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17.水面下

 田介(ティエンチエ)何索相(ホースオシアン)を支えながら階段を降りていた。  部屋の奥の硝子扉からは夢沈楼に張り巡らされた隠し廊下に出られる。戯場に繋がる廊下であり、夢沈楼と表裏を一体にする現溺閣(げんできかく)とは渡し廊下で繋がっていた。  二人は一旦外へ出て渡し廊下から現溺閣へ逃れ、そこからさらに一階を目指して追撃の手を避けようとした。現溺閣へもいずれ街吏や武官が乗り込んでくるだろうが、まだその騒ぎは夢沈楼ほどではなかった。 「しかし、こんな荒技は一回切りでいいな……」  田介は疲れ切って息を吐き出す。  ぴたりと体に沿わせて何索相を運んでいたから、田介の体温は彼の高熱に侵されはじめ、少し前から汗ばんでいる。何索相の体調の悪化は渡りに船ではあったものの、無理をさせすぎたのは気がかりだった。  背後の夢沈楼からは次々と押し入ってくる武官たちに悲鳴が上がり、上も下も大騒ぎだ。こうなると追い返した成皿(チョンミン)のことが思われる。  (チャン)家追捕の大義を得た禁軍の目は、林灰坡(りんかいは)から田介に逸らせたはずで、これで虓台城(こうだいじょう)に二年もとどまって練り上げた計画と目的は達成できたようなもの。  その張家の三男である成皿を藍虧玉(ランコイユイ)に守らせたが、何より不安なのは果たして成皿が田介の勝手を知って大人しくしているだろうかということだった。  何家も巻き込んだのだから彼らが喜雨(シーユィ)烏夜(ウーイエ)を追っている暇はない。田介の見込んだ通り事はうまく運べたようだが、わざわざ白鳳軍将、藍家の当主が乗り込んでくるとは思わなかった。 「――兄貴」  と、後始末を考えていた田介の耳に聞きなじみのある声が触れた。  現溺閣の一室から現れた大きな体を前に、田介は安堵して立ち止まる。 「首を持って行くだけのはずだったろ……」  嘆かわしく零す成皿はさすがにくたびれているようだ。 「それなのに兄貴の正体がばれて、藍の若旦那も兄貴を捕まえる気だ」  弱々しく悄げている成皿に田介は胸が痛んでいた。 「お前さえ生き延びてくれれば私は構わないんだ」  田介は林灰坡を出て仲間を捨てたときから、その思いだけは変わっていない。 「だからって張家の血筋だと明かす必要はなかった。俺たちは正体を隠し、代わりの人間に罪を被ってもらう。盗賊にとって逃げて生き残ることが何よりも重要だと、家訓でもある」 「索兄を頼む」  田介は成皿の言葉を遮り、熱で魘されている何索相を押しつけた。それを困ったように見つめてから、成皿は抵抗を諦めたようにぞんざいに彼を抱き上げた。 「どうしてこんな男に義理を立てるんだよ」  兄を縛りつける何家の印。知らないうちに奪われてしまった田介の自由に、成皿がますます寂しそうな顔をした。帯を変えれば印は見なくても済むが、交わした兄弟の繋がりは田介と成皿のように簡単に切れるものではない。  田介が帯を変えるときは何家とのしがらみが解けたとき。まさかそれが埋葬場になるとは成皿は想像もしていないだろう。  当初は上等な手駒が手に入ったとやりたい放題の田介だったが、何索相に顔を立てれば立てるほど、次第に守りたいものが手の中からこぼれ落ちていく感覚にたえきれなくなった。  やっていることも林灰坡にいたときの盗賊業と大して変わらない。田介に何家との関係を解消したいと決意させるには十分だった。 「お前に尽くせと言ってある。死なないように見張っていてくれ。索兄が死んだら後を追うと言ってしまったから、絶対に死なせるなよ。私のためにも是非頼むよ成皿」  また軽率に口をすべらせたのかと成皿は呆れ果てて言葉もないようだ。  田介の口が羽より軽く、考えなく思ったまま失言してしまうのは昔からのこと。しかしその心の中で何を企んでいるのかまでは口にしない。何索相もまんまとそれにやられた。一見善良で優しく思いやりのある人物に見えるのだから、本音など見破れない。  実の弟の成皿だって田介が何か怪しいと思いはするものの、身内びいきもあってか、その仕掛けを暴けなかったのだから項垂れるしかない。  ただ一人、幼いうちから屋敷を抜け出し、盗賊業にくっついて田介を近くで見てきたあの男なら、田介のことがわかるだろうか。 「藍家の若旦那は必ず兄貴を救い出す。だから機を待っていてくれ。俺が必ず、迎えに行く」 「それより、藍に出し抜かれないようにした方が良い」 「なんだって?」  と決意を新たに凜々しく整えた成皿の顔が驚愕に歪む。まん丸の目を見開いて叫ぶように聞き返した。 「出し抜く?」 「お前と藍がどんな約束をしたかはわからないが、どうやら藍は他にも考えていることがありそうだ」 「どうして?」 「私が康意と吾吠の話しをしたのは藍しかいないんだよ。カラスは夢沈楼じゃ鳳凰より神聖な生きものなんだろ。その死骸を、焚きつけるように孟春楼に置いたのは、孟春楼と何家の確執を起こして何家を陥れようとしているのかもしれない」 「何家を陥れるって?」  成皿は再び素っ頓狂な声をあげた。田介の言葉に衝撃を受けつつ、待てよ――とふと思考を巡らせる。田介は何索相にいった。成皿に尽くせと。そして死んだら後を追うだって? 顰めた眉をぐっと寄せた。 「……くわえて俺にも何家の長男を守れだと?」 「私が死んでも良いのか?」 「良くないに決まってるだろ……けど、それは藍の若旦那とも……」  何索相の問題は成皿だけの問題ではない。それを守れだなんて……  感情と行動がかみ合わない田介とは違うのだ。しどろもどろになりながら悶々と悩み倦ねていた成皿は大きく息を吐き出した。 「実は、藍の若旦那が一緒だ」  田介はおや、気づかなかった、と成皿の体からちらっと顔を覗かせた。  廊下の先に藍虧玉の姿があった。その佇まいからは触れがたい不穏な気配が醸し出されているが、田介はわざと知らないふりをして優しく微笑んだ。 「成皿、さすが私の弟だ。連れてきてくれたのか」  にこりと微笑む田介に、成皿はほらまたそうやって……と田介の腹の中を掴み損ねる。 「藍、手柄は、少し早すぎたか?」  調子の良い田介の声に、切れ長の、瞼の下を這うような鋭い視線が向けられる。成皿を盾にした田介が気に食わないとでもいうようだ。 「張界(チャンチエ)――お前を取り調べるのが私で、命拾いしたな」  藍虧玉は尊大な足取りで目の前まで近づいてきた。  田介はそれをどっしりと構えながらも、冷徹な瞳と美しい容貌を前に、早速逃げ出したいほどの威圧感に怯んでもいるのだった。

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