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第3話

 テレビでしか見る事のない、日本庭園が窓から見える。  ひしめき合うビルの群集。密度の高い人口。都会のごみごみとした生活に少なからず疲れを感じていた俺は、僅かに癒された気がした。  閑静な庭と二十畳はある広い部屋が、日常から自分を切り離してくれている。  だから打ち明け辛い悩みも、言い淀む事無くすらすらと出てくる。  いや、何の躊躇も無く、気持ちを吐露出来る一番大きい要因は目の前の少年。  漆黒の闇ような瞳の引力に引きずられてしまう。 「先生の悩みって何?」  一通り桜下と俺の関係を話し終えた時、少年は手にしていた紅茶を一口飲み、微笑みながら問うた。 「先生はよしてくれと言っただろう。俺は一介のサラリーマンなんだから、桃生でいいよ」  先生という呼ばれ方に、居心地の悪さを覚え、ソファを座り直した。 「でもなぁ、弓を教えてくれている人だから先生でいいでしょ?」  少年は妖しく微笑んだ。  確かに俺は、母校の恩師に頼まれ、弓道部に弓を教えに行っている。  弓道部の部員である少年が、俺を先生と呼ぶのは間違ってはいない。  だが、彼が俺を先生と呼ぶのは敬意を払っての事でない事を知っている。  俺が、先生と呼ばれる事に居心地の悪さを感じているのを知っていてわざと呼ぶのだ。  意地の悪い子だ。  そんな意地の悪い人間に、悩みを聞いてもらっているのには訳がある。  悩みの性質上誰にでも話せる話でないのと、彼には俺を安心させる雰囲気があったからだ。  少年の父親は経済界の神と呼ばれる大物で、大きな会社の社長である。  その為なのか、元々少年の持って生まれた性質なのか、彼は女王然としていた。  男の子を捕まえて、女王は可笑しいかも知れないが、俺はそう感じたのだ。  パッチリと大きな瞳。長い睫。細く整った眉。通った鼻筋。赤くふくよかな唇。女の子と見紛うほど愛らしい顔立ちに加え、華奢で小さな身体。  その容姿に似つかわしくない、強固で容赦の無い性格。  彼に興味を持ち近付こうとした時、周りの人間は口を揃えて「危険だからやめろと」言った。  言葉の意味は直ぐに分かった。  彼は自分に害を加える人間に対して、容赦なかった。  相手が二度と自分に関わり合いたくないと思うまで、徹底的に打ちのめす。  確かに危険な人物だと思う。  だが、危害さえ加えなければ彼は何もしないのだ。  毒を吐いたり、意地の悪い事を言っても、それはたいした事ではない。  誰だって毒は吐くし、意地悪だって言う。  例え口に出して言わなくても、心の中では思っている。  言葉を濁し、本心を隠して何を考えているか分からない人間に比べれば、彼は実に分かり易くて良いと思った。  悩みを打ち明けても興味本位で聞かれ、自分が悪者になりたくはないからと、思った事も言わずにお座成りの言葉を投げつけられるなんて嫌だった。  彼なら……志野原(しのはら)(あきら)なら思った事を言う。  相手が不愉快に思おうが、傷つこうが彼には関係ないのだ。  だから、彼に悩みを打ち明けた。  打ち明けたと言うよりも懺悔に近い。  十二歳も年下の少年に、俺は何をしているのだろう。  何を求めているのか自分でも分からない。  ただ、彼には全てをさらけ出してしまいたくなる。  例えば、人前で粗相をしてしまったとしたら、大概の人間は顔をしかめ、笑い蔑み貶めるような事を言うに違いない。  だが、彼はそんな事はしないような気がする。  目の前で粗相をしてしまっても彼は有る事実を受け止めるだけで面白おかしく騒ぎ立てたりはしない……だろう。  だろう――と言うのは、俺は志野原晃と言う人間を深く知っている訳ではないのだ。  理解した気になって、勝手な人物像を創り安心しているだけかもしれない。  それでも、彼には告白せずにはいられなかった。 「志野原君、俺はどうしたら良いだろう?」 「どうしたらって何が?」 「桜下に色々してもらっているのに俺は何も――」  何も与えてはいないのだ。  尽くさせるだけ尽くさせて、言葉も心も身体も与えていない。 「なら、言えばいい。