11 / 18

第四話 西表島

 那覇から波照間島への直通航路はない。一旦石垣島まで飛んで、船で向かうのが一般的なルートだ。石垣港からは、周辺離島への船が日に何便も出ている。せっかくここまで来たのだから、八重山の離島をいくつか巡ってみようかという話になった。  イリオモテヤマネコに会ってみたいと哲司が言うので、まずは西表島へ行くことにした。具志堅用高の銅像が立つ波止場から