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第三話 傷
宮古島にもう一泊してから、飛行機で沖縄本島に戻った。那覇は驚くほど都会だった。高層ビルがあり、タクシーが行き交い、電車はないがモノレールが走っているし、どこへ行っても観光客で溢れていた。しばらく離島にいたから、余計にそう感じた。人間の密度に圧倒された。そして、軍用機が飛んでいる。
耳を刺す轟音に、伊依は空を仰ぎ見た。紺碧の空を裂いて、戦闘機が横切った。基地が近いのかと哲司が言った。あっという間に飛び去って、機影はもう遠く離れて見えないのに、伊依の頭の中では、あの鋭い轟音が、いつまでも鳴り響いていた。
何を勘違いしていたのだろう。自分達は今、どこかへ逃げている最中だ。そして、楽園はどこにも存在しない。逃げた先にも、現実があるだけだ。過去と地続きの、どうしようもない現実が。
どうして忘れていられたのか。あの恐ろしい罪。そして、この先に待つ破滅。終わりのない旅をしているという現実。もしも終わりがあるとするならば、それは死以外にないということを。
この熱すぎる日差しのせいか。考えることを放棄したくなる暑さのせいか。三線の音色と、独特の音階と、あまりにもゆっくり流れる時間のせいか。それとも、哲司の明るさのせいだろうか。
何も不安なことなどない。全てうまくいくからと、言葉でなく行動で伝えてくる。哲司のその明るさが、本当は不安から生まれたものだということを、伊依は分かっている。そして、伊依を安心させるために、無理をしてそう振舞っているということも、分かっている。
一刻も早く、この男を自分から解放してやらなければならない。そもそもの旅の目的を、伊依は改めて思い出した。決意を鈍らせてはいけない。せめて最後くらいは、自分の手で選びたい。
哲司のたっての希望で、美ら海水族館を訪れた。沖縄は想像以上に広い島だ。那覇から本部半島の先端までは、高速を使っても二時間かかった。有名なジンベエザメの水槽は、さすがに圧巻の迫力だった。
体長8.8メートル、体重6トンのジンベエザメが、そんな巨体を物ともせずに、悠然と身軽そうに泳ぐ。世界最大級の水槽は、容量7500トン。その重さを支えているのが、厚さ60センチのアクリルガラスだ。幅22.5メートル、高さ8.2メートルの巨大なガラス窓は、開館当初はギネス世界記録に認定されていたという。
数字だけでも圧倒される。実物を前にすれば、それは数字で見るよりずっと大きい。水槽の前に立ち、ジンベエザメの影に入ると、自分という存在がひどくちっぽけなものに思えた。
宿は名護市内のホテルを取った。伊依の頭の中では、戦闘機の風切り音が、まだぐるぐると回っていた。左目の奥が、疼くように痛んだ。長らく忘れていた痛みを、鮮明に思い出した。
あの男の──曽根崎のことを、この十五年間、ほとんど忘れかけていた。もう思い出す必要もない、遠い過去へと記憶ごと捨て去って、素知らぬ顔でありふれた人生を歩んできた。死体が見つかったと報道が流れて初めて、犯した罪の恐ろしさを思い出した。
どうして、殺人など犯してしまったのだろう。憎くて殺したことには間違いない。けれども、あの頃あんなに鮮明だった殺意は、いまや輪郭すら朧気だ。身を焼くほどの憎しみを抱えて、それだけを原動力に生きていたはずなのに、今となっては、その憎しみの正体さえ、曖昧になってしまった。
年を経るごとに、あの殺人の意味が、伊依の中で変わっていった。殺したことを後悔はしていない。しかし、あんな男のために罪を背負うことになってしまったことを、悔いている。
この十五年で、失いたくないもの、手放せないものが増えてしまった。しかし、過去の罪が明らかになれば、それら全てが失われることになる。そのことが、悔しかった。生きられなくなることが悔しい。あの男を殺して、満足して、死ぬつもりでいたのに。
