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Episode23 自我の奪還
―勇者side―
抱きしめた腕の中から、甘美な気配が這い上がってくる。
頭の芯に絡みつくようなそれから、逃れられない。
かつての彼が漂わせていた、あの春の陽射しのような花の香りはもうどこにもなかった。
鼻腔を満たすのは、熟れすぎた果実のような、甘く濃密で、それでいてどこか傷んだ香りだった。
その金色の瞳には、戦場の凄惨な光景など何一つ映っていなかった。ただ、己の身を抱き締めるルイアスだけを見つめている。
見つめているが、己を映しているはずのその瞳は、もっとずっと遠くを見ているようだった。
「……ねえ」
耳元で鈴を転がすような声が囁く。
ノアの細い両腕が、まるで自ら進んで捕らわれにいくかのように、ルイアスの首筋へと回された。
触れ合う肌から伝わる熱は、身を灼き切るほどに熱い。肌と肌の境界が混ざり合い融けてしまうような、背徳めいた錯覚に捉われた。
「きもちいいこと、しよ」
甘く囁く声。
昏い情欲を誘う毒香が、理性を揺るがせる。
耳鳴りがして、視界が暗くなり、世界が遠くなるようだった。
暗がりから、手を招いているものがある。
その手は、恐ろしいものではなかった。
むしろ、かつて何度も自分を引き上げてくれた手に似ていた。
それでも、今この手を取ってしまうと、二度と戻れない気がした。
振り払うように、ルイアスはノアの両肩を掴んで己の身から引き剥がした。
「……っ、ノア……!」
「――しよ?」
小首を傾げるノアの唇は、微かに濡れて艶やかに光っていた。
姿形はノアのままであるのに、ルイアスの眼にはまるで知らないもののように映った。
耳鳴りの向こうで、ノアの声がする。
オ前モコチラヘ堕ちてオイデ――聖ナル光ヲ纏ウ者ヨ。
魔香の毒が、ルイアスの脳内を激しく揺さぶる。瞳孔が収縮し、鼓動と呼吸のリズムが乱れた。
本能が荒ぶっている。
目の前の細い身体を組み伏せて、すべてを暴いてしまいたいと。
「――っ……」
ルイアスは再び、その壊れてしまいそうな華奢な肩を抱き締めた。
後頭部に回した手に絡まる髪は、思っていたよりもずっと柔らかかった。
一緒に来て、と。そう言われている気がした。
何も感じなくていい場所へ。もう傷つかなくていい場所へ。
一人にしないで。
一緒にいて。
そう言って、泣いているノアが見えた。
ノアが独り沈んでいる場所に、どうしたらこの手は届くのだろうか。
「――しない」
低く、けれど大気を震わせるほどに確かな声だった。
「しないの?……僕のこと、きらい?」
「嫌いなわけないだろ。……お前のこと、嫌いになんてなれるわけない」
「じゃあ、どうして……?このからだ、好きにしていいよ。いっぱい、きもちよくなれるよ。そしたらきっと――」
「大事だからだ!」
ルイアスの怒号が、ノアの言葉を強引に掻き消した。
その顔を両手で包み込み、金色の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「俺は、お前を独りにはしない。そんな場所に、独りで置いていかない」
流れ込んでくる闇の魔力に手のひらが焼けるような痛みを覚えながらも、決して視線を逸らさなかった。
「でも。そこへ行くこともしない。お前を――こっちへ連れて帰る」
ノアの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「……ノア。俺の名前、分かるか?」
「……」
「ルイアスだよ」
「……ルイ、アス……」
「そう。ルイアスだ」
「……あ……」
至近距離でぶつかり合う、光と闇の意志。
拮抗していたその力のバランスが、崩れていく。
瞳の奥の金の彩が揺らいだのは、ノアの方だった。
深く、昏い水底に沈んでいた何かが、必死に浮上しようともがいている。
その先にあったのは、眩い光ではなかった。
ずっと手を伸ばし続けてくれていた、ひとつの温もりだった。
「ルイ……」
掠れた、震える声が、ノアの唇から零れ落ちた。
その瞬間、周囲に立ち込めていた香りが、急速に霧散していく。
「そう。ルイだよ。……遅くなってごめん」
「ルイ……るいぃ……っ」
ノアの瞳から、大粒の涙が溢れ出し、ルイアスの手のひらを濡らした。
