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第五話 母島

 翌朝は汗だくで目覚めた。最中にクーラーが切れたことに気づいていたが、小銭を用意するのもリモコンを取りに行くのも億劫で、行為を続行してしまい、そのまま寝落ちしたためである。  朝一でシャワーを浴びてもよかったがパスした。なぜなら、今日も海に潜るからである。野生のイルカと泳げるという、ドルフィンスイムのツアーを予約してあった。  昨晩のことで哲司が伊依の体を気にすると、お前こそ酷使した腰が痛いんじゃないかなどと可愛くないことを言われたため、予約はキャンセルせず、予定通り港に向かってボートに乗った。    小笠原諸島は、いくつかの島で成り立っている。中心となるのが、竹芝との直通航路を有している父島である。父島の周辺には兄島や弟島などがあり、父島列島を形成している。父島の近海は、珊瑚礁やウミガメだけでなく、イルカの群れが生息しているのだ。  港を離れて、周辺の島を巡りながら、イルカを探した。昨日のウミガメのこともあって、今日もまた空振りかなんて思い始めていた時、前方でイルカが跳ねた。  波を蹴立ててボートが走る。立て続けにイルカが跳ぶ。ガイドの合図でシュノーケルを口に咥えて、海に飛び込んだ。  深い青の世界だった。上下の感覚が分からなくなった。目の前を、イルカの群れが泳いでいった。足ヒレで必死に水を掻くが、うまく前に進めなかった。イルカの泳ぎはあまりに早く、とても追いつけなかった。気づけば、深い青の向こうに、小さな影が散らばっているだけになる。  ガイドから合図があり、海を上がった。波に揺られながら、伊依はシュノーケルを外し、濡れた髪を掻き上げた。飛び散る雫が、殺人級の日差しを浴びて煌めいていた。もう少しでイルカに触れそうだったと言って笑った。その、どこか幼さすら感じさせる危うい笑顔に、哲司はまた、あの夜を思い出した。  突然の狂ったような痴態。血まみれになって求めてきた、こいつの体の熱さ。泥の中に沈み込む感覚と、全てを押し流すぬるい雨と。  それから、昨晩のセックスのことを。抱きしめた体の儚さを。思い出して、切なくなった。頬にこびり付いた血は、まだ消えない。  散々泳ぎ倒した。遅い昼食を取り、午後はずっと眠かった。宿に戻り、扇風機を回して休んだ。  相変わらず白いままの伊依の鼻先に、玉の汗が浮かんでいた。哲司が指先ですくい取ると、伊依はうっすら目を開けた。やらねぇぞと若干舌足らずに言われて、やる気はねぇよと答えたが、その後もずっと、伊依の寝顔を眺めていた。    翌日は早起きし、朝一の便で母島へ向かった。父島から南へ五十キロのところにあり、船で二時間かかる。母島も父島と同様、姉島や妹島と共に母島列島を形成している。  移動手段としてレンタルバイクを利用するつもりだったが、宿泊客が優先ということで借りられなかった。代わりにレンタサイクルで島を回ることにした。  国から助成金でも出ているのか、道路は綺麗に舗装されていて走りやすかった。ただし高低差が激しく、自転車で回るには向いていない島だった。汗だくになりながら立ち漕ぎをして、曲がりくねった坂道を走った。  都道最南端の看板が、道路の終点を示している。この先は自転車を降り、徒歩で森の中を進むのだ。  せっかくなら最南端の景色が見たいと言い出したのは哲司だが、既に後悔し始めていた。自転車の移動だけで疲労困憊なのに、その上さらに山登りとは。ハイキングコースとは名ばかりで、ほとんど獣道である。案内看板を見つけては迷っていないことを確認し、縦横無尽に生い茂る亜熱帯植物を掻き分けてひたすら前へと進む。  丸太を組んで作られた簡易的な階段を上っていくと、いきなり視界が開けた。遮るもののない太陽光線が目を焼く。真っ青な海が広がっていた。  尾根伝いに進み、岬の先端まで出た。ここが本当の最南端だと、落下防止のために打ち付けられた木の欄干が伝えている。  周囲を見れば、とにかく海だ。岩のような小島がぽつぽつと浮かんでいる。振り返れば、今登ってきた山がある。無人のビーチがある。港は遥か後方に、島影に阻まれて見えなくなっていた。   「ここが日本の最南端か」    感慨深くなって哲司が呟くと、全然違うぞ、と伊依がばっさり切り捨てた。   「ちげぇの!? 東京から千キロだぜ?」 「沖縄とかの方が南にあんだろ」 「けど、日本最南端は小笠原にあるんじゃねぇの」 「最南端の沖ノ鳥島と最東端の南鳥島は、確かに小笠原村に属しているが、ここよりももっとずうっと南にある。普段は自衛隊とか政府関係者しか行けねぇだろ」 「うええ? じゃあ、一般人が行ける最南端は?」 