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9.就眠前

 成皿(チョンミン)がどんな思いで兄を待っていたかなど全く知りもせず、藍虧玉(ランコイユイ)に気持ちよく金を出させて帰宅した田介(ティエンチエ)がふと視線を上げると、部屋の隙間から蝋燭の灯りがやわらかくこぼれていた。  ――私を導く暖かな光だ。  成皿はまだ、起きていたらしい。 「お前の兄貴が帰ってきたよ」  暢気に扉を開けた田介を迎えたのは困惑顔の成皿であった。 「兄貴? なぜここへ?」  寝る支度を調えて、さていよいよ蝋燭を吹き消して寝台へ……と肩をもみほぐしていたところだったので、成皿は思いがけず目をぱちくりとさせた。  暮鐘の余韻は夕煙のたなびく冷たい秋の日没に長く響き、茜色の空へと消え入ってしばらくしても兄が部屋に帰ってこなければ、その日は会えずじまい。今夜は駄目かと、田介の部屋で待っていた成皿が諦めた後だった。  その田介がわざわざ成皿の部屋を覗きに来ただけでなく、月がでているうちに帰ってきたのでこれはまた盲亀の浮木に会うような珍しさ。尚更、成皿は驚いた。 「今日はもう、帰ってこないかと」  成皿の意外そうな顔に田介は、 「秋だからさ」  と絶妙にずれたことをいう。  すると成皿はいかにも不思議そうに眉を顰め、 「秋は、藍の若旦那は都合が悪くなるんだったか?」  とこれまたずれたことを言う。  なぜ藍虧玉の都合に話が飛躍するのかと田介は首を捻った。 「どういう意味だ?」 「会ってたんだろ? さすがの兄貴でも、たった一晩で藍家の酒を飲み干せる訳がない。時々入り浸って酒盛りをしていたのかと思ってたけど。今夜もてっきり藍家のところかと」  成皿の決めつけている顔だ。田介は図星をつかれて思わず苦く笑った。 「今日は違う」  たしかに、藍家で酒盛りをしたことはあるが、倉の中の酒も全て空にして藍の当主を怒らせ、返杯一つで酔い潰れた藍虧玉も身体中真っ赤にさせながらその叱責の列に並び、田介よりよほどひどい叱られ方をしたので控えることにしていた。さすがにそこまで無神経ではないつもりの田介である。  田介は物知り顔な弟にそれ以上詮索されるのを面倒に思い、にこりと微笑んだ。 「(うば)が私を連れ戻すんだよ」 「姥? 兄貴の恋人か?」 「友人だ。彼女に寂しい思いをさせるわけにはいかないから、秋はうろつけない」 「誰なんだ? 兄貴に正しい道を教えるその姥って?」 「お前も毎日見てるのに」  よほど飲み過ぎてついに幻覚が? と不思議そうな成皿の視線が注がれていた。  兄弟の部屋は親切な主人が営む茶店の二階にある。  自らの純朴さを悪用した田介が遠縁のまたその遠縁で、すらすらと人の名前を淀みなく並べ立ててその子孫の甥の知人の子どもで田介だと、店の主人に名乗ったのだ。挙げ句、宿代として後で親戚が来ることになっている云々と、もっともらしく伝えてしまば、勉学のため二階を借りるのは容易かった。  田介が姥というのはその庭の木犀の老木のことである。  花枝を傾けた窓から風が吹く夜は、甘い香りが部屋の中にまで満ち漂った。翌朝、寝台のまわりは昨夜の語りの華やかさを見るように金の星粒の花片が散りしかれ、朝月夜の淡い夢のような木犀の移り香が、起きたばかりの田介の髪や肌に甘くたちのぼっているのであった。  そんな田介は今、窓から手を伸ばし、そろそろ色衰え始める花にそっと指先を触れていた。 「少し手間取って、遅くなった」 「どうやら、飯屋にでもいたようだ」  木犀を隣で眺めていた成皿がふと鼻をうごかす。甘い香りの中から興ざめするような匂いを嗅ぎ取り、恨めしそうな声を一段低く落として言った。気づかず、田介は「ああ、」と生返事をする。  田介が問題さえ起こさなければ普段は豪放で磊落な性格の成皿だから、その彼が眦を決することがあれば食についてだろう。  実は成皿は田介がいつ帰ってくるかも分からないので食事を取り損ねたのだ。  飢えている兄を差し置いて自分だけ食べることもできない。ついには大音量の腹の虫を鳴り響かせながら床につくしかない。  