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《第1話》代わりがきかない運命に捕まったのは果たしてどちらなのか⑥

 キッチンから、ご機嫌そうな歌声がかすかに聞こえてきた。  有名なウィーンミュージカルの一曲だ。日本版も人気で、昔からたびたび上演されている。  覗き込むと、たまごとバターのいい香りもふわりと漂ってくる。 「なに作ってる?」  シャワーのあと、真白がなにか作ると言い出したので、朝食の用意を任せていたのだ。  作るといっても、昨日スーパーで適当に買い込んできた食材はたいした種類ではなかったから、作れるものは限られている。 「フレンチトースト!」  明るい笑顔がこちらを振り返ってきた。 「ああ、美味しそうだな」 「でもチカちゃん、よく考えたら、洋食は食べ飽きたよね? あとで野菜とか魚とか買ってこようか?」 「おまえが食べたいなら買ってくればいいけど、オレにはあんまり気を遣わなくていいぞ。必要だったら、その時に自分で買ってくるから。……それより、これ」  真白がフレンチトーストを皿に乗せ終わったタイミングで、千夏は持ってきた封筒を差し出した。  中身が現金十万円であることを確認した真白が困惑の表情を浮かべる。 「なにこれ。今朝のセックス代……?」 「バカ言うな。そんなパパ活みたいなことするか。これで、美容院行って、髪の色染め直してこい。ついでにトリートメントも忘れずにな。残りは適当に服とか靴とか必要なもの買って、あとは健康によさそうな美味いもんでも食べておけ」  なにしろ、真白は最低限の貴重品を持っていただけで、替えの服も持っていなかったのだ。いま真白が着ているのは、千夏の服だ。 「それにしても多すぎじゃない?」 「そうか? ニューヨークでは美容院代だけで二万か三万円分ぐらいドルは普通にかかってた気がするが……そういえば、日本の方が物価は安いのか」 「あっちの方ってそんなに物価高いんだっけ? 大変だったね」 「まぁ、慣れればこんなもんか、って感じだったけどな」  真白が皿を運んでいる間に千夏はコーヒーを淹れようとして、冷蔵庫に昨日買ったコーヒー牛乳があったことを思い出した。 「シロ、コーヒーは飲めるようになったのか?」 「んー、カフェモカは好きー」 「生憎とチョコソースはうちにないな」  仕方ないので、二人分のコーヒー牛乳をグラスにそそいだ。  席について、揃っていただきますをする。  砂糖がたっぷり入ったフレンチトーストは少し甘すぎたけど、美味しかった。  懐かしい自宅の食卓に、ずっと連絡が取れなかった相手が当然のような顔をして目の前に座っているというのは、改めて考えると不思議な感じだった。 「そういえば、さっきの歌……」  少なくとも、真白の出演作ではなかったはずだ。 「ああ……この間、歌番組でミュージカル特集やってて、何気なく見てたら、耳に残っちゃってさ。なんか音程変だった?」 「いや、すごく上手かった。録音させてもらいたいぐらいだった」  真白は声変わりが遅かったから、声変わりのあとに出演したミュージカル作品は少ない。  子役時代は高く透き通る声が特徴的だったが、今は、高音域だけでなく、低音も魅力的に感じられる。 「録音は言いすぎだよ」  純粋に嬉しそうに笑う真白は、その声帯がどれほど貴重なものであるか、おそらくちゃんと理解していないだろう。  やはり、改めてちゃんとミュージカル流の発声を学んでほしい。しかし、昨日の今日なのであまり強く言えない千夏は、ぐっとこらえて黙り込んだ。 「……あのさ、チカちゃん、ちょっと考えてみたんだけどさ、オレ、やっぱり今すぐまたボイトレとかダンススクールに通う勇気はないや。もう少し……気持ちの整理がつくまで待ってほしい」  千夏がなにか言いたそうにしているのを察してか、真白がおずおずと口を開いた。 「もちろんだ」  無理強いするつもりはない。真白はまだ若いし、もっと時間をかけてもいいと思っていた。 「でも、あの…………チカちゃんが直接教えてくれるなら、少しずつ……練習してみようかなって……」 「え?」 「だから……チカちゃん、わざわざニューヨークまで行っていろいろ学んできたんでしょ? それ、オレに教えてくれない?」  言われたことを飲み込むまで、数十秒の時間が必要だった。  しばしフリーズしていた千夏だが、いつまでもそうしてはいられないので、ハッと我に返る。 「もちろん喜んで、と言いたいところだが、オレに指導者の経験はないし、性格的にも、人に教えるのはあんまり向いてないと思うぞ。それでもいいのか?」 「そう? チカちゃん、教えるの上手いじゃん。昔よく、稽古場とか楽屋で、学校の宿題やってたらチカちゃんが教えてくれたよね。オレ、仕事が忙しくて学校あんまり行ってなかったからわからないところだらけで、すごい助かったよ」 「あれは、相手がシロだったからで……」  最初は、黙って向かいの席で自分の分の宿題をやっていた。  そのうち、真白の手がたびたび止まっているのがふと気になって、ついつい、『どこかわからないところがあるのか?』と声をかけてしまったのだ。  千夏の説明自体はシンプルで、そんなに丁寧でもなかったと思う。真白の理解力が高いからすんなりと話が進んだだけだ。 「それにね、他の誰かじゃなくて、チカちゃんに教えてもらいたいんだ。あ、もちろん、チカちゃんも仕事があって忙しいだろうから、短い空き時間とかでじゅうぶんだから……」 「わかった」  気が逸りすぎて、真白が言い終わる前に返事をしてしまった。 「事務所行った時に、スケジュール調整してくる。あと、近場のスタジオの予約を押さえてくる」 「ははっ、行動、はやっ」  明らかに顔つきの変わった千夏に、真白は苦笑している。 「しょうがないだろ。楽しみなんだから」 「チカちゃん、そういうところ、いつまでたっても若いよね」 「そうだな。シロが『ほぼ同級生』って言ってくれたから、これからはもっと若作りしていこうと思う」 「あははは! じゃあ今度、手を繋いでデートしてくれる?」 「ああ、いいぞ。今日行くか?」  あっさりと答えたあと、千夏は大きく口を開けてフレンチトーストを頬張る。  真白は一瞬固まったあと、「ええっ!?」と声を上げた。 「いいの!? ほんとに!?」  そんなにびっくりされたことに、千夏の方がびっくりした。  デートといっても千夏は普通に変装して行くつもりだし、真白も今は一応成人男性だ。並んで歩いていても、なんら違和感はないだろう。  手を繋ぐのは……観光客も多い街中なら、そこまで目立つことはないはずだ。 「夜の七時ぐらいなら、都合つけられると思う。渋谷あたりでもいいか?」 「……うん。嬉しい。ありがとう」  可愛い顔で素直に喜ばれて、柄にもなく照れてしまいそうになる。 「髪と服、バッチリ決めて行くね」 「おう。オシャレしてこい。さっき渡した金、全部使ってもいいぞ」  身だしなみに気を遣えるぐらいの方が健康的でいいだろう。デートの約束ぐらいで元気になるなら、何度だって付き合ってやってもかまわなかった。 「じゃあ、出世払いであとで返すから、覚えといて」 「ははっ、そりゃあいいな」  おまえなら、本気出せばオレよりも出世するはずだよ。  想像してみたら、少し悔しいけど、それ以上に楽しみで、わくわくしてきた。  演劇においては、どの役にも必ず代役が用意されている。  だけど、オレの人生において、おまえの代役ができる人間はどこにも存在しないんだ。  そのことにどうか、早く気づいてほしい。     第1話・END     

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