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《第4話》宮部家の父と母①

「真白くんのお母さんって、今日も稽古見にきてないの?」 「しょうがないよ。あの人、忙しいみたいだから……」 「ジャズ歌手だっけ? それにしてもさぁ……顔合わせの時に挨拶にきて、それっきり。あとはマネージャーに任せっきりって、保護者としての自覚が足りないんじゃないの? 真白くん、まだ小学生なのよ。同い年の司くんのお母さんは毎日きてるのに……。せめて送迎ぐらいしてあげたらどうなのかと思うんだけど」  大人は噂話が好きだ。それが、誰かを貶める内容ならなおさら、話が盛り上がるらしい。  稽古場で、母親よりも年上の女優たちがこそこそとそんな会話を交わしているのが聞こえてきたが、いつものことなので、真白は聞こえないフリをしていた。  だいたい、今は一ヶ月後に開幕するミュージカル公演の演出をつけてもらっている最中で、それどころではない。  一瞬、現実に引き戻されそうになった意識を演技の方に戻して、虚構の中を生きる自分の役に集中する。  今回演じる人物は、前回の出演作よりも台詞が多いし、悩み多き人生を生きる、繊細な役どころだ。  彼の不幸を思えば、真白の不幸など、取るに足らないものだ。  別に、現実逃避してるわけじゃない。  別に、自分よりも不幸な人間のことを考えて自分を慰めているわけじゃない。  どうやら人間というやつは、『可哀想』な人間が好きみたいで、勝手に『可哀想だね』『大変だね』と同情したりしてくるけど、当の本人にとっては、なんでもないことだったりする。  不幸ぶっている方が優しくしてもらえるし、全然平気という態度を取っていると今度は『生意気』『強がってるんだね』と勝手に解釈されるので、適当に、相手が求めている反応を察して話を合わせているけど、真白自身は、勝手に妄想を膨らませている他人の方が、『冷たい』と言われている母親よりもよっぽど恐ろしい存在に思える。  母が稽古を見にこないことについて、真白は『そういうものか』と割り切っていた。  他人に指摘されてはじめて『言われてみれば寂しいかもしれない』とぼんやり思ったぐらいだ。  母は、自由な人なのだ。  息子を愛していないわけではない。  ただ、その愛し方が、一般的に言われる『母親』の枠からはずれているのだと、小学六年生になった真白にはだんだんわかってきた。  でも、真白にとっては今の母のあり方の方が『当たり前』なので、別に変えてもらいたいとは思わない。  本番に入れば何度か劇場に足を運んでくれるし、上手くできてたらちゃんと褒めてもらえるし、それでじゅうぶんだ。  ――こういうこと、誰かに話したら、『冷めてるやつ』とか思われちゃうんだろうな。  誰も、なにも言わなければ自分も気にしなくてすむのに。  芝居は好きだけど、いろんな人が集まる稽古場の空気は、時々、息苦しい。 「いいね。じゃあ、水飲んで休憩して」  演出家の言葉に、ほっと息を吐いて、真白は水を取りに向かおうとして、ふと、強い視線が自分に向けられていることに気づいた。  振り返ると、稽古場の隅に、さっきまでいなかったはずの人物の姿がある。 「チカちゃん!」  思わず、声をあげて駆け寄った。  黒いジャケットに黒いシャツの、派手さはないものの洒落たストリート系ファッションに身を包んだ佐渡千夏が、壁に背を預ける格好で立っていた。 「なんで? どうしてチカちゃんがここにいるの? 誰か見に来たの?」  千夏は今回、共演者ではない。  見学に来たという雰囲気だが、誰か、千夏の知り合いが出演者の中にいるのだろうか。 「ああ……おまえを見にきた」  相変わらず無愛想な顔で、千夏はさらりと言い放った。 「オレ!?」 「真白ががんばってるって聞いたから」 「……!?」 「うちの事務所の先輩が、制作の人と知り合いだっていうから、頼んで見学ってことで入れさせてもらったんだ」  びっくりしすぎて真白がぽかんと口を開いたまま固まっていると、大きな手が、不器用に頭を撫でてくる。 「前より上手くなってる。すごいな、おまえ」  笑いもせずに、ぶっきらぼうに言う千夏からは、お世辞も媚びも感じられなかった。  ただ、同じ役者として、認められているのだということが伝わってきた。 