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《第2話》アンハッピーエンド症候群①
今でも毎日、夢を見ているような気分になる。
夢から醒めたらまたいつの間にか自分の居場所がなくなっていそうな気がして、とても怖い。
「チカちゃん、それ、今度出演する舞台の台本?」
「んー、まだ仮台本だけどな」
リビングのソファに座って台本を読んでいる千夏の前のテーブルにコーヒーを置くついでに声をかけたが、反応は鈍かった。
千夏は、集中している時に声をかけられるのを嫌うタイプだ。
邪魔してはいけないと思って、真白はダイニングテーブルのイスの方に座り、その様子をじっと眺めていた。
千夏が台本や、芝居に関する資料を読んでいる時の、真剣な顔が好きだ。
顔がカッコいいからというのももちろんあるんだけど、クールそうな見た目の下に隠された情熱が垣間見れて、不思議と見ていて飽きない。
十一年前に初共演した時からそうだった。
愛想はないけど礼儀正しく、自分が演出家に見てもらう番じゃない時も稽古場の隅や外で黙々と一人で稽古をしている時の真摯な姿が印象的だった。ご飯の時でさえ、千夏はずっと台本を開いていた。
ああ、あの人は本当にお芝居が好きなんだな、と見ているだけでわかった。
三十分ほど無言の時間をすごしたあとで、ひととおり読み終えたらしい千夏がコーヒーをようやく飲み始めた。
とっくに冷めているが、千夏は気にしていない様子だ。
「シロも読むか?」
そして唐突に声をかけられる。
「え、いいの?」
「おまえの解釈を聞きたい部分があるから、よかったら読んでくれ」
「オレの解釈が役立つかはわからないけど」
「なに言ってるんだよ。おまえ、オレよりも台本を読み込む力あるだろうが」
そうだろうか。勘がいい、とは以前、演出家に言われた気がするが、絶対に千夏の方が真剣に台本と向き合っていると思う。
てっきり台本を渡されるのかと思っていたから、受け取るために立ち上がったら、差し出した腕を掴まれた。
ごく自然に引き寄せられる格好で、千夏の膝の間に座らされたあとで、真白は混乱した。
(……??)
「シロのペースで読んでくれていいから」
どうやら千夏も一緒に最初から読み直すつもりらしい。
それはいいけど、この体勢はなんだろう。
背中から腰にかけてがほぼ密着している。
いちゃいちゃするつもりならまだわかるが、渡された台本を真白がめくりはじめても、特になにも仕掛けてくるでもなく、背後からじっと文字を追っている気配が伝わってくる。
いや、そもそも千夏は、他人とベタベタいちゃいちゃするタイプではないはずだ。
騒いだら離れていってしまうかもしれないと思い、ひとまず何も言わずに真白は目の前の台本に意識を集中させることにした。
三分の一ほど読み進めたあたりでおもむろに髪に触れられた時には、思わず肩をビクッとさせてしまいそうになったが、かろうじて平常心を装った。
ここにきた翌日、美容院で金茶っぽい色に染め直してきた髪を千夏は気に入ったらしく、たまにこうして頭を撫でられる。
伸び気味だった毛先を切り落として、一番高いトリートメントできっちりと艶を取り戻したこともお気に召したらしい。
ベッドの中で、頬ずりされることもある。
――今は、ベッドの中ではないのに髪に頬ずりされた。
(誘われてる? いや、まさかね……)
再会してからは十日が経過した。
いろいろと大事にされていることは伝わってくるが、千夏の考えていることは、いまだによくわからない。
何気なく回された手が腹のあたりを触ってくる気配があったが、これは肉付きが戻ってきているのを確認するためだ。それはわかる。
千夏は真白が病院で栄養失調と診断されたことを気にしており、できるだけ早く健康状態を取り戻させるようとしていた。
毎日食事についてあれこれ指導し、体重まで毎日きっちりチェックしているのである。
