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第二幕 十五年後の逃避行 第一話 罰
急な気圧の変化に耳鳴りがした。目を開ければ、窓の向こうは海だった。伊依は沖縄の上空にいた。
空港が見えてきたと、隣に座る哲司が言った。飛行機が下降するにつれ、海が近くなる。リーフの内側は色合いが変わり、鮮やかな翡翠色が海岸線に沿って広がっている。
曽根崎 の──ああ、あの男はそんな名前だった──死体が発見されたと報道が流れた時、哲司は動揺の一つも見せなかった。ようやく見つかったのかと、それが当たり前かのように呟いた。
「十五年か。持った方だろ。ガキが適当に埋めたにしちゃ」
伊依も完全に同意だった。いつかこんな日が来ると分かっていた。それがたまたま今日だったというだけのことだ。そしてそれは、この暮らしの終わりを意味していた。
珍しく休日が重なったけれども、特に予定は入れていなかった。午前中は家でのんびり過ごし、昼食は哲司がカレーうどんを作った。昨晩の残りのカレーにめんつゆを入れ、ネギと油揚げを加えて煮る。だしの風味が、甘口のカレーによく合うのだ。
伊依は、汁を飛ばさぬようゆっくりとうどんをすすった。これが最後の晩餐になると思えば、飲み込むのが惜しかった。
十五年もこの暮らしが続いたのは、奇跡に近い。そんな奇跡を言い訳に、哲司の時間を十五年も奪ってしまった。彼に人生を返してやるなら、今しかない。今ならまだ、間に合うかもしれない。
午後、哲司が出かけたので、伊依はクローゼットの奥からボストンバッグを引っ張り出した。昔、哲司と二人で小笠原へ行った時も、このカバンを持っていった。
必要なものは、財布とスマホくらいだろう。パスポートは持っていたが、だいぶ前に有効期限が切れていた。海外旅行など行ったことはないし、行く予定もなかったのに、なぜパスポートを取ったのだったか。哲司の分と二冊、引き出しの上段に入っていた。少しの汚れもない、新品のままのパスポートを、伊依は引き出しの奥に戻した。
必要なものは、そう多くはない。あとは着替えを何枚か詰め込めば、いつだってこの部屋を出ていける。それなのに、なぜこんなにも後ろ髪を引かれるのか。この世に未練などないはずなのに、哲司との暮らしが、あいつのことだけが、あまりに惜しい。
十年だ。十年も、この部屋で過ごした。ありとあらゆる思い出が、この部屋に詰まっていた。
最初に買った安物のベッドを、一か月で壊した。買い替えの際、ダブルベッドにするかクイーンサイズにするかで揉めた。伊依が、寝室が狭くなるのが嫌だと言うと、哲司は、ローベッドにすれば圧迫感は減るからと食い下がった。結局は、背の低いクイーンベッドに落ち着いた。このベッドで、何千回の夜を明かしたのだろう。
カーテンの色でも揉めた。伊依はシンプルな無地のものがいいと言った。哲司は、花柄だのストライプだの、何かしら模様のあるものがいいと主張した。ここは伊依の要望が通り、モスグリーンの無地のカーテンに決まった。今になってみれば、哲司の希望を通してやればよかったと思う。
ソファは、二人暮らしにしては大きすぎる、三人掛けのカウチソファを買った。元々そういう用途で選んだわけではないけれども、喧嘩をして伊依がベッドを占領した夜は、哲司がソファで夜を明かすことが多々あった。
そんな日の翌日は、哲司は変に見栄を張って、ぐっすり眠れたアピールをする。それならこれからもソファで寝たらどうかと伊依が言うと、そんな意地悪言わないでくれと泣き付いてくる。それでもまだ哲司が意地を張るようなら、伊依から謝って仲直りするのだ。
思えば喧嘩もたくさんした。しかし、思い出すのは仲直りをした後のことばかりだ。喧嘩の原因は、覚えていないことがほとんどだった。
一度、哲司をひどく怒らせたことがあった。いや、あれは怒らせたというよりは、落ち込ませてしまったのだ。彼の父の形見だという腕時計を、伊依の不注意で壊してしまった。
風防のガラス面に大きなヒビが入った。修理店へ持っていっても、元通りに直すのは難しいと言われた。哲司はしばらく食事も取らず、伊依とも口を利いてくれなかった。
数日が過ぎて、哲司は小さなアクリルケースを買ってきた。そこに壊れた時計を入れて、棚の上に置いた。何のつもりかと伊依が言えば、これも味だと思って、と返ってきた。今でもそのまま、棚の上に飾ってある。
もっとしっかり怒らせたこともある。いや、正確には怒られたのだ。これも伊依の不注意で、グラスを落として割ってしまった時のことだ。
上京の折、記念に買ったペアグラスだった。高価な品ではなかったが、思い出の品ではあった。高い位置から落としてしまい、粉々に砕けてしまった。
だが、哲司が怒ったのは、伊依がグラスを割ったことに関してではなかった。グラスの破片を素手で集めようとしたことで、ひどく怒られた。俺がやるから向こうへ行ってろと怒鳴られて、台所を追い出された。
破片を拾い集め、掃除機をかけた後で、哲司がリビングに戻ってきた。もう怒ってはいなかった。伊依がグラスを割ったことを謝ると、そんなことはどうでもいいことと、怒鳴ったことを謝られた。ガラスで指を切っていないか、手を握られて確かめられた。