「さっきの、台詞から歌に切り替わるところの声の変化とか……」  千夏はさらに、演技面と演出面について、細かくあれこれと語ってきた。  純粋に、芝居が好きな人なのだ。  友達だからではなく、真白が大物俳優の息子だからではなく、ただ単純に、真白の演技が見たくてここにいるのだ。  ――ちゃんと、見てくれる人がいるんだ。  がんばってたら、がんばってることを純粋に評価してくれる人もいるんだ。  親になんて稽古を見てもらわなくても平気だし、褒めてもらえなくても気にしない。  そう思っていたはずなのに、今、千夏に見てもらえて、がんばってるのを認めてもらえていることが、魂が震えそうなほど嬉しい。 「あと、これ、差し入れ。東京駅で有名な……えーと、カヌレなんとかって名前の店のカヌレ。これはおまえの分しか用意してないから、帰ってから一人で食べろよ」 「うん……ありがとう。いいの?」  渡された白い紙袋を覗き込む。  箱に入っているので中身は見えないが、ほんのりと甘い匂いがただよってきた。 「ああ。稽古場のみんなにはドーナツ差し入れといたから。そっちもあとで食え」 「うん……」  言いたいことが、たくさんあるはずなのに、胸がいっぱいで言葉にならない。 「本番、楽しみにしてる」 「……本番も、見に来てくれるの?」 「当たり前だろ。オレ、先行抽選で、初日と千秋楽のチケットを当てたんだぜ? すごいだろ?」  自慢げに言われて、真白は笑ってしまった。 「言ってくれれば、関係者枠でチケット押さえたのに」 「いいんだよ。こういうのは、自分でチケット取った方がワクワクするだろ」  クールだとか無愛想だとか言われがちな千夏だが、彼にもこんな子供っぽい一面があることを、どれだけの人が、知っているだろう。  真白も少し、得意げな気分になった。 「チカちゃんの次の舞台はいつ?」 「オレは……決まってはいるけど、次はアンサンブルなんだよなぁ。おまえを招待したいところだけど、それは今度、ちゃんとした役をもらえた時にでも……」 「それでもいいよ。チカちゃんが舞台に立ってるところ見たい! オレも絶対、チケット取るから、情報解禁になったらすぐに教えて!」 「……っ」  その時の千夏の表情は、何年たっても鮮明に思い出せるくらい、真白の心に深く刻まれることとなった。  真夏の太陽の下の向日葵みたいな、眩しい、無邪気な笑顔だった。 「ありがとな、真白。オレもがんばれそうだわ」  もう一度頭をぽんと撫でられて、たまらなく、胸が熱くなった。  あとから思い返せば、よくある役者同士の会話だったかもしれない。  特別なことなんてなにもなかったのかもしれない。  でも、ささいな言葉のやりとりで、信じられないくらいやる気が出たり、心が救われることもあるのだ。  恋をしたのだ。  ハッキリとそう自覚したのは、この時だった気がする。  ――迎えた公演初日。  予定よりも少し早く準備が終わったので開場前の劇場ロビーに出ると、フラワースタンドが並んでいた。  主演級の役者宛のフラワースタンドは、花も送り主も、なかなか豪勢だ。  その中にまじって、控えめだが品良くまとめられた、黄色と白の花のスタンドがある。  宮部真白様、と立て札に書いてある。  真白宛てにフラワースタンドが届いていることはスタッフの人が教えてくれて知っていたが、送り主までは聞いていなかった。  立て札の下の方に『佐渡千夏より』と書いてあって、真白はくすっと笑みをもらした。  花を贈ってくれるなんて、一言も聞いていなかった。  びっくりしたけど、なんだかある意味千夏らしくて、笑ってしまった。  呆れるほどまっすぐで純粋な、同じ役者としての敬意からくる行動だとわかるから。  どんな顔でこの花を選んだのだろう。相変わらずの仏頂面だろうか。それとも少しは照れくさかったりしたのだろうか。  想像したら、おかしくて、すぐにでも千夏に会いたくなってきた。  でも、もうすぐ会える。  稽古場の時よりも本気の演技を見てもらえる。  役者をやっていてよかった、と心から思えた。 「今、オレががんばってることは無駄じゃない、ってことを、チカちゃんが教えてくれたんだよ。だから、ちゃんと見てて」  こっそりと呟いて、真白は、本番前の緊張感の心地よさに目を伏せた。

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