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15.何家の長男
余韻を震わせる暮鐘は切々と消えかかり、今頃喜雨 が烏夜 とともに城市から遠ざかっているはずだった。
秋らしい夕日に黄金色の影が落ち、粗野な男たちの踏み荒らした冷気は花事のさきがけとなって青い高殿に吹き寄せていく。
娘たちは水辺の大輪のように楚々として花を咲かせ、密やかな夜天には到底顔向けできないほどの艶やかさを肌の内にくゆらせる。
ひとしきり甘い夢へと導く。それが夢沈楼だ。
楼内は雲を敷いて天上のごとく、灯りは優しくゆらいで星のよう。田介 は細い娘の手にひかれながら、艶美で華やかな楼内を尻目に、がさつな成皿 を連れて従っていた。
「何 さまは、上階にいらっしゃいます……」
いじらしく顔を隠す娘に田介は「どうも」と簡単に相槌を打つ。
階段や高欄には何百ものカラスが羽を掻いていた。何索相 のいる部屋は、そのカラスが目を光らせる部屋であるらしい。
不吉だな、と田介はそれどころではなかったのだ。
「烏夜姉さんが、カラスに芸を仕込んでいたようで、カラスは烏夜姉さんの言葉にしか従いません。だからだれも、あれらと言葉を交わすことはもう、できないのです」
少女の声は始終静かで穏やかだった。
彼女は空っぽになった烏夜の部屋に何時間も居座り続けてカラスの世話をしたという。一羽ずつにつけた名前を漏らさず呼んで確認を終えると、烏夜がかわいがっていた十五羽のカラスだけが見当たらなかった。その十五羽のカラスが孟春楼の朱冠 の部屋から死んだまま見つかって捨てられてしまったので、彼女はそれを思い出してまた少し涙ぐんでいた。
突然少女が目を潤ませたので、田介は何事かと目を剥いた。
「烏夜姉さんのように、カラスとお話できたら……」
――変な女だ!
とひっくり返りそうになる。その脇で成皿は胸を打たれて感激している。
「なんて気の毒なんだ……けれどあなたならきっとカラスを慰めてあげられるに違いない」
「どうしてカラスが悲しんでいると分かるんだ」と田介は横やりを入れてやりたかったのだが、せっかく成皿が気持ちを高ぶらせているようなので、すんでのところで呑み込んだ。
「たかが鳥だろ……」
しかし閉ざした口の端からこらえきれずにぽつりと漏れてしまう。
何重にも重ねられた帳を蓮の蕾を剥ぐようにして潜った先に、ついに池の花は終わりを迎えたとみえ、淵を染めるのは月露の冷たいしたたりばかりの、清冷な銀色の部屋があらわれる。
田介は静寂が支配する部屋の前にいた。何索相 の独特な気配が扉の向こうから肌を粟立てる寒気となって緊張を走らせた。
室内に中庭を設け、竹叢を衝立のようにして植えているが、その竹の色はやはり銀色ひとつであった。階下の騒ぎも遠く微かで、凍てつくような静けさが際立つ。少女は薄絹の間に身をすべりこませるとひらりと何索相の腕に寄りかかった。
「何さま、田介をお連れしました。どうやら鼠の首を持ってきたようです……」
「兄貴、用心しろよ」
やや強張った面立ちの成皿が竹叢の向こうを睨み付けていた。
肩に担いだ麻袋を担ぎなおしながら田介は微笑一つで応じる。薄絹の帳をまくり上げ、中庭を挟んで見える優美な人影は何索相だ。役目を終えた少女が軽く顎を引いて部屋を出て行った。
入れ違いに中へと踏み込む。その時、ケホ、と軽い咳がして、竹叢の影で何索相がよびとめた。
「弟は外で待機させ、兄だけ中に……」
言葉を詰まらせ再び咳き込む。
ガラの悪い何家の手下たちが丁寧に退路を示すと何か言いたげな成皿だったが、田介が「従え」と目配せすると大人しく連れ出されていった。
「お前たちも、外へ出ていろ。田弟 、剣を彼らに預けて」
何索相が白い手を振る。すると傍に控えていた強面の従者たちがぞろぞろと部屋の外へ出て行ってしまう。思いもよらず従者を追い出した何索相に田介はチッと口の中で舌を打った。
剣を取り上げるのが目的だとすぐに理解したのだ。
成皿を遠ざけたのは自分の従者を追い出す口実のためだ。くわえて、何索相は丸腰なのだから、こちらが剣を携えるわけにもいかない。なにより義兄の言葉には逆らえない。
鍔は張家と同じ彫飾を拵えている。血筋だと知られたらまずいか。何索相はどこまで知っているだろう。康意と吾吠の持ち物から同じものがでてきたことを、共犯だと疑われているだろうか。
田介は緊張で乾いた唇をなめとって従者の手に剣を押しつけた。
部屋の中には何索相と田介の二人だけになった。
背後で扉が閉ざされてから、田介は麻袋を床に置き、にこりと何索相に微笑みかける。
竹叢の影から出てきたのは、優しい顔で微笑を浮かべる、とても悪漢には見えない白皙の、それも病弱な青年だ。
「田弟、よく来たね」
穏やかな口調で何家の長男は言った。
「索兄、ご挨拶を」
田介も恭しく拳を包み、膝をつく。
漢方のかおりをまとった何索相が体を労るようにゆっくりと歩み寄り、優雅な手つきで田介を椅子へ誘う。ふと、口を開いた。
「兄の私に、嘘をつくか?」
田介は「はは」、と不意を突かれて笑っていた。
「無理だろうね。索兄とは兄弟だ」
何索相の体調は芳しくない。
潤んだ瞳が気怠そうに田介を覗き込んでいる。田介はその疑い深い目から視線を逸らし、さらりと涼しい顔で首をかしげた。
「なぜそんなことを? あなたにもらった印がある限り、私はあなたの弟だ」
何索相の体を支えながら逆に彼を椅子に座らせた。
「私に気を遣わないでいい、索兄」と、諭しながら麻袋を卓の上に置く。
何索相の病には波があり、数日前から彼の熱は下がっていない。体は熱した鍋のように熱く、顔色も赤みを帯びているのだが、唇は真っ青で呼吸も安定していなかった。時々ふっと意識を失い、浮かされるように呻いていた。
そんな彼が病床を離れて出てきたということが、田介は気がかりだった。
「索兄、首は約束通り鼠のものだ。体調が悪いんだろ。早く確認して休んだ方が良い」
「お前は二人組を探していると聞いたよ」
口元に布を押し当てて、何索相が激しく咳き込む。見抜かれていた驚きよりも、田介は思わず背をさすっていた。
「索兄、咳がひどい……」
「殺してしまっていいのか?」
苦しげに息を継ぎながら何索相は口元を拭って言う。田介は何索相の喉元に手を近づけ、その体温の高さをはかっていた。
「用事がすんだんだ。頼むよ、袋の中を確認して、寝所へ戻ってくれ」
体温は高い。やはり無理をしている。彼の体調はこの日特に悪いようだ。それでも何索相は背もたれにぐったりと寄りかかることも、机の上に伏せることもなかった。
しかし――
このままでは成皿の解放を明言させる前に倒れられてしまう。
わざわざ三日目を待って烏夜の騒動を起こし、今日この夕暮れ時に喜雨を外へ出した意味がなくなる。
「ほら、索兄、袋の中を確かめて」
田介は麻袋を引き寄せた。
「成皿の指と目は奪わないと言ってくれ。それから今後、あいつを私の脅しに使うのはやめてほしい」
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