魔王としての仮面が剥がれ、そこにあったのは、途方もない恐怖と孤独に怯えていた一人の青年だった。
ノアはルイアスの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
魔物たちの動きが止まった。
魔物たちは、主の泣き声を聞いていた。
それは世界を滅ぼすために与えられた力ではなく、初めて自分たちを慈しんでくれた存在の、弱々しい声だった。
やがて一体、また一体と、戦場から姿を消していく。
静寂の支配する戦場から、やがてすべての魔物が何処へともなく去っていった。
魔王の翼である竜だけが、大空を羽ばたき続けていた。
嗚咽を繰り返していたノアが、少しだけ落ち着いた頃。
「オムレツ……もう一回、作ってあげたかったな……」
涙で濡れた顔を少しだけ上げて、ノアは微笑んだ。
ずっと、護ってやりたかった笑顔だった。
「作ってもらう。約束しただろ」
ルイアスは泣き出しそうなのを必死に堪え、その笑顔を食い入るように見つめた。
ノアは小さく首を振る。
「終わらせて、ルイ。……君が、勇者で良かった」
「フザけんな」
ルイアスの声に、確かな怒りを孕む。
「俺にお前を殺せるわけねぇだろ」
「やらないと、たくさん人が死ぬよ」
「殺させない」
ルイアスの声音には、揺るぎない意志が籠っていた。
ノアを取り戻す。そのひとつの目的を果たすために、ここまで歩み続けたのだ。
今更何を言われたとて、それを覆すことなどできはしない。
「殺させない。死なせない。お前も、世界も、全部俺が守る」
腕の中のノアは、眩いものを見るような眼をして、ルイアスを仰いでいた。
やがて切なげなその双眸は、ゆっくりと伏せられる。
「綺麗事ばっかり……」
ノアはルイアスの胸を、弱々しく拳で叩いてくる。
何度も、何度も。
その手は、ひどく震えていた。
「そういうところが、昔から大嫌いだった」
伏せられた長い睫毛もまた、小さく震えていた。
涙で濡れた金色は、宝石を散りばめたようにきらきらと輝いていた。
「お前ってさ。嘘つくとき、いつも目を伏せるよな」
「……え」
ノアの瞳が、再びルイアスを映す。
「昔からそうだ。覚えてるか?買い出しに行った帰り、俺がつまみ食いしてさ。マザーにバレちまったとき、お前、『食べたのは僕です』って、目を伏せてさ。いや、お前なわけねーじゃんって、あのときはマザーと一緒に笑っちまったよ」
ルイアスは肩を揺らしながら、思い出すように視線を宙へと流した。
「あとは…そうだな。体調悪いのに無理して笑ってるときも、すぐに分かんの」
そうして再び、ノアを見る。
涙で煌めく、ノアの瞳。
もうかつての澄んだビー玉みたいな色をしてはいないけれど、今のノアの瞳もはちみつを溶かした飴玉みたいにきれいだと、ルイアスは思った
「……目を見れば、分かる。お前は本当に、隠し事が下手くそだな」
ルイアスはふっと口元を綻ばせ、涙に濡れたノアの目元を親指で優しく拭った。
「お見通しだって。俺はずっと、お前を見てたから。少なくともお前に嫌われてはいないって、そう思ってるつもりだけど。……違うか?」
「……ルイ……」
ノアはただ静かに、涙を流し続けた。
ただ冷たい水が溢れ出るだけだと思っていた瞳から、温かな雫が溢れては頬を伝い落ち、ルイアスの胸元を濡らしていった。
「帰ろう、ノア。で、考えようぜ、これからのこと。大丈夫、俺とお前なら、何とかなるって」
ルイアスは聖剣を握っていた右手を、真っ直ぐにノアへと差し出した。
ノアはその手をじっと見つめた後、小さく震える自分の手を、静かに、けれどしっかりと重ね合わせた。
幼い頃は、よく繋いでいたその手。
孤児院を出てから、二人の手が触れ合うのは初めてだった。
「……あったかいね」
涙を流しながら微笑むノアを見つめながら、ルイアスもまた泣きそうに笑った。
もう二度と離さない。
手の中の温もりを逃さぬように、ルイアスは握る手にぎゅっと力を込めた。
頭上を旋回していた竜の漆黒の翼が、低く立ち込める雲を切り裂いている。
鼓膜を劈つんざくけたたましい咆哮が、赤く染まった大地にいつまでも響き渡っていた。
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