黙ってしまったルイアスの横顔を静かに見つめていたマザーが、昔と変わらぬ柔らかな声音で問うた。 「ノアは元気?」 その問いに、ルイアスの視線が一瞬だけ揺れた。 視界の端に、修繕されたばかりの天井が映った。 西日に照らされたそこには、かつてあった雨漏りの黒い染みは、もうどこにも残っていなかった。 「……うん」 視線を窓の外へと置いたまま、ルイアスは小さく頷いた。 庭の片隅で、紅い薔薇の花が咲いていた。 あの木の傍は、ノアのお気に入りの場所だった。 ノアはいつもあの場所で、静かに本を読んでいた。 美しい花が咲き誇る横で、「きれいに咲いたね」と笑っていたノア。 「そうだな」と頷いていた自分が、花なんてそっちのけでノアの笑顔ばかりを見つめていたことに、きっとノアは気がついていないだろう。 ノアの屈託のない笑顔は、自分にとって薔薇の花など及びもつかないほどに、眩いものだった。 戦場で嗅いだ、あの甘い果実のような匂いが思い出された。 あの匂いは、どこか薔薇の香りにも似ていた。 庭の薔薇が咲き誇る頃になると、彼の傍らからふわりと漂い、心地良く鼻腔を擽ったあの香りに。 「ちょっと、遠くに行ってるだけだよ」 ルイアスはマザーに笑顔を向けた。 嘘ではない。 今は少し遠くにいるノアを、いつかこの手で、必ず連れ戻す。 「帰ってきたらさ。また皆で、マザーの作った飯が食いたいな」 そう言って笑ったルイアスの顔は、王城で喝采を浴びた英雄のそれではなく、かつてあの庭を走り回っていた、ただの一人のあどけない少年のものだった。 「えぇ。待っているわ」 そう言って頭を撫でてくれる温もりは、注いでくれる眼差しは、昔と変わらぬ慈愛に満ちていた。 この温かさを、ノアだって忘れるはずはない。 ルイアスは不意に込み上げるものを堪えるように、深く俯いた。 自分たちが帰るべき場所を見失わぬための道標として、ルイアスはその温もりを、深く胸に刻んだ。           ※ 帰り道。 陽の沈んだあとの暮明を、ルイアスは静かに歩いていた。 その脇で、聖剣の柄が月光を反射して淡く光っている。 賑やかな子供たちの笑い声は遠ざかり、マザーの温かい手の感触は少しずつ冷えていった。 またあの戒律ばかりを重んじる神殿へ、勇者の器は帰らなければならない。 ルイアスは、静かに剣の柄に手を置いた。 夜風に撫でられたそれは、ひんやりと冷たかった。 「……なあ、ラグエル」 『なんだ』 脳内に響く声は、いつも通り抑揚のないものだ。 「ノア、帰ってくるよな」 いつもなら冷ややかに否定するはずの聖剣が、その時はじめて、奇妙な沈黙を返した。 柄を握り締める手に、自ずと力が籠る。 分かっている。 勇者と魔王が覚醒した時点で、結末は決められていた。 神が定めた『勇者による魔王の討伐』という、ただひとつの終わりへ向かうことを。 それ以外の結末を、聖剣も、そして魔剣も知らないのだということを、ルイアスは分かっていた。 ―――それでも。 『……お前次第だ』 否定も、肯定もしないラグエルの言葉が、今は何よりの励みになった。 聖剣という役割を越えた、あまりにも人間じみた優しさが、ルイアスの不安で押し潰されそうになる心を奮い立たせてくれた。 「……お前なら、魔王は倒すべきだって言うと思った」 苦笑するルイアスに、ラグエルは言った。 『以前の私ならば、そう言っただろう』 手にした柄は、いつの間にか自分の体温を帯びていた。 細やかな装飾を、親指の腹でそっと撫でる。 「…変わったよな、お前」 『お互い様だろう』 「……そっか……、うん」 ルイアスは前を向く。何処までも、真っ直ぐに。 その先に待ち受ける未来を、明るいものとするために。 「――よし」 ルイアスは夜空を見上げた。 雲の隙間から、ひときわ明るい一番星が顔を覗かせた。 ルイアスは星に向かって手を伸ばした。 決して触れることの叶わぬ光でも、諦めなければいつかはこの手に届くような気がした。 今この時、異なる場所で、ノアもまた同じ星を眺めていた。 ルイアスにとって、その星はいつか辿り着くための道標だった。 ノアにとって、その星は失われた何かを過らせる遠い光だった。 夜空の星はただ、いつもと変わらぬ煌めきを宿しながら、光と闇を背負う彼らを静かに見下ろしていた。

ともだちにシェアしよう!