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第4話

 自宅のマンション前まで来て、自分の部屋を見上げると明りが灯っていた。  桜下は、今日も来ているらしい。  エレベーターに乗り、七階で降りた。  自宅のドアの前まで行き、鍵を開け中に入る。  俺が帰ってきた事を察したのか、パタパタと足音をたてて桜下が現れた。 「お帰りなさい」  何時もの柔らかい笑顔が出迎えてくれた。  桜下に、お帰りなさいと言われてホッとしている自分に気が付いたのは随分前の事だ。  誰かが待っている家。なんて幸福なんだろうと泣きたくなる。 「ただいま」 「食事の用意出来ていますよ」 「桜下」 「はい?」 「話がある」  俺の表情から話の内容が重いものだと察したのだろうか、桜下は顔を曇らせた。  だが、直ぐに何時もの笑顔を取り繕い、はい――と言って部屋へ向かった。  居間に有る、ソファに向かい合うように座った。  桜下の表情は固まっていた。  きっと、良くない話だと察しを付けているのだろう。勘の良い男だからな。  俺がこれから話す事は、桜下にとって良い事かもしれないし、悪い事かもしれない。桜下の受け取り次第だ。  どう思われるかと考えると口が開けなくなり、目を瞑った。  志野原晃の、あの妖しい微笑が浮かんで来る。  人間は自己中心的で我儘で強欲なものだよ。自分の為に彼に与えればいい――そう言っているようだ。  俺は、志野原晃の妖しい微笑みに背中を押されるように口を開いた。 「桜下、俺は……」  喉が渇いていて上手く喋れなかった。  それを察して桜下は飲み物でも持ってきます――とキッチンに消えるとトレーに二つの湯飲み茶碗を乗せて帰ってきた。  目の前に差し出された湯飲み茶碗を取り、一口飲み喉を潤した。 「桜下、俺は家に明りが灯っていると嬉しいんだ」  思いがけない言葉に桜下は、はあ?――と気の抜けた返事をした。 「俺は、子供の頃から誰もいない真っ暗な家に帰っていたから、家に明りが灯っているのが嬉しいし、お帰りなさいと言われるとホッとするんだ」  それほど悪い話ではないと思ったのか、桜下の表情はほんの僅か和らいだ。  だが、次の言葉で桜下の表情は再び固まった。 「俺はお前の気持ちに応えられないかもしれない……」  桜下は眉をひそめた。 「はい」  声のトーンが低く下がり、それまで真っ直ぐ俺を見つめていた視線も下へ下がっていった。 「それでも俺はお前に傍にいて欲しいんだ」  そう告げると落ちていた視線は再び俺の元へ戻ってきた。 「今なんて……」 「だから、お前に傍にいて欲しいって言ったんだ」  桜下の表情は一気に明るくなった。 「マジですか!」  そう言いながら興奮気味に立ち上がった。 「待て、落ち着け桜下」  ソファに座るように促すと桜下は素直に座った。 「喜んでいるみたいだけど分かっているのか?」 「何がです?」 「俺はお前を飼い殺したいと言っているんだ。餌も与えずにただ傍に置いておきたいんだ」  我儘だと分かっている。勝手な申し出だと分かっている。  だから……。  直ぐに応えを出さずに少し考えて欲しい。  そう告げると、考えるまでもないです――と優しく微笑んだ。 「俺は桃生さんに何かして上げられるだけで嬉しいんです。厚意を受け入れてもらえて嬉しいです。だからどんな気持ちであっても桃生さんに傍にいて欲しいと思ってもらえたら幸せですよ」  本当に、嬉しそうに言う。 「でもな桜下、そうは言ってもお前も生身の男だろ?与え続けるだけじゃ辛くなるだろ?」  今は良くてもいずれは桜下だって欲しくなる。  言葉を……。  身体を……。  心を……。 「俺もお前の事は好きだけどお前の好きとは違うんだ。だから何も与えられないと思う」  それでもいいです――と桜下は笑顔で言った。  その言葉を打ち消すかのようにちゃんと考えて欲しい――と告げた。  桜下の笑顔を見ると、言葉を飲み込んでしまいそうになるので、桜下を見ないように言葉を続けた。 「一週間考えてくれ。考えてもし、この関係を続けても良いと思ったらこの部屋で待っていて欲しい。関係を終わりにしたいなら鍵を捨ててくれればいいから……」  言い終えてから桜下に視線を戻すと、何時もの柔らかな笑顔は消え、恐いくらい真剣な眼差しが向けられていた。 「分かりました。今日はもう帰りますね」  そう言うと、桜下はしていたエプロンを外し、コートと鞄を持って足早に帰ってしまったのだった。  桜下が帰り、広い部屋に取り残された俺は、とんでもない事を口にしたのではないかと、酷く不安になった。

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