21 / 33
5 ローマの雪(1)
聖堂の中央にある柱時計が午前十一時をさした頃、思いがけぬ珍客が現れた。
アンドレアが床から五メートルの空中の足場で素描を進めていた時である。
素描は作品の中央から描き始め、ある程度描いては床におり、全体との釣り合いを確かめる。壁画は下から鑑賞されることがほとんどなので、下から見た場合に絵にゆがみが生じていないかをチェックするためだ。
ここのところ毎日のように繰り返す頭痛も、スフォルツァからもらう薬がよく効くのでありがたい。梯子の上り下りは重労働だが、今日みたいに気分が乗っている時にはどんどん作業を進める。そんなふうにアンドレアが足場に登ろうと、再び梯子に足を掛けた時だった。
修道院に通じる通路のドアが、キイィーと奇妙な音を立てて、ゆっくりと開いたのだ。
まだ幼い少年が重たそうに木製のドアを支えている。すぐに手を離すと、その重みでドアはバタンと閉まった。手やら体やらを挟まないで良かったと、呆気にとられながら見守っていたアンドレアは胸を撫でおろした。
少年はアンドレアを見つけると、この年頃の子供らしく突拍子もないことをしゃべり始めた。
「大きな木がキラキラしてたのね。お星様がキラキラしていたんじゃないよ、クリスマスツリーが。こーんなにおっきくて、クリームみたいで、食べようとしたのに、目が覚めちゃった」
「――そう。…素敵な夢を見たんだね」
アンドレアの返事に子供の表情が和らぐ。こちらに走りよってくる途中で、躓いて転んでしまった。
「あっ」
声をあげたのはアンドレアだった。慌てて駆けよってかかえあげる。
転んだ子供をすぐにかかえあげれば泣かないことを、アンドレアは幼い子供達を世話した工房生活の中で学んだ。工房には画家を目指して幼少期から預けられる子供もいれば、子連れで出勤する既婚者もいる。彼らの子供をあやすのも工房での仕事の一つだったのだ。
少年は右の掌が少しすりむけている。
「これ、痛いね。大丈夫?」
「…平気」
子供は擦りむいた手を珍しそうにじっと眺めている。この目、誰かに似ている――と、アンドレアは思った。
まもなく少年は屈託ない笑顔になり、「きれいだね」「お姫様みたいだね」と褒めそやしながらアンドレアの髪に優しく触れて、戯れ始める。身に着けている服はハイブランドの落ち着いた風合いのもので、育ちの良さと大事に躾けされているであろうことが窺えた。
「あれ、何?」
子供が指差して訊ねる。
「梯子。ぼくは壁画を描いているんだ。ほら、あそこに薄いけれど、絵が見えるだろう?」
片腕で男の子を抱き、片手で指して教えるが、しかし相手ははるか頭上の絵よりも、目の前のアンドレアの髪に夢中なようだ。手と目線をアンドレアの髪から離そうとしない。
「なんで?」
「絵を描くように頼まれたからさ」
「なんで?」
なんで、を繰り返す。
そのような年頃なのだろう。
「大事な聖堂だから、壁画があれば華やかになるし…、壁画を見て、みんなで信仰を深めるんじゃないかな?」
すると、よく判らないといった顔をして首を傾げる。
まもなく、ファサード側の扉がゆっくりと開いた。南向きなので眩しい日差しがギラリと入り込む。
同時に、陽光の色と同じ鮮やかに光る黄色のワンピースが現れてアンドレアの目を引いた。
「まあ!」
入ってきた女性が目を丸くして叫ぶ。
「セルジュ! とても心配したのよ。あちこち探し回って――教会に隠れていたなんて!」
ウェーブのかかった金髪を後ろでアップにまとめている、上品で清楚な雰囲気の人だった。いかにも息を弾ませている様子で、頬も紅潮している。一心にこの子を探し回ったのだろう事が伺えた。
「マンマ!」
母親の顔を見て安心したのか、子供はアンドレアの腕の中で両手を広げて暴れた。アンドレアがおろすと、急いで彼女の元へと駆けよる。女性は今にも泣き出しそうな顔で子供を抱きあげた。
「まったく、マンマを心配させて悪い子! お仕置きをしなきゃ!」
凛とした声だった。思わず口走ったようなきつい言葉とは裏腹に、おでこにしっかりとキスをすると、かたく少年を抱きしめる。
ともだちにシェアしよう!