時計が壊れた時はあんなに落ち込んでいたのに、グラスを割った時は伊依の怪我の心配ばかりしていた哲司のことを、伊依は真には理解できなかったのかもしれない。時計とグラスと、どちらも大切なものに変わりはないのではないか。両者にそこまでの差があるとは思えなかった。
ただ、自分はこの男に大切にされている。その感覚だけは、伊依の中に実感として残った。
改めて、この部屋には物が多いと思う。海外へはついぞ行かなかったが、国内旅行ならそれなりに出かけた。その度に、記念と称して土産を買うものだから、無駄なものが増えてしまった。よく分からないキーホルダーだの置物だの、引き出しを開けるとわんさか出てくる。旅先で買って自宅宛に送った絵葉書が、壁掛けのコルクボードを埋めている。今年の冬はまた温泉でも行こうかと話していたが、とても行けそうにない。
思い出が思い出を連れてくる。一日一日が、鮮明に思い出される。この部屋には思い出しかない。カーペットのほつれも、ソファの毛玉も、シンクの水垢やまな板の傷まで、全てに思い出が染み付いている。その全てを、今ここで、捨て去らなければならない。
ぐずぐずしていると決心が鈍る。罪が明らかになった今、このタイミングで、哲司を解放してやらなければならない。伊依が最後にできる償いだった。もう決めたことなのだ。いつまでも思い出に引きずられていてはいけない。大切だったものは全て、ここに置いていく。思い出の他には、もう何もいらないのだ。
少ない荷物をカバンに詰めて、ファスナーを閉じた。それと同時に、鍵が回って玄関が開いた。哲司が、沖縄の観光ガイドブックを何冊も抱えていた。伊依の様子を見つめて一瞬立ち竦み、準備が早いなと笑った。
宮古島は、珊瑚礁が隆起してできた、平坦な島だ。ミヤコブルーと呼ばれる美しい海に囲まれた、地上の楽園のような島だ。どうしてこんなところまで来てしまったのだろうと、伊依はふと我に返る。
一人でいなくなるつもりだったのに、当たり前のように、哲司は一緒に逃げると言ってくれた。その優しさに甘えて、こんなところまで来てしまった。十五年前から、何も成長していない。自分の弱さにうんざりする。
なぜ宮古島を選んだのか。海が綺麗なのはやっぱり離島だろ、と哲司が言ったのだった。それに、沖縄においては珍しく、ハブが生息していないらしい。夜も安心して出歩けるぜ、とガイドブックの受け売りらしく得意顔で言っていた。
まずは空港の近くでレンタカーを借りた。小さな島とはいえ、移動には必須である。東京は残暑が厳しい中でも秋の気配が近づいていたが、沖縄はまだまだ真夏のピークが続いている。荷物を積み込むために外に出ただけで汗だくになった。
空港の北西部に、宮古の市街地が広がっている。高い建物こそないが、小綺麗にまとまった、生活感のある町だった。チェーン店の看板なんかもちらほら見かけた。
昼食に宮古そばを食べた。沖縄そばと違って、だしの利いたあっさりしたスープと、つるりとした平麺が特徴だという。ラーメンに半炒飯を合わせる感覚で、ジューシーという炊き込みご飯も食べた。
それから、喫茶店に入ってかき氷を食べた。今時らしい、ふわふわとした口当たりのかき氷だった。いい歳をした男が二人でかき氷もないだろうと思ったが、マンゴーの果肉とシロップをたっぷりとかけたかき氷は甘すぎなくて美味く、火照った体を程よく冷やした。
宿は伊良部島に取ってある。宮古島自体が小さな島だが、宮古諸島を形成する他の離島とも距離が近く、全て橋で繋がっている。中でも、宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋は、全長3540メートルと、無料で渡れる橋としては日本一の長さを誇っている。
海と空の間を、真っ直ぐに突き抜けるような橋だ。普通に走れば五分とかからず渡り切ってしまうが、哲司は景色を眺めながらゆっくりと車を走らせた。
まるで海の上を滑っているようだった。少しずつ陸地が遠のいていく。ちょうど橋の中心まで来ると、狭いが車を停められるスペースがあった。外へ出てみると、直射日光が肌を焦がした。海の真ん中で、遮るものは何もない。東京のものとは比べ物にならない強い日差しが、じりじりと肌を焼く。
ふわりと、頭に何か被せられた。やけにつばの広い、大きな麦わら帽子だった。帽子の下から、伊依は哲司を見上げた。焼けると長引くだろ、と哲司は笑った。
青い海が、あまりに眩しかった。眩しすぎて、直視できなかった。
宿に荷物を置いてから、ビーチへ出かけた。哲司はがっつり泳ぐつもりで、伊依も水着は着ていたけれども、泳ぐというよりは景色を見て、浜辺でぼんやりと過ごした。
地上の楽園とは、まさにこのことを言うのだろう。輝くような白い砂浜が、どこまでも続いている。穏やかな波が寄せては返し、日差しを浴びてキラキラ光る。淡い薄荷色から、鮮やかな翡翠色、そして深い瑠璃色まで、全ての青がそこにある。透き通った海の色が、幾重にも層を描いている。
哲司に呼ばれて、波打ち際を歩いた。ふかふかの砂に、サンダルが沈み込む。熱い砂がくるぶしを焦がす。耐えきれなくて、少し泳いだ。寄せる波が、肌を優しくくすぐった。
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