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7 クリスマスの悲報(4)
アンドレアが工房に入った時の工房長だった。その二年後には病気で死んでしまったが。
「工房か。俺には全く縁のない世界だ。普段は、何人くらいで暮らしている?」
「男子寮で、六十人ほどでしょうか」
「なかなかの大所帯だ。美大を出たいという願望は、あったのか」
「今でも大学というところには、興味があります。僕は八歳で工房に入ったんです。それまでも絵ばかり描いていたので、養父母がこの道に進むのが僕のためだろうと考えてくれて――――それでも大学に行かせるほどの金銭的余裕はなかった。だから、働きながら絵の勉強ができる工房を選んだのだと思います。養父母は僕が家を出てから、しばらくして交通事故で亡くなりました」
エドアルドは唖然としたようだった。気まずそうに顔を曇らせる。
「――――すまん、気の毒なことを言わせたな。余計なことを訊いた」
「いいえ。僕が話したかったので」
言わないという選択肢もあった。誰にでも話すわけではない。むしろ初めてだ。でも、エドアルドには自分の秘密を知ってほしかった。
つと、己の手を眺める。
汚い手だ。指の付け根にも爪にも絵の具がしみ込んで変色している。顔料は何日かすれば落ちるが、油染みは皮膚の一部となっていておそらく一生落ちない。
「養父母が僕にかけてくれた思いを考えれば、今の道以外を歩みたいだなんて、贅沢だと思うんです」
どうせ生きるならこの道を極めよう、そう思ってひたすら突き進んできた。
エドアルドがアンドレアの手をとる。
エドアルドの手に優しく包まれている己の手を、アンドレアは静かに視界に収めた。エドアルドの手は大きくて頼もしくて、ごつごつと筋張り、色気と甘さが混在する。
アンドレアの手の甲へとエドアルドが恭しく唇を付ける。
何かの儀式みたいなキスにアンドレアは目を瞠った。何かを象徴したようなその所作とエドアルドの端整な顔から、目が離せなくなった。
唇を離した後、エドアルドはアンドレアの手をとったまま、見上げるようにまっすぐに見つめてくる。アンドレアの心臓は不覚にも、苦しいほど大きく鼓動した。
「この指から驚愕に値する作品が生まれる――――素晴らしいことだ。きみがここに来てから、俺は生まれてこのかた感じもしなかったことを体験している。それは、神に選ばれた者に対する畏敬の念だ」
神を信じないと言ったその口で神の御業を賛美する。それがいかにも彼らしいと思った。
そんなミステリアスな部分も彼の魅力だ。
この多面的な男を一体誰が真に理解し得よう。それとも、アメリカにいる彼の恋人にはそれができているのだろうか?
アンドレアの頬にかかった一筋の髪をエドアルドが長い指先でそっと払う。
「きみは、絵の才能も含めて存在の全てが美しい。恐ろしいくらいだ」
ただ、これほどの称賛をくれてもこの男には恋人がいる。ゆめゆめ本気になってはならない――――それくらいの理性は利いた。そもそも、いかにも遊び慣れた男のどこまで本気なのか分からない言葉を真に受けるのは、怖い。
エドアルドが可笑しそうに相貌を崩す。
「きみはこういう告白をすると決まってそういう顔をするんだな。恋の告白にはポーカーフェイスで相手の気をくじくタイプだ」
くすくすと肩を揺らして笑う。
そんなエドアルドこそ、吸い込まれそうなほどの魅力に満ちているのに。立ちすくむアンドレアの内心を知ってか知らずか、エドアルドはいつものおどけた口調に戻る。
「きみに見惚れていても仕方ないな。壁画の続きを見せてもらっても?」
「…先日もご覧になられたでしょう」
「そういう冷たい言い方、感じ悪いけど味わっていると癖になる」
「変なことを癖にしないでください」
こんな軽口をお互いに叩けるようになったのも、この男との距離が確実にせばまったからだろう。
「見にいらっしゃるのはいいですけれど、お相手はできません。僕には作業がありますので」
「はいはい。どうぞ、どうぞ。仕事熱心なのは素晴らしい。俺は俺で、隅で猫のようにおとなしくきみを眺めているとするよ」
エドアルドのおどけにフッと笑みが零れる。
ファサードに回って聖堂に入った。エドアルドの手がさりげなく腰に回されていたのにも、まるで当たり前のような自然な感覚がした。
装飾のないクリスマスの聖堂は、聖夜を祝う人々のお祭り騒ぎとは無縁に静謐で、かえって神聖な空気に満ちている。内陣まで進むとエドアルドが正面の壁を見上げた。
「きみは、天才だな」
心からの讃嘆に聞こえた。胸のくすぐったさを知られたくなくて、アンドレアはつい、つっけんどんに返してしまう。
「面白いですね。たったこれだけを見て、どうしてそんなことが言えるんです?」
「これだけ大きなものを描くんだ。天才だ」
あまりに単純な理由に、また笑いが込みあがる。
ここに来て、自分は良く笑うようになった。
特にエドアルドといると、良いも悪いもいろんな気持ちが生まれ、増幅されるのだ。確実に自分の感情はローマに来てから豊かになっただろう。
それから作業のために梯子に脚をかけた、ちょうどそのときだった。
通用口から大きな音がして、大柄な男が駆け込んでくる。そのただならぬ気迫にアンドレアは思わずぎょっとした。
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