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第六話 痛み
それなりに広い島で、海はもっと広いけれども、一週間も滞在しているとやることがなくなってくる。目ぼしいビーチはあらかた潜り、念願だったウミガメとの邂逅も果たした。軽い登山をして展望台を巡るのも、そろそろネタが尽きてくる。
固有種探しをしてみてもいいが、見分けられる自信が全くない。本土にも生息している鳥を見つけて、ああこれが絶滅危惧種の、なんて馬鹿げたコントをする自信しかなかった。
そんなわけで、結局は海だ。浮いているだけで、何となく楽しい。何かしている気分になれる。
ひっそりとした小さな入り江で、カヤックを浮かべて遊んでいた。シュノーケリングセットは一応積んでおり、気ままに海へ潜っては、熱帯魚を追いかけた。湾内に古い貨物船が沈没していて、魚の住処になっているのだった。錆びて朽ちた鉄の塊にサンゴが張り付き、複雑に入り組んだ構造は小魚にとっての安全な住処となっている。
今夜の飯はどうしようかなどと、波に揺られながら話した。カヤックから身を乗り出して、水面を指先でキラキラ撫でながら、ウミガメと伊依は答えた。
「またぁ? 俺やだぜ。かわいそうだもん」
「んなこと言って、もう何回も食ってんだろ」
「まぁ旨いは旨いからさ」
小笠原ではウミガメ料理が一般的に食べられている。定番は刺身と煮込みで、大概の飲食店で提供されている。最初に食べたのは唐揚げだったが、鶏の唐揚げと思い込んで食べたので、のちに真実を知ってショックを受けた。野生のウミガメと初めて遭遇した日の夜だった。
「あんなにかわいいのに、食っちまうんだもんな」
「かわいかろうが、食えるなら食うだろ」
「そうだけど。保護施設とかあるのにさ」
「それとこれとは別なんだろ」
突然、水滴が頬を打った。自前のものではない水だ。何かと思い空を見上げる。いつの間にこんなに雲が出ていたのか。真っ黒な積乱雲に稲妻が走る。冷たい風が吹き付けて、バケツを返したような大雨になった。
激しい雷雨と突風に煽られて、カヤックが引っくり返った。海水温がひどく冷たく感じられ、大急ぎで岸へ上がった。
カヤックを引き上げている最中にも、冷たい雨が全身を打った。波を蹴立てて大粒の雨が走っていた。霧が立ち込めたかのように、辺りが白く煙っていた。全ての輪郭を曖昧にしてしまう雨だった。
頭の先から爪の先までずぶ濡れだ。乾く間もなく雨に打たれる。体はどんどん冷えていく。
とりあえず、木陰に隠れて雨を凌いだ。冷えた体を寄せ合って、濡れた荷物をどうしようなどと話しているうちに、ぱったりと雨がやんだ。雲の切れ間に、青空が見えている。
温かな光が差し込んだ。風はまだ少し冷たい。やがて晴れ間が戻ると、濡れた体はすぐに乾いた。海はすっかり凪いでいた。
駆け足のように雨を降らせ、すぐに元の天気に戻る。熱帯に特有のスコールというやつだった。海上で降られるのは初めてだった。
夕日を見ないかと伊依が言った。雨上がりの夕焼けは美しいのだと。すぐに着替えて、スクーターにまたがった。
島の南部を目指した。市街地から離れており、観光客もあまり訪れない。山がちの地形で森林地帯が広がっており、秘境の雰囲気があるのだった。
東京都最南端と書かれたバス停があり、そこで道が途切れている。スクーターを停めて、ハイキングコースを進んだ。前にも一度来ているので、展望台まではすぐだった。
この先へ行きたい、と伊依が言った。登山道を示すロープをまたいで、コースを外れた。
獣道ですらない、険しい岩場が続いている。潮風にやられてしまうのか、背の高い植物は生えていなかった。視界を遮るものは何もなく、ただ広い海と青い空だけが見えていた。
「……今頃、期末試験は終わってるな」
不意に伊依が口を開いた。急に何の話だと、哲司は聞き返した。
「期末試験、とっくに終わっているだろう。お節介焼きが、わざわざおれなんぞを気にかけて、結局試験は受けられなかったな。今頃、クラスのやつらは夏休みの予定でも立てているのか。成績が悪けりゃ、夏休みもクソもねぇってのに」