自分は、やはりどこか欠けた人間なのだろうと思う。人を一人殺しておいて、罪悪感の一つも湧かない。考えるのは自分のことだけ。そして、己の罪に巻き込んでしまった哲司のことだけ。
殺意も憎悪もあやふやなのに、あの男を絞め殺した感覚は、今も生々しく残っている。脈打つ頸動脈、上下する喉、皺の寄った黄ばんだ首。血走った目と、突き出た舌、鬱血した赤黒い顔。力いっぱい握りしめたロープの凹凸や、指先を擦った痛みまで。
しかし、もっと鮮烈に覚えているのは、あの日初めて触れた、哲司の体の温もりだ。汗のにおい、唇の味。抱きしめてくれた腕の力強さも、体内に受け止めた血潮の熱さも。朝日に照らされた彼の姿は、さながら、十字架を背負いゴルゴタの丘をのぼるキリストだった。
伊依には愛が分からない。愛を知らないから欠けた人間に育ったのか、欠けた人間だから愛が分からないのか。それでも、十一歳の少年は、愛と言われれば信じた。舌で気道を塞がれるのも、首を絞められるのも、失明寸前まで殴られるのも。日に焼けた畳の上に組み敷かれ、犯されて、愛していると言わされるのも。
愛と言われれば全て信じた。自分は彼を愛している。彼も、自分を愛してくれている。愛しているから、犯すのだと。
一度、彼を問い詰めたことがある。曽根崎さんは、おれを愛しているんだよねと。愛しているから、こういうことをするんでしょと。男は、無精髭を生やした口元を歪めて嗤った。ああ、お前を愛しているとも。オレには伊依しかいないんだ。さぁ、早く服を脱いでこっちへおいで。
そうじゃない、と伊依は男の手を振り払った。初めての抵抗だった。男の目の色が変わったことに、伊依は気づけなかった。
そうじゃなくて、愛しているなら遊園地に行くんだよ。一緒に甘いものを食べて、手を繋いで、おそろいのお土産を買うんだよ。おれも、曽根崎さんと、そういうのがしてみたい。愛しているなら殴ったり蹴ったりしないもんだって、今日、学校でね──
気づいた時、空中を飛んでいた。強かに背中を打つ。壁に叩き付けられた。
息ができなかった。男の手が伸びてくる。胸倉を掴まれて、引き裂くようにして服を脱がされた。片手で軽々と首を絞められる。明白な拒絶の言葉を、伊依は初めて口にした。
それから──どうなったのだったか。意識がはっきりした時、男に馬乗りにされていた。左目はほとんど真っ暗で、右目は赤く霞んでいた。口の中は血の味がした。鼻は詰まって息ができなかった。口で呼吸をしようとすると、何かに溺れそうになるのだった。
お前はババアに売られたんだよ。男は大声で高笑いした。オレは婆さんからお前を買った。おかしいと思わなかったのか。オレが来るのは決まってババアが留守の時。オレが帰ると、入れ替わりで婆さんが帰ってくるだろう。お前はババアに売られたんだよ。
ガキを殴りながらヤリまくるのがいいんだ。そうじゃなきゃ全然イけないし、そのためにお前を買ったんだ。伊依を犯しながら、男は唾を飛ばした。
伊依は、もう抵抗しなかった。殴られながら犯されても、視界が真っ黒に潰されても、まるで壊れた人形のように、声一つ漏らさずにじっとしていた。
心は変に凪いでいた。やはり、愛などというものは、ただの錯覚か絵空事だ。そんなものは、どこにも存在しないのだ。己の中の仮説が、また一歩証明に近づいた気がした。
この時の暴行が原因か、それまでの積み重ねが原因かは不明だが、いよいよ左目が見えなくなったために、しばらく病院へ通うことになった。あれ以来、男が来ることはなくなった。祖母は何も言わなかった。
あの男を殺したことを、罪だとは思わない。やるべきことをしただけだ。しかし、伊依一人がそう思っていても意味はない。殺人は殺人。罪は罪だろう。過去が明らかになれば、法によって裁かれることは免れない。この国で人として生きるからには、避けられない結末だろう。
死それ自体は怖くはない。刑務所に何年入ることになっても、殺人犯の謗りを受けるのも、構わない。しかし、あの男を殺した罪で罰を受けるのは、あの男のために罪を償わなければならないのは、死よりも耐えがたい。そんな思いをするくらいなら、自分の手で全てを終わらせたい。