千夏が一日中仕事で外出した時に、カップ麺と野菜スティックと菓子パンで一日の食事をやり過ごした時は、めちゃくちゃ怒られた。
恋人というより保護者だ。
放任主義の両親に適当に甘やかされつつも適当に放置されて育てられた真白としては、『世間一般の親ってこんな感じなのかな』と思ってしまったぐらいである。
「どうした? 疲れてきたか?」
半分ほど読み終えたところで、髪を優しく撫でていた手が離される。
集中できていないのが、とうとうバレてしまったらしい。
「いや、あの……チカちゃん、ちょっと聞いていい?」
「なんだ?」
振り返ったら、いつもの涼しげな表情が目の前にあった。
「チカちゃんって、こういうのアリの人なの?」
意を決して、真白は疑問を口にする。
「こういうのって?」
「え、えっちの時でもないのに、こうやってくっついて座るのとか……」
「……あ?」
怪訝そうな顔をされる。
あ、ダメだ、怒られるかも、と真白は覚悟した。
「……嫌だったら、もうやらないけど」
「い、嫌じゃない! オレは全然嫌じゃないけど! ほら、昔、チカちゃんの膝の上に乗って、『やめろ』っておろされたことが何度かあったじゃん! だから、チカちゃんの方が嫌じゃないのかなって……」
「……いつの話してる?」
「オレが小学生ぐらいの、時……?」
一回は、最初に共演した時の打ち上げ中かなにかだった気がする。もう一回は雑誌の取材で顔を合わせた時で、あとはバラエティ番組の撮影の休憩中だったはずだ。
千夏は真剣に考え込む表情になった。
やがて思い出したのか、眉根が寄せられた。
「……高校生が小学生を膝に乗せてたら、どう考えても恥ずかしいだろ。当たり前だ」
「えっ、でも、まわりにいたスタッフさんとかは、『あら可愛いわねぇ~』ってニコニコしてたよ」
「それが恥ずかしかったって言ってるんだよ!」
「……思春期だったんだね」
「うるさい」
よく考えたらあの頃はまだ真白も調子に乗っている時期だったから、遠慮なく千夏に絡んでいたのだ。
そのたびにクールにあしらわれていたが、一切めげなかった当時のメンタルの強さが、今となっては我ながら羨ましい。
「そのあとチカちゃんがどっか行っちゃったから、たまたまそれを見てた芸人のおじさんが、かわりにオレを膝に乗せてくれたんだよ。オレはチカちゃんの膝に乗りたかっただけなのに!」
あれはバラエティ番組の撮影の時だったと思う。
「えっ……おまえ、なんかされなかったか?」
「ちょっと太腿撫でられた気がするけど、それだけだから大丈夫」
千夏の顔があからさまに引きつった。
「おまえは! おっさんにホイホイセクハラされてるんじゃない!」
「チカちゃんがオレをかまってくれなかったせいじゃん!」
「わかったよ! オレが悪かった! ほら、膝に乗せてやるから、もうオレ以外の男に触らせるなよ!」
ほとんどヤケクソのように言われたが、台本を傍らに置いた千夏は、ちゃんと膝の上に乗せてくれた。
「わーい!」
テンションが上がった真白は、小学生みたいにはしゃいで足をバタバタさせた。
やれやれ、という気配が伝わってくるが、十年前は許されなかったことを許されるようになったのは嬉しい。
「ところで、二十八歳が二十一歳を膝に乗せるのは恥ずかしくないんだ?」
今の方が体重も重くなっているし、絶対に絵面的には高校生が小学生を膝に乗せる方が可愛らしかったはずだ。
「別にいいだろ。今は、付き合ってるんだから」
――付き合ってるつもり、ちゃんとあったんだ。
自分の思い込みではなく事実なんだと確認できて、真白は安心するのと同時に、落ち着かない気持ちになる。
「はは……なんか、恥ずかしいね……」
腹に回された千夏の手に自らの手を重ねながら呟く。
千夏はなにも言わなかった。
顔が見たかったので、体を反転させて向かい合う格好になる。
「こっちの方がよくない?」
「これはなんか違うだろ」
千夏もまた、落ち着かなさそうな顔をしていた。
「そう?」
