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19. 消えた望み
広大な藍家の庭に白鳳軍の駐屯地があり、東西に広がる叢林 と風悲池 を含んで苑内の景色ははるかに豊かだった。緑にかすむ木々にひっそりと包まれた牢獄は人目のつかない場所にある。藍家の私的牢として使われる極秘の牢だ。
田介 は藍虧玉 に伴われて藍家邸宅の深い森を暗い顔で歩いていた。
「死んだのは誰だ?」
たかが林灰坡 での死人のために藍将軍が動くほどの大物を、田介は知らない。川沿いの町を長年拠点とし、人を支配してきたのは張家だ。住処を追われた村人や素性の知らない者達が寄り集まってひっそりとした町を作っていた。
町の中での争いは全て張家の関与を徹底させ、外に漏らすということは、盗賊の巣窟を知らしめることだとして何よりも固く禁じていた。だからもし事件を告げた者がいるとするなら、それは張家への裏切りである。
牢の中に押し込められる間際、田介の素早い耳打ちに藍虧玉は僅かに口ごもった。
「死人は、張家の婿、張浮 だ」
張浮だと――
どうせ知らない人物だと高をくくっていた田介は途端、体の奥から血の気が引いていく。まるで槍を貫かれたような激しい痛みに息を呑むこともままならなかった。
張家の長男が認めるほどの平凡な男、それが張浮だった。田介が必死に追捕の軍から守ろうとしてきたその一人でもある。
それが、どうして――?
「確かなのか? 死因はなんだ? 病か? 怪我か? 誰がそんな事を藍将軍に……?」
真っ青な顔で藍虧玉に詰め寄る田介はすんでのところで言葉をのみ込む。澄ました顔の藍虧玉に掴みかかり、このやり場のない怒りをぶつけてしまうところまで感情が高ぶっていた。
見目の良い立ち姿にはっと我に返り、田介は未だに胸を締め付ける悍ましさに戦慄いている。
「知らせが届いた。張浮を殺したのは盗賊の首領、張界だと。お前の剣の特徴と一致している」
「剣……」
田介はまさかあれか――と苦く奥歯を噛みしめる。
「くそ、やはりあの男……全て私の見込み違いだ」
体や剣を探ってきたあの役人が、素性を暴こうとしていたのではないのだと今更知ったところでどうしようもない。どうやら張浮の件の方と関係していたのだ。
目先のことにとらわれすぎた。
もっと慎重になるべきだった。
まさか身内殺しの罪を着せられることになるなんて――
「私が殺すはずがない。二年間も城市にいた。張浮と姉のために……」
留守にしている間に林灰坡に異変が起こったのだ。頼りがいのない張浮だけを残して一家を任せたのがいけなかったのか? あの男に人を束ねる統率力などない。成皿をやはり、置いて一人で出て行くべきだった――
姉は、張菫はどうなったのだろう。守りたかったあの家はまだ、あるのだろうか。
「小界 ……」
すると、考え込んでいた田介は藍虧玉の呼びかけに思わず顔を上げた。
雲の隙間からこぼれる淡い月の光が、明かり取りの窓から優しく射し込んでいる。その月光の射す足元で、田介は湧き続ける疑問に苛立ちながらもくつろいで座っており、
――牢の中で? 気を緩めすぎだろ
と困惑した。
冷静沈着な藍虧玉が顔立ちも崩さずに声色だけを微かにやわらげたので、「哥哥」と、田介は心の痛みをこらえて甘えるように応じた。
藍虧玉が目の前で静かに膝を着く。田介があまり気にしていない何家の佩を取り上げて、なにやら物思いに耽ってなぞっていた。
「この印を、はずさせる。それが私と張盛の目的だ」
「うん?」
と田介は笑顔のまま逡巡した。
少し前に尋ねた、「何家を陥れてどうする?」の答えがそれらしい。
「まさか、そんなことのために何家と孟 家の確執を起こしたのか?」
素っ気なく頷く藍虧玉に、田介は思わず目を剥いて口走った。
「余計なことを!」
藍虧玉の思慮深い目が田介を睨み付けたので、田介は慌てて声を落とした。
「この印のことはちゃんと自分で処理するつもりだから、お前たちが気にすることはない」
「林灰坡に行かせてやる」
「今度は林灰坡の話しか?」
田介を解放できるのは何家の権力あってのことだ。しかし何三留 は田介に関与しないだろう。となれば、さすがに田介はお達しどおり裁かれるしかない。
盗賊の次男として生まれ、罪を重ねてきた田介は勿論因果応報、それ相応の罰を受け入れるつもりである。だが、張浮の死は自分の罪ではない。やっていない罪まで被るつもりはなく、何より姉の安否が煩わせる。
しかし、ここを出るというのなら何家や藍将軍の目をどうやって欺くべきか?
「考えるのは、成皿の役目だったからな……」
「ない知恵を絞ることはない。私がいる」
唇をいじりながら考えていた田介はふと微笑した。藍虧玉の涼しげな目元に彼の尊大な自信を垣間見る。
林灰坡に行かせるというのなら、後のことは全て藍虧玉が考えてくれるらしい。それなら田介は何も気にせず林灰坡に行くだけだ。
「藍虧玉、私の死を偽装してくれ」
田介は月下の薄い光を掴むように手を握りしめていた。
その微かに震える拳に藍虧玉は顎を引く。
「お前の死が公になれば、何索相 に従う必要もなくなる」
田介はあっ、と驚いた。
何家の印に視線を落とす藍虧玉に、すぐに理解する。
偽装でも死は死だ。何索相とのしがらみが、これで解けたことになる。
帯もやっと新調できる、と陽気にふふんと鼻を鳴らし、
――何索相、これで私はお前の:弟弟ではなくなったよ。
静もれる牢の中で田介は妙な感情の機微に襲われた。体の一部と化してしまった印か、それとも何索相に対してか。寝台を離れられないほど病弱でお人好しなあの哀れさが、同情を誘うのだろうか。
だが、次に会ったとき彼とは他人だ。
「藍虧玉、お前の望みも叶ったな」
「まだ、叶っていない」
間髪入れずに答える藍虧玉に、え? と田介は目を瞬く。
「叶ってないって?」
成皿と藍虧玉は何か約束を交わしていたはずで、それは田介は自身が捕まる事だと思っていた。しかしそれなら藍虧玉の望みは叶っていなければならない。他にどんなものを望むというのだろう。
それにこじらせた何家と孟家との確執を、藍虧玉はどうするつもりだ?
田介はさりげなく胸元に手を触れて、懐にしまい込んでいたものをうっかり忘れるところだった。
成皿に向けて書いた一枚の手紙だ。それを藍虧玉に押しつけた。
「……藍、もし張盛にあうことがあれば、これを渡してくれ。中身は読むなよ」
藍虧玉はそれを受け取りながらも怪訝な顔をする。中身は成皿と田介にしか通じない暗号のようなもので書かれていて、一読しただけでは藍虧玉には意味がわからないはず。
「別れの言葉だ」
田介は念をおすように言った。
そのうち屋敷の方が物々しい騒ぎになっていて、藍虧玉は盗賊一家の首領、そして身内を手にかけた田介に手枷をかけた。その重々しい雰囲気には、田介は思わず、こいつ、もしかして本当にこの首を刎ねるつもりなのではないだろうなとひやりとさせるほどだった。
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