嘘も方便だよ」  黒く大きな瞳を妖しく光らせて少年は微笑む。 「嘘は付けない。あんな誠実な人間を踏みにじる事は出来ないよ」  そう言うと少年は目を少し細めて、なら身体を与えればいい――と言った。  言葉すら与えられずに、身体を与えられるはずがない。 「無理だ」 「そうだよね。先生みたいなタイプには無理だよね」  何故か少年は嬉しそうに笑った。 「先生の本心を言ってみれば良いんじゃないの?」 「俺の……本心?」 「先生は何で桜下って人に与えたいの?」  それは――何かをしてもらったら何かを返すのが道理だから・・・  そう言うと少年は苛立った様に、そうじゃなくって――といいながら髪を掻き分けた。 「何で何か貰ったら何か返すの?」 「それは……関係を友好に保つためだろう」 「でしょ! 相手が自分の世界に居ても居なくてもどうでもいいような人間ならほっとくでしょ? 僕ならどうでもいい人間に何されても何を貰っても返さない。放置しとく。どう思われてもいいもん。先生は関係を友好に保ちたいと思うくらいには桜下って人が好きなんだよ」  知っている。  自分でも桜下が好きな事は分かっている。  だが、桜下と俺の好きには温度差があり過ぎる。  だから困っているのだと告げると少年は不思議そうに、なんで?――と訊いた。 「桜下って人は自己満足でやっているんでしょ? 見返りも求めずにただ先生にして上げられているってウットリして気持ち良くなってて、一人上手だよね。先生は厚意を受け入れている時点で十分返しているんだから気にしなくてもいいのに――」  返したいんだ。自分の為に――少年は妖しく笑う。  俺は……自分の為に桜下に何かを返したいのか?  だとしたら、なんて自己中心的で我儘で強欲なんだろう。  こんな俺の本心を知ったら、桜下は軽蔑するのではないかと不安になった。 「桜下って人は先生の気持ちが自分に無いと分かってても、何かをしてあげる事で満たされているんだ。どんな意味だろうと好きだと言われれば嬉しいよ。しかも自分の手元から離したくない位には執着していると知ったら理性吹っ飛んじゃうかもね」  クスクスと悪戯っぽく笑った。 「もしも嫌われてしまったら……」 「その時は諦めればいいでしょ」  他人事の様に言う。  ああ、彼にとっては他人事なのだ。  俺と桜下がどうなろうと、どうでもいいのだ。  そう思ったら急に可笑しくなって笑みがこぼれた。  不思議と、心は軽くなっていた。 「有り難う。帰るよ」 「先生」  立ち上がりかけた俺を少年は引き止めた。 「ん?」 「先生が僕に支えられているように、先生は僕を支えてくれているよ」  突然の、思いもしない言葉にうろたえる。 「何?」 「僕は黒い羊でしょ。だから、誠実でバカ正直な先生みたいな存在に救われるんだ」 「黒い羊?」 「先生だって僕を異質だと感じているんでしょ?」  彼を特別に感じていた俺は、返事が出来なかった。 「皆そう。僕は違うものだって分かるみたい」  少年はゆっくりと立ち上がると、何故か俺の座っているソファの後ろに回った。 「その事を悲しんだ事もないし、白い羊になりたいと思った事もないけどね。白い羊は大好きなんだ。特に 先生みたいな真っ白で寂しい羊はね」  ソファを挟み、背中から肩を抱かれ、俺は身体を強張らせた。  なんだろう。この違和感は。  酷く居心地が悪い。  嫌だな。 「先生。今、嫌だなって感じたでしょ?」  少年は俺の心を見透かすかのように言った。 「いや…その……」  違うとハッキリ否定できず、答えがしどろもどろになる。 「他人に触れられて、嫌だと感じるのは相手を恐いと思っているからだよ。簡単に言うと拒絶しているんだ」 「俺は……」 「先生が僕を好いてくれているのは知っているよ。心を開いてくれているのもね。でもね、壁がある。壁を壊さないのは先生がちゃんと分かっているから」 「何を?」 「それは教えない」  少年は、耳元で囁くように言う。 「ヒントはここまでだよ。さぁ行って」  少年の腕から解放された俺は、立ち上がりコートとカバンを持ち、志野原邸を後にした。

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