真白の方からキスをしたあとで、確かにこれは、小学生を膝に乗せるのとは全然違うということに気づいた。
密着度がたいして変わらなくても、向かい合わせの方がやばい気がするのはなぜだろう。
ドキドキしてくる。
そんなつもりじゃなかったのに、体が勝手に反応してしまいそうになる。
「台本、さっきの続き、読むか?」
「この体勢で……?」
「オレは別にかまわないが」
「それはさすがに嘘でしょ」
首を横に向ければ読めないこともなさそうだが、そういう問題ではない。
「対面座位ってこういう体勢のこと言うんだっけ……?」
「…………」
軽く睨まれた。
膝に乗っているせいで今は千夏の方が目線が低く、上目遣い気味に見えるのが新鮮だった。
「台本、明日ちゃんと読むよ。それじゃダメ?」
どっちみち今日はもう集中して読めない気がしてきた。
「ついでに相談したいことがあったんだが……まぁ、明日中に読むならいい」
おもむろに首の薄い皮膚に口づけられたかと思うと、いつもより強めに吸われる。
「……っ、ちょ、いたい。なに……」
噛まれたわけではないのに、少し痛いぐらいだった。
「おまえの皮膚、やっぱり痕つきやすいんだな」
今しがた吸われたばかりのところを指先で撫でられて、まじまじと観察される。
「えっ、もしかして、キスマークとかつけたの?」
「つけた。前から、痕が残りやすそうな感じだなと思ってて、やってみたかった」
「…………」
ものすごくあっさりと言われて、真白は反応に困る。
千夏は愛情表現が過剰な方ではないし、そういうことをするタイプではないと思っていたから意外だった。
「今は休養中だから問題ないが、仕事するようになったら、気をつけないとな」
「じゃ、じゃあ、今のうちにたくさんつけてもいいよ……?」
こういう誘いに乗るのかどうか、試してみたくて言い出した。
「……」
じっと顔を見つめられたあとで、少し上の位置を吸われた。
「ぁ……」
さっきよりも甘い吸い方だった。気持ちいい。
思わず、鼻にかかった声をあげてしまう。
「いいのか? 体中、キスマークまみれにするぞ」
低い声は抑揚がないのに、逆にそれが官能的に響く。
「はは……それ、めちゃくちゃ興奮するやつだね……」
想像しただけでゾクゾクしてきた。
この人のものにされたい、とずっと思っていた。
捕まえたつもりになってもすぐに手の中からすり抜けていってしまう、結局は誰のものにもならない存在だと思っていた。
また、いつの間にか手の届かないところにいってしまうのではないかという不安はいまだにある。
手放される前に、消えない痕を刻んでほしかった。
「チカちゃんが、芝居以外でそういう台詞を言うとは思わなかったよ」
「……おまえはオレをなんだと思ってるんだ」
シャツをめくられて、左胸の下あたりも吸われる。
「ん……っ」
乳首だけは避けて胸のいたるところに口づけられるのがもどかしかった。
腰を支えるために添えられていた手が尻を撫でてきて、勝手に腰が揺れる。
「……勃ってるな」
「チカちゃんだって」
今さらすぎる話だった。
この体勢になった時から、お互いに、体は勝手に期待していた。
「ベッドに連れていってもいいか?」
「……お風呂は?」
まだ夕方だ。夕飯すらまだすんでいない。
「あとでいいだろ」
ひょいと抱き上げられる。
いつものことながら、物凄く軽々と抱えてくれるものだ。服を着ているとすらりと細く見えるが、やっぱりダンスや芝居をやっているだけあって、体がしっかりできているのだ。
身長は171センチと、そこそこあるわりに細すぎる真白とは大違いだ。
「よしよし、ちょっとは重くなってきたな。安心した」
「…………」
ここに来てからだいぶ健康的になってきた自覚はあるが、もっと重くなっても抱き上げてもらえるんだろうか。それだけが気がかりだった。
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