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5 ローマの雪(5)

 十二月の第一週、ローマに初雪が降った。  夕方、一休みするために表に出たアンドレアは空を見あげ、空から舞い降りる細かな雪の軽く頬を濡らすのを、心地よく感じて目を閉じた。  イタリア北部のミラノと違い、一年を通して温暖なローマ近郊での雪は珍しいらしい。朝食を持ってきたスフォルツァが驚いていた。  今このときも、教会のクリスマス装飾を見に来ていた六、七人の子供が、てんでに声をあげている。 「雪だ!」 「ひゃっほう、冷たい!」 「積もるかなぁ?」 「そりすべりしたい!」  オステア城に隣接する教会のクリスマスの飾りつけは華美ではないが、聖堂横の樅の巨木には煌びやかな電飾が施され、会堂前の広場には幅五メートルを超える台をしつらえて、降誕劇(ネイティビティ)が飾られている。  子供達はこの降誕劇を見に来たのである。時には台に乗りさえして、自分の背丈と同程度の人形に混じって真似てみせ、笑いあっていた。  例年ならば聖堂内にもクリスマスの飾りつけがなされるのだろうが、今は壁画の描き換え作業で立ち入り禁止となっているため、代わりに地下の『柱の間』にクリスマス用の祭壇が置かれ、内部装飾が施されている。  アンドレアは、聖堂内壁への石膏塗装、そしてプライマーによる地塗りを終え、素描を始めていた。  壁画制作の難しさはアンドレア自身、身に沁みて分かっているつもりだ。聖堂内壁の状態が予想以上に悪かったため、地塗りまでで一ヶ月以上を要してしまったのである。  歴史的に有名な壁画といえば、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』がある。  通常、建物そのものに絵を描く壁画や天井画には、フレスコ技法が用いられる。  フレスコ技法を用いた絵画は、その技法の特徴から永続的に劣化しにくい。しかし、フレスコ技法は描き直しや重ね塗りができず、地塗りの漆喰が乾くまでの数時間で作品を完成させなければならないという時間的制約があった。また、絵の具が漆喰と一体化するため、全体の色調が淡く、使用できる色彩にも限りがある。  時間的制約を嫌い、また写実的な出来栄えを重視したレオナルドは、自らの絵に重ね塗りは必要不可欠のものと考え、『最後の晩餐』にフレスコ技法ではなく油性テンペラ技法を用いた。  油性テンペラ技法は、顔料に卵黄を混ぜて用いるテンペラ技法を応用したもので、重ね塗りが可能で色彩が豊かなのが特徴だ。  アンドレアの前任者にあたる三百年前の画家もまた、レオナルドと同じ思いで油性テンペラ技法を用い、この教会の壁画を制作したに違いなかった。  しかし、油性テンペラ技法は壁画には不向きだった。  壁と絵の具が一体化しない油性テンペラ技法の作品は、建物の温度や湿度の変化にダイレクトに影響を受けるため、経年による損傷が激しいのだ。『最後の晩餐』の壁画もまた、レオナルド存命のうちにすでに顔料の剥離が起きたといわれている。  レオナルドの作品は、近年の奇跡的な修復により、現在、ほぼ原形を見ることができる。しかしアンドレアの前任者の壁画はもう、それとは分からぬくらいに絵画が剥がれ落ち、ほとんど跡形もなかった。  『経年劣化を抑えた油性テンペラ技法による壁画の制作』——この難行に、アンドレアは長年、取り組んでいた。  研究は十代から始めており、現在の段階でベストだと思う方法は、漆喰と石膏でキャンバスを作り、ある割合で混ぜた数種類の油性溶媒に顔料を溶かすのだが、その溶媒の種類と割合種類は工房の師匠(マエストロ)にも伝えられない。それは気候や気温に配慮して、アンドレアが勘と計算ではじき出すものだからだ。  この予想外の雪は、終わったばかりの地塗りに湿気を与えてしまうだろう。アンドレアは灰色の空をぼんやりと見つめた。  また、頭がズキっと痛んだ。  ここのところまた頭痛酷くなっている。  痛みは日毎に強くなっていて、ニコロから痛み止めを貰わないと仕事にさしつかえるほどになっていた。  頭痛なんてローマに来るまで経験したためしがないアンドレアは、なんとなく不安をかき立てられていた。何か重い病気に罹っている可能性もある。一度医師にちゃんと見てもらったほうがいいのだろう。 「おねえちゃんが、ここの壁画を描いてる人?」  小学校低学年くらいの少年がやってきて、無邪気にアンドレアにしゃべりかける。少し太り気味で、くりっとした目があどけない子だ。 「僕はおにいちゃんだよ」  微笑んだアンドレアに、少年は「あっ」と小さく叫ぶ。 「ごめんね」 「いいよ。よく間違えられるんだ」  子供は嫌いじゃない。  トリノの工房には毎年、数名の少年少女が画家を夢見て、あるいは親や周囲の期待に迫られて、入ってくる。  工房は、既婚者以外は全寮制で、その建物は男女に分かれている。  徒弟と呼ばれる彼ら後輩の生活の世話を寝食から全て、アンドレアは何年もの間行なってきた。アンドレア自身もまた幼いころに単身で工房へ入門してから、助手と呼ばれる先輩達の世話を受けて育てられたのだ。工房暮らしにとって子供は切っても切れない存在だった。 「それだけで寒くないの?」  シャツの上に薄いベストを着ただけのアンドレアに、少年が心配そうな視線を向ける。 「礼拝堂でストーブを焚いているから。今は、涼みに出てきたんだよ」 「そうなの?」  目を大きくして驚いている。  他の子供達がそんな会話に気付いてわらわらと集まってきた。 「あの人、壁画描いてる人だ!」  「マンマが言ってた。すごくきれいな人だって!」  アンドレアがこの町の人々と直接話したことはないが、小さなコミュニティではどんな噂でもすぐに広まる。

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