捨て去ったはずの過去が、足元から這い上がってくる。嫌な予感に、哲司は足を速めた。
「もういらねぇだろ、そんなもん」
「いらねぇか」
「そういうの全部を捨ててきたんだろ、俺達」
「……お前、どうしてここにいるんだ」
伊依がぴたりと足を止める。そこは本当の行き止まりだった。眩暈のしそうな断崖絶壁に立たされる。大きな白波が岩に当たって砕け散る。
「なんでって……お前が来たいって言うから」
「違う。どうしてこんなところにいる。どうしておれを、こんなところへ連れてきた。お前のいるべき場所は、ここじゃねぇだろう」
「…………」
「お前まで、罪を犯す必要はなかった」
あの日、二人は確かに罪を犯した。あの男のことをほとんど知らないまま、哲司は人殺しになった。二人で死体を埋めて、全部をなかったことにして、こんなところまで逃げてきた。
「……俺は、罪を犯したとは思わねぇよ」
嘘をついた。罪は罪だ。殺人は殺人だろう。けれど、それが必要な殺人だったのなら、伊依が人間として生きるのに必要な罪だったのなら、共に地獄に堕ちることくらい、哲司にとっては容易かった。
「お前を、これ以上独りにしたくなかっただけだよ」
人を殺さなければ、罪を犯さなければ生きられなかったこいつの人生を、否定したくはなかった。憎しみだけを原動力に生きてきたこいつの人生を、俺だけは肯定してやりたいと、そう思った。その罪ごと、肯定してやりたかった。何があってもお前を守りたいなんて、陳腐な台詞を吐きそうになった。
「好きだからだ、お前のことが」
言葉にしてしまえば、すとんと胸に落ちた。もっと早く、この言葉を口にしていれば、何かが変わったのだろうか。
この気持ちを単純な言葉に当てはめていいものかと、愛などと名付けるのはおこがましいのではないかと、ずっと考えていた。しかし、これは愛だろう。確かに、哲司の愛だった。
「……だったら、もう十分だ」
伊依は振り返り、微笑んだ。初めて見る、美しくも儚い笑顔だった。黒髪が潮風に靡いて、左目に光が差した。瞬間、伊依は空を飛んでいた。
初めから、こうなることは決まっていたのかもしれない。暴れ出した瀕死の男を、力いっぱい押さえ込んだあの時から。脳がはみ出し、眼球の飛び出た死体に、重く湿った土を被せた時から。
ずっと、その予感はあった。この旅に終わりがあるとするならば、それは死であると。それ以外にないだろうと。嫌な予感は、影のようにずっと付き纏っていた。そして、その予感は現実のものとなる。
どうしてこんなところまで連れてきたのかと、伊依は言った。今になって、哲司は理解した。ただただ、伊依に生きていてほしかった。
いつだって、死んでもいいと思っていたのは哲司の方だ。父親が死んでから、この世に未練はなくなっていた。伊依の存在だけが、哲司を生に繋ぎ止めていた。
この地へ辿り着いたのは偶然だ。平気な顔で死に向かう伊依を、生に繋ぎ止めておきたかった。この世には生きるに値するものがあると、勘違いでもいいから伊依に思わせてくれる何かを探していた。あの町にいるのでは駄目だった。あそこには、絶望以外に何もない。
この旅で、伊依の色々な表情を知った。笑った顔も、怒った顔も、伊依がこんなにも表情豊かだったということを、哲司はこの旅で初めて知った。都合が悪いと子供じみた言い訳をすることや、眠れない夜は月を眺めて過ごすこと、それに、セックスの時はずいぶん幼くなることも、哲司は初めて知ったのだ。
この旅は、伊依を生かすためのものだ。あの罪も、伊依を生かすためのものだ。だから、その帰結が伊依の死でしかないとしたら、そんな理不尽は、とても許すことができない。
ぶわっと汗が噴き出した。全身の毛が逆立った。哲司は、力いっぱい地面を蹴って、崖下へと飛び込んだ。
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