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5 ローマの雪(2)
続けてアンドレアに視線を向けてきた。
誰にでも好感をもたれそうな、穏やかで澄んだまなざしを持つ人だった。
「新しい壁画を描いていらっしゃる方ね」
「ええ」
アンドレアは頷いた。
「息子がお邪魔して、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。先程、転んでしまいました」
「あなたが?」
驚いて目を丸くする彼女にアンドレアは思わず苦笑して首を振った。言葉足らずは自分の悪い癖だと思う。
「いいえ。ご子息が、です。右の手のひらを怪我しています」
「まあ!」
息子の手をとって確かめる。「大丈夫?」と優しく言い添えると、セルジュが「うん」と頷き返す。
女性は姿勢を正してアンドレアに向き合った。
「本当にお世話おかけしましたわ。ええと、お名前は――――」
「アンドレア・サンティです」
「ありがとう、サンティ様。私は当主エドアルドの妻、タチアナですわ」
明瞭に言い添える。その返答を聞いたアンドレアの一瞬の動揺を、タチアナは目ざとく捉えたようだった。
「ええ。驚かれるのも無理はないわ。あの人は誰にでも、独身のようにふるまっている人ですもの」
それから寂しげに視線を下ろす。
「私のことは公然の秘密なの」
自嘲的に言い、フフッと軽く笑う。
奇妙な夫婦だと思った。
あれだけ夕食を共にしながら、エドアルドはアンドレアに対して妻の存在をいっさい覚らせなかったのだ。
奇妙なのはあの城内もである。
初日に紹介を受けていろいろな部屋を見させてもらったが、夫人が暮らしていそうな区域はなかった。きっとあえて紹介されなかったのだ。まるでその存在を部外者にひた隠しにでもするように…。
セルジュの手を引いたタチアナがアンドレアの隣に立ち、うっすらと浮きあがっている下絵を見あげる。
「すてきね。これだけでも分かるわ、あなたがどんなに素晴らしい才能をお持ちなのかって。いつから壁画のお仕事をされているの?」
紅を引いた形の良い唇が静かに語を紡ぐ。
「十八からです」
「何年、このお仕事を?」
「五年です」
「では今は二十三歳なのね。…ごめんなさい、何歳なのかと思ったの。私より一つ年下なのだわ。ずっとローマに?」
気さくな人柄らしく、夫人は親しげに尋ねてくる。
「ローマに来たのは初めてです。工房はトリノにあります。単独の仕事ではミラノや…、この前までは、パリにいましたけど」
「すごいわ、そんなにいろいろなところに――――城にこもりきりの私なんかとは違って広い世界を見ているのね。私はね、フィレンツェにある寮制の女学校にいて、卒業後、親に勧められるままにすぐに結婚してしまったの。これまでの人生で一番の後悔は、それよ」
一見、明るそうに見えるこの女性は、暗い苦悩を心に抱えているようだった。
「狭い世界というなら僕も同じです」
何となく親近感を持ったアンドレアは、視線をタチアナへと向けた。
タチアナが不思議そうな顔をして目をしばたく。
「八歳で美術工房に入ってから、何十人もの中で共同生活をしてきました。工房の中での勉強は絵ばかりで…。他の楽しみを知らずに生きてきたんです。仕事でミラノやパリに行っても、現場にこもりきりで一箇所も観光しないんですよ」
「あら、そうなの?」
タチアナが驚きの目で見あげてくる。
アンドレアは首をすくめた。
「ぜんぜん、広い世界じゃないでしょう。心底、絵の世界にしか身を置いていない人間なのです、僕は…。でも、苦労はあっても好きなことをして生きているわけですから、幸せだと思いますけど」
苦笑とも自嘲ともつかぬ微笑を投げかけると、タチアナも柔らかく口角をあげる。
「そんなふうに前向きに考えるほうが人は幸せにいきられるなわ、きっと…」
透明感のある美しい笑顔だ。元から彼女は美人だった。
「わたし、お邪魔じゃない?」
「いいえ、ちっとも。ちょうど一服しようと思ったところです。少し頭がぼんやりするので、外に出たくて」
「ありがとう。私たちはもうすぐ昼食の時間ですわ。セルジュ、さあ、もうお部屋に戻りましょう」
セルジュを手に引き、扉へと進む。
アンドレアがレディ・ファーストで扉を開けると、育ちの良さが垣間見える優雅なカーテシーをする。
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