久しぶりに夢を見た。あの男に初めて犯された日の夢だ。何も分からないままに、男というものを教えられた。愛を理解する前に、性の悦びと痛みを知った。
全身にじっとりと汗をかいて飛び起きた。目の奥がじくじくと痛んだ。この十年、昔の夢を見ることなどほとんどなかったのに、このところ増えている。故郷を映したニュース映像が、過去の記憶を呼び起こし、忘れていた痛みを思い出させた。
シンプルなビジネスホテルのダブルルームに泊まっている。カーテンを開けると、足元に街の明かりが見えた。哲司はいびきをかいて眠っている。このとぼけた寝顔をいつまでも見ていたいと思うようになったのは、いつからだろうか。
伊依は哲司の鼻を摘まんだ。これは摘ままれるためにあるものだ。いびきがやみ、咽せるような息を一つして、哲司は目を覚ました。
「なに、もう朝?」
寝起きの声はどこか間延びしていて、独特の甘さがあった。伊依は哲司の上へ馬乗りになりながら、まだ夜だと答えた。状況を理解したらしい哲司の声が優しくなる。
「眠れねぇの」
「……したい」
「疲れてない? 今日結構歩いたろ」
ズボンのゴムに指を添えられる。下着の中に、哲司の手が入ってくる。濡れてる?と耳元で囁かれる。腰が震えた。
伊依は、哲司のパジャマのボタンを外す。厚い胸に唇を寄せる。浴室に備え付けの安物のシャンプーのにおいがした。必死に彼のにおいを探した。
「くさい?」
「……すこし」
「マジぃ? ちゃんと洗ったのに」
「うそ。いいにおいだ」
「お前、たまに恥ずかしいね」
この男の温もりで、痛みが遠のく。悪い夢が薄らいでいく。肌に触れるだけで、優しく抱かれるだけで、また勘違いしそうになる。生きたいと願ってしまう。
「……もっと、つよく……」
「苦しくねぇ?」
お前を感じたいと伊依が言えば、哲司は全身で応えてくれた。もういいからと泣き言を漏らすまで、何度も抱かれた。
二日ほどかけて、島内を回った。本島最北端の辺戸岬から、車窓に海を眺めながら、国道58号を南下した。ガイドブックを捲り、適当な観光地へ立ち寄った。
名所と呼ばれる景勝地や、大自然に残るグスク跡や、熱帯植物園で花を見たりした。鮮やかなハイビスカスとブーゲンビリアが、紺碧の空に映えていた。
哲司が行ってみたいと言うので、おきなわワールドというテーマパークを訪れた。玉泉洞という鍾乳洞が有名らしい。三十万年という時間をかけて創られた、国内でも最大規模の鍾乳洞だという。洞窟の中はひんやりと涼しく、青や紫にライトアップされた鍾乳石や地底湖は、神秘的な美しさだった。
伊依は、少し開き直った気分になっていた。こんな旅はいつまでも続かない。近いうちに終わりが来る。それは確定的な未来だ。終わりを急ぐ必要はない気がした。
それならば、最後のひと時をゆっくりと味わうのも悪くはない。哲司がもういいと言うまで、最後の旅に付き合おうと決めた。そして、終わりが来たら潔く消えようと。
これで見納めになると思えば、どんな景色も美しかった。哲司の表情も、繋いだ手の温もりも、汗のにおいも、何もかもが愛しかった。
「どうする、これから」
サンセットビーチで夕日を見ながら、伊依は言った。砂浜に横になった哲司は、のんびりと足を組み替えながら、どうしようねと笑った。
「行きたいとことかある?」
「……波照間」
伊依が呟くと、哲司は勢いよく起き上がった。ぱらぱらと砂が落ちた。
「日本最南端か」
「それは沖ノ鳥島だろ」
「じゃなくて、一般人が行けるのは波照間島だって、俺もちゃんと調べたんだぜ」
果てのうるま。だから波照間。学術的には若干誤用らしいが、いずれにしても、波照間島が最果ての珊瑚の島であることには変わりあるまい。滑走路に降り立つ旅客機が、風を切って迫ってくる。この旅の最後の行き先が決まった。
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