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5 ローマの雪(7)
「そうか。点灯はこの時間からか」
エドアルドも突然の光に驚いた様子で、その巨大な光のシャワーを見あげる。その精悍な顔つきにアンドレアの視線をしばし惹きつけられた。
「あなたはいつからそこにいらしていたんです?」
なんとなく気になって訊ねた。
「きみが聖堂から出てきた頃からだ。きみ達のやり取りを木陰からずっと聞いていた」
おやおや、という気持ちになった。
「盗み聞きが趣味ですか」
アンドレアの嫌味をエドアルドはさらりと躱す。
「壁画の進捗状況を見にきたんだ。しかしきみが疲れているようだったから、声をかけそびれていた。そうしたらあの連中だ。きみの青白い顔にも気づかずに、べらべらと喋りまくって――――まったく子供って奴は遠慮ってものを知らん。実に図々しい奴らだ。いいか、壁画を奴らに見せてみろ。今度は親がついて来るぞ。忠告するが、聖堂には誰も入れないことだ。ともかくあつかましい奴らだからな、このあたりの連中は。子供は特に、だ」
「あなたには呆れてものが言えませんね…」
ここまでの子供嫌いも珍しい。こんな父親ならセルジュも近くにいない方が良いだろう。
「誰しも、かつては子供だったんです。子供の幼さを否定することはできません」
失礼、と聖堂に戻ろうとした、その腕をとられる。
「壁画の進捗状況を見にきたのだが」
からかいとも棘ともつかぬ響きを帯びた声が追いかけてくる。アンドレアは足を止めて振り向いた。
「壁画にはご興味がなかったとお見受けしましたが。このところ、どんな風の吹き回しでしょう?」
エドアルドの口の端が皮肉にめくりあがる。
「俺は一応、修道院側との間に立つ依頼主なのでね。話に聞いていたよりもずいぶん時間がかかっているようなので、気になっているのだよ。もし監督が必要なら、用意するが?」
アンドレアには珍しく、直情的にカッとなった。
顔が火照るのを抑えられない。
仕事が遅い――――そう言われただけでも腹が立つが――――怠けるようなら監督を置く、とまで言われたのだ。今までに受けたことのない侮辱だった。
「あなたは何も分かっていないのに、端から口を出さないで下さい」
腕を振ってエドアルドの手を外した。エドアルドがわざとらしい困り顔を作る。
「俺は顧客だ。顧客に分かるように説明するのも、きみの務めだろう?」
なんて嫌味ったらしい男だろう。
癪に障ったアンドレアは、ひとつ息を深く吸い込んでやおら腕組みをすると、エドアルドに向かって問いかけた。
「ならばお訊きしますが、この聖堂が建てられてから何年経っているか、ご存知ですか?」
思いがけない質問だったのだろう、エドアルドは「え…」と困惑気味に口ごもる。
「えーと、七百年、かな?」
「千百十三年です」
城主のくせに母教会の築年数も知らないのかと、冷ややかに伝えた。
「その長い年月の間、聖堂はろくな修理もなされず、ローマの乾燥した空気にさらされた結果、無数の裂傷や深い亀裂が縦横に入り、現在の壁は壁画を描く者にとって非常に劣悪な状態です。そこで僕は、一つ一つの裂傷に漆喰を塗りこみ、壁面を平らにし、その後で石膏を塗り、さらにプライマー処理を行ないました。どれも絵を描く土台を作るために必要不可欠な、大事な準備です。作品が仕上がった際には、特殊な薬剤でコーティングもしなくてはならないと考えています。今のところ、素描は順調に進んでいます。ですが、今回お引き受けした仕事は、予定よりもかなりの時間を要します」
さらに語気を強めて続けた。
「加えて言うなら、エドアルド殿。かのレオナルド・ダ・ヴィンチは遅筆でした。作品の完成度を高めるために、時に画家には充分な時間が必要なんです。それを待つことができないならば、僕ではなく今からでも速筆を売りにする他の画家に頼んだらよろしいでしょう。何か、ご質問は?」
アンドレアの圧にたじろいでか、城主が黙り込む。まじまじとこちらを見つめ、やがてフッと笑みを溢した。
「何が、おかしいんです」
「こうも理路整然と説明されては、降参するしかないな。これが天才画家の矜持ってやつか」
「天才画家なんて大袈裟な呼ばれ方、僕は嫌いですね」
真面目に返したつもりが、また笑われてしまう。どうも、この男のペースには巻き込まれがちだ。
「こんなことなら、きみの美しい顔を見たくて来ていると正直に言えばよかったかな?」
妻もいて男の愛人もいるくせに、軽薄な言葉を吐く。冗談で済ませられないふざけ方にアンドレアは眉をひそめ、「くだらないですね」と一蹴した。
「いやいや、あの少女は可愛いものだと許されて、俺は許されないのか? そんなのは公平じゃないじゃないか」
すねて唇を尖らせる。どこまで本気だかしれない。いよいよアンドレアは閉口した。
「サンティ様!」
不意に、礼拝堂の横からニコロ・スフォルツァが現れて駆け寄ってきた。
アンドレアの世話役の修道士である。
「こんな天気にそんな薄着では、風邪をひかれます」
羽織っていた自分の黒い上衣を脱ぎ、アンドレアの肩にかけてくる。
「――ありがとう」
狙ったわけではないが、自然と目線が上向きになってしまった。目が合ったニコロが頬を赤らめたのが分かった。
「熱など出されて、あなた様が辛い目にあわれてほしくないのです」
わかりやすい好意と呼べるだろう。だがアンドレアはそれを軽く無視した。深入りしたばかりにこちらにも好意があると誤解され、痛い目に遭った経験があるからだ。出先での修道士たちとの関係は薄ければ薄いほどいいとアンドレアは考えていた。
「クリスマスにはトリノに帰るのか?」
横からエドアルドが話題を振る。アンドレアは首を振ってそれを否んだ。
「作業も進みますし、あなたさえよろしければ、ここに留まろうと思います。お邪魔になるようでしたらトリノに戻ります」
「まさか邪魔になるはずない。そういうことなら、ここに残るといい。この教会のクリスマスはあたたかくて賑やかだ。きみも楽しめる。きみがいればバルトロ司祭も喜ぶだろうしな。彼と一緒にクリスマスを祝うといい。クリスマスばかりは壁画の作業も返上だろう」
「遅いとあなたが嫌味を言わなければ」
皮肉を返すと、気まずそうにエドアルドが頭を搔く。
「あれは…俺が悪かった」
思いがけない、素直な謝罪だった。アンドレアはエドアルドへの複雑な反感を忘れてあたたかな気持ちになった。
「では、ここに滞在させていただきます」
「うん」
エドアルドが微笑する。
アンドレアは聖堂へ戻った。厚意には仕事で返す。それが自分にできるただ一つきりのことなのだと、アンドレアはわきまえていた。
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