だから成皿は今日は帰ってくるのか、食べてくるのか、とやきもきしながら田介を待つはめになる。それなのに衣服に香ばしい匂いをつけて先に食事にありついたことを知ってしまえば、さすがに黙ってはいられない。  まさかそこまで鼻が利くとは思っていなかった田介はぎくりと背を伸ばす。背後に感じるのは凄まじい怨念だ。 「たまたま、あの二人組がいて……」  動揺しそうになる声をなんとか誤魔化そうと、汗一つかいてさえいない涼しげな顔に笑みを浮かべ、吊っていた剣を取り上げながら田介は椅子に座った。  案外成皿は義理堅い。  成り行きだったのだから仕方がないとはいえ、喧嘩はしたくない。こういう場合、怒りの矛先をもう一つ造るべきで、それに相応しい相手を田介は一人だけ知っていた。 「で、たまたま藍に会った」  にこにこと微笑んで成皿の様子を探る。  成皿からの恨みが半分に減るのなら、無関係の藍虧玉さえ巻き込める田介である。  案の定、成皿は「なにっ!」と目を剥いて、ばっと田介に詰め寄った。 「藍の若旦那も? 腹を空かせた俺をのけ者にして二人だけで飯を?」 「今度はお前も来いってさ」 「当たり前だ!」  ぐわっと大きな口で叫ぶ。田介はその勢いに圧されていた。 「気にせず、腹を空かせたら食べたら良い」 「だめだ。兄貴が食べてないのに俺だけ食べるなんて」 「なら毎日食べるから、お前も食べろよ」 「わかった、そういうことなら遠慮はしない」  成皿の変わり身の早さに驚きつつ、こぼれるように微笑んだ。  すると成皿が椅子を持って向かいによせ、大きな体を窮屈にさせて腰を下ろす。  真剣な顔を寄せて切り出した。 「兄貴が帰ってきたなら、伝えたいことがあったんだ」 「うん? なんだ?」  田介は立てた膝に寄りかかりながら少し眠気をこらえていた。ぼんやりとした顔で耳を傾けていると、成皿が気がかりに咳払いをする。 「あの二人組のことで……」 「康意(カンイー)吾吠(ウーフェイ)だ。奮鳥奔馬ともいう」  付け足す田介に、成皿は握りしめた拳を膝に乗せて言いにくそうにする。その重い口を開かせようと、田介はぐったりと身体を椅子の中に落としながら不敵に言った。 「安心しろよ、(チャン)家の鍔は仕込んでる。それより財宝の隠し場所についてはどうだ? 暴いたんだろ?」 「まあ……」  と煮え切らない成皿だ。 「こっそりやつらの持ち物を持ち出したよ。落としたと思って必ず財宝の隠し場所に向かうと思ったから」 「何を持ち出したんだ?」  成皿の声は次第に小さくなっていくので、田介は重い瞼を懸命にこらえるしかない。  あの二人が探しに戻るほど大事なものとはなんだろう。康意と吾吠がそんなものを持っているとは思えなかった。  成皿はふと頬を染めて少しためらった後、大きな体を揺らして、「俺も人が悪いんだけどさ……」と居心地悪そうに前置きをして言った。 「……恋文だよ」  誰の? と田介は一瞬呆気にとられ、まさかあの二人のどちらかが? と思えば眠気も吹き飛ぶほどの衝撃である。 「成皿、人の恋文を人質にとったのか?」  誰しもが暴かれたくない秘密をまさか成皿が盗んだとは思わず、田介はハッと飛び起きて、 「確かに、なくした恋文をうっかり人に見られたら最悪だ! 探しに行くしかない!」  と面白がる。  成皿は気まずそうに口角を上げただけでちらりと田介を見た。そんなに嬉しそうにしないでくれと目色で訴えるが、田介は気にしない。 「見つけた財宝を利用して、あの二人に盗みをさせる算段だったんだが……」 「問題が起こったか?」 「兄貴、残念がるなよ」  ため息と落胆の声からすでに不穏なものを感じ取っていたのだが、田介は落ち着いていた。  精神的に大打撃を受けるに違いないと田介を痛ましく思う成皿は少し寂しそうだ。 「入っていたのは財宝じゃない。だから兄貴に相談したかった。あれを奴らがどうして欲しがったのか、わからないんだよ」 「中に入っていたのはなんだ?」 「カラスだよ。木箱一杯につまってた」

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