「おれも知らん。たぶん沖縄だ。最西端も沖縄だし」 「最西端は一般人も行けんのか?」 「一般人が行ける最南端だの最東端だのは、地元が躍起になって宣伝してんだろ。調べてみなきゃ分からんが」    目の前に広がる海は、こんなにも茫洋として果てがないのに、まだ国境にも到達できていないなんて。この国は広く、そして世界はもっと広い。   「じゃあ、次は沖縄だ」    哲司が言えば、伊依は怪訝そうに首を傾げた。   「本当の最南端だよ。一般人が行けるやつな? 俺がいつか連れてってやるよ」 「別に行きたいとは言ってねぇが」 「でも、見てみたいだろ、端っこの景色。こことはだいぶ違うかもだし」 「ここからの景色だって、悪くないぜ。太平洋のど真ん中って意味じゃ、端っこみたいなもんだ」    けどまぁ、と溜め息まじりに伊依は続ける。   「いつかな。約束を覚えていれば、行くか」    狭い山頂で昼食にした。父島からの出港前に買った唐揚げ弁当だ。汗をかいた体に塩分が沁みた。  下山して町へ戻った。レンタサイクルを返却し、出港までまだ時間があったので、店の人に勧められたビーチへ立ち寄ることにした。  来た道を少し戻り、道路から険しい階段を下りたところに、小さなビーチがあった。切り立った崖に三方囲まれ、白い砂浜に波が穏やかに打ち寄せている。人気もなく、プライベートビーチの雰囲気があった。  泳ぐ予定はなく、水着は持ってきていなかったが、目の前に海があれば入りたくなってしまう。ただでさえ、ここへ来るまでにまた汗だくになっている。火照った体を冷やしたかった。  靴を脱ぎ、裸足になって砂浜を駆けた。短いズボンを捲り上げて太腿まで曝け出し、青い海に飛び込んだ。心地よい冷たさに、汗が少しずつ引いていった。  お前も来いよ、と哲司は伊依の方を振り向いた。伊依は岩場の陰にいて、つま先だけを濡らしていた。   「そっちは焼ける」 「お前ぇ、またそんなこと言って」 「お前こそ、せっかく買ったラッシュガードはどうした」 「カバンに入れてあるよ? だってやっぱあちィんだもん。汗乾かない感じがして」    伊依と色違いで黒のラッシュガードを買った。ドルフィンスイムの時は役に立ったし、今日も初めのうちは着込んでいた。しかし、自転車で上り坂を進む最中、直接風に当たりたくなって、脱いでしまった。一応日焼け止めは塗っているので、日焼けの心配はないはずだ。   「たまには日焼けもいいもんだぜ。せっかく南の島に来てるんだからよ」    哲司がいくら誘っても、つんとしたまま波打ち際でパシャパシャやっているだけの伊依に、チョッカイをかけたくなった。両手いっぱいに海水をすくい、伊依に向かってぶち撒けた。  伊依は前髪からぽたぽたと水を垂らす。顔にかけるつもりはなかった。これは確実に怒っているなと、哲司が身構えた瞬間、伊依は強く水面を叩いて、海水を蹴り上げた。飛沫が哲司の目を直撃した。  海水が目に沁みた。哲司は痛みに足を縺れさせる。寄せる波に足を取られて、思い切り尻餅をついた。ばしゃんと派手な水飛沫が上がる。急いで立ち上がったがもう遅く、下着まで水が染みていた。   「おっま、どーしてくれんだよっ。ケツ濡らしたまま船乗れってか」 「はっ、身から出た錆だ」 「顔にかけるつもりはなかったし!」 「おれは目を狙ったけどな」 「てめぇ~、やっぱかわいくねぇっ」 「かわいさで売ってないんでね」    その後はもう、水鉄砲の応酬だった。お互いびしょ濡れで、砂まみれで、子供みたいにはしゃいだ。疲れ切って砂浜に座り込んだ頃には、出港の時刻が迫っていた。  港は湾の向こうに見えていた。しかし走っていくとなるとかなり遠く感じた。ただでさえ起伏の激しい道だ。しかしこの便を逃すと明日のこの時間まで帰れなくなる。父島母島間は、一日一往復しかしていない。片道運航すらしていない日もある。とにかく、反吐を吐いてもあの船に乗らなければならない。  哲司が先に港へ着いた。まだタラップは下りている。振り返ると、伊依の姿はまだ遠い。ぜえぜえ言いながら走ってくるのが見えた。  哲司は、乗船口でしばらくごねた。連れがもうすぐ来るんです、こっちに宿取れてなくて、荷物は全部父島にあって、とそんなことを繰り返しているうちに、ようやく伊依が到着した。膝に手をつき、肩で激しく息をする。海に入って冷えた体が、またすっかり汗だくだった。髪の先から大粒の汗が滴り落ちた。  多少出港を遅らせることにはなったものの、無事に乗船を果たし、母島を後にした。広い雑魚寝スペースに寝転んで、二時間たっぷり昼寝した。

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