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Episode22 終焉の咆哮

― 魔王side ― 底なしの闇が蟠(わだかま)る昏い廃遺跡の奥に、魔王はいた。 神の理から零れ落ちた呪詛が堆積するその場所で、ノアは自身の肉体から溢れ出る魔気を、魔物たちへと惜しみなく注ぎ込んできた。 孤独だった自分が誰かにそうしてほしかったように、魔王は彼らを慈しんでいた。 彼の細い身体から分け与えられた、強大な力で育った『子供たち』。 それらは既存の生態系を嘲笑うかのように歪で、息を呑むほどに美しかった。 常軌を逸した力を持つ彼らは今まさにこの苗床を飛び立たんと、歓喜の咆哮を上げていた。 「……いよいよだ」 ノアの鈴のような声が、湿った地下空間に木霊する。 その白い胸元には魔王の覚醒に伴う金の紋様が脈打つように浮かび上がり、瞳にはかつて人として懸命に生きていた頃の温かな光は見えない。 けれどその奥底には、消え残った小さな灯火のようなものが、まだ静かに揺らめいていた。 竜のような形をした一匹の魔物が、ノアの眼前でゆっくりと伏せった。 長い首を地に下ろし、魔王が背に乗るのを待っている。 「……立派になったね」 初めてこの遺跡を訪れたかの日。 それは魔王の手のひらに収まるほど、小さな命だった。 卵から孵ったばかりの濡れた身体で、震えながら擦り寄ってきた弱き個体は、今や遥か見上げるほどに逞しく、そして禍々しき姿へと育っていた。 ノアはかつて幼き魔物にしたように、その額へそっと唇を寄せた。 震えていた小さな身体を包み込んだ、あの日と同じように。 竜の魔物はノアの頭ほどもある瞳をゆっくりと瞬かせ、魔王をその背に乗せた。 禍々しい魔力を纏った翼が、狭い遺跡の天井を軋ませながらゆっくりと広がった。 遺跡全体が震え、古き石柱が砕け散る。 その翼は、かつて自分を包んでくれた魔王の手のように優しくはない。 今やそれは、世界を覆い尽くす災厄の翼だった。 己を育て上げてくれた主を巨躯の背に乗せ、竜は低く咆哮した。 その声は大地を揺らし、遺跡の外に広がる世界へ響き渡る。 巨大な翼が、一度、大きく羽ばたいた――瞬間。 遺跡を閉ざしていた岩盤が砕け散り、舞い上がった瓦礫と黒い魔力の奔流の中、竜の巨体が宙へと浮かび上がった。 遺跡の天井が崩れ、魔王の魔力を直接注ぎ込まれた異形の子供たちは、不気味な咆哮を上げながら、一斉に地上を目指して這い出し始める。 狭く閉ざされた地下から遥かな空へ、魔王を背に乗せた竜が、数多の災厄が、ついに世界へ解き放たれる。 世界を壊すために。 竜の羽ばたきは、終焉の始まりを告げる産声のようでもあった。           ※ ― 勇者side― 地上は、またたく間に地獄へと変貌していった。 遺跡から解き放たれた魔物たちの力は、これまでの防衛線がまるで紙細工であったかのように思えるほどに圧倒的で、人間の戦士たちは悲鳴を上げる暇さえ与えられずに蹂躙されていく。 降り注ぐ血飛沫と焼け焦げた魔力の残滓が混ざり合う最前線で、勇者ルイアスは、ただ一人、神々しい金色の輝きを放ちながら聖剣ラグエルを振るっていた。 容赦なく襲い来る異形の爪を弾き、肉を断ち切るたびに、ラグエルの刃から溢れる光が戦場を照らし出す。 しかしどれだけ倒しても、地平線を埋め尽くす闇の軍勢が途切れることはなかった。 「くそっ……きりがねぇ……!」 息を荒げ、返り血に塗れながらも、ルイアスは限界を超えて剣を振るい続けていた。 竜の咆哮が、空を裂いた。 空を覆うほどの翼を羽ばたかせながら、頭上を旋回していた。 ルイアスは、ふとその動きを止めた。 最初に違和感を覚えたのは、音だった。 戦場に常にあるはずの音が、遠ざかった気がしたのだ。 硬質なものがぶつかり合う音、魔術が炸裂する音、肉を切り裂く音、誰かの怒号、傷ついた者の呻き声。 それら、戦場という場所を形作っていた音が、次第に遠ざかっていく。 「……?」 ルイアスは剣を構えたまま、周囲を見渡した。 魔物の襲撃が止まったわけではない。 魔物は目の前にいて、牙を剥き、爪を振り下ろしてくる。 ルイアスは目の前の魔物を切り伏せ、再び周囲へと意識を張り巡らせた。 異変は、音だけではなかった。 目の端に映る兵士たちの動きが、明らかにおかしい。 とある兵士が、戦場の真ん中で立ち尽くしていた。 剣を握ったまま、茫然と。 次の瞬間、兵士の肩が、小さく震えた。 ――笑っている。 何も映していないような瞳を虚空へと向けて、嬉しそうに、楽しそうに。 まるで、ずっと失っていた何かを取り戻したかのように。 当然、兵士の視線の先には誰もいない。 ただ、黒い霧が漂っているだけだ。 「おい!」 呼びかけるが、男の耳には届いていないようだった。 まるで、ずっと探していたものをようやく見つけたような顔で、虚空へ手を伸ばしている。 次の瞬間。 別の場所で叫び声が上がった。 「やめろ!」 仲間同士が剣を交えていた。 「何してんだよ!」 止めに入ろうと近づいた瞬間、甘い香りが鼻を掠めた。 咲き誇る花のような香りは、場違いなほどに優しいものだった。 春の日差しの下、孤児院の庭で感じたあの香り。 闇に覆われた宿屋で、そして勇者として初めて立った戦場でも嗅いだ香りは、ただ一人の姿を思い起こさせた。 「――ノア」 無意識にその名を呼んだ。 ラグエルの声が、脳内に響く。 『ルイアス』 いつになく低い声だった。 『気をしっかり持て』 「……分かってる」 これは、魔王の力だ。 気を抜けば、心を奪われる。 胸がひどく締め付けられた。 これは敵意ではなく、殺意でもない。 ルイアスの脳裏に思い浮かんだのは――ノアの泣き顔だった。 手の中の聖剣が、僅かに震える。 『来る』 その瞬間――戦場に闇が落ちた。 時が止まったような静寂に包まれる。 荒れ狂っていた魔物たちがぴたりとその動きを止め、一斉に道を開けた。 黒い霧が大地を這う。 その中心から、一人の青年が歩いてくる。 金色の髪。勇者と同じ、金の瞳。 闇の立ち込める中にあって、その姿はあまりにも相応しくないものだった。 可憐で儚い立ち姿は、今にも夜に融けて消えてしまいそうなほどだった。 だがその身が纏う気配だけは、紛れもなく闇そのものを思わせた。 誰もが息を呑み、立ち竦む。 魔王の存在は、ただそこに在るだけで人に恐怖を抱かせた。 香りが一段と濃くなる。 唐突に笑い声を上げる者、錯乱したように叫びだす者、泣き出す者と混乱が広がっていく。 「――ノア」 声が、震えた。 剣を握る手も、震えていた。 「ノア……止めろ」 恐怖ではない。 ずっと探していた。 宿屋で会ったあの日を最後に、また途絶えてしまった魔王の気配。 魔剣が、ひたすらに隠し続けていた気配。 あの日からずっと探していたもの。 何度夢に見たか分からない。 それが今、目の前にある。 「……ノア……!」 ノアと呼ばれた青年――魔王は、温度のない金の瞳を煌めかせ、静かに勇者の前に佇んでいた。 その身体から黒い霧が立ち昇り、闇の魔力が周囲に霧散しているのが見える。 まるで魔王のオーラそのものが、毒を吐き出しているかのようだった。 ルイアスは悟った。 ノアは、こんなふうに誰かを壊すために力を使う奴じゃない。 ノアはいつだって、自分が傷ついてでも誰かを守ろうとしていた。 これは、この惨状を引き起こしているのは、ノアの意思によるものではない。 「……っ……下がれ、早く!精神魔法だ!!」 周囲にいる兵達に叫んだ。 まだ辛うじて正気を保っていた者たちは、ルイアスの声に従い、動けぬものを引き連れて後方へと撤退していった。 再びノアへと視線を戻したとき、彼はただじっと、ルイアスを見つめていた。 聖剣を、鞘へと納めた。ラグエルは、静かだった。 一歩、二歩。前へと出した足は、枷を取り払われたように、歩調を早めていった。 気がつけば、駆けだしていた。 辿り着いたその先で、ノアの身体を抱き締めていた。 すべて考えるよりも先に、身体が動いていた。 「……っ……ノア……ノア……!」 ルイアスの腕の中に納まった魔王の、揺るぎない金色を湛えた双眸が、ゆっくりと細められた。 その表情は、笑っているようにも見えた。 けれど、それはかつてノアが浮かべていた温かな笑みではない。 どこか壊れた、歪んだ微笑みだった。 仄かな甘い花の香りは、いつしか熟れ過ぎた果物が腐り落ちたようなものに変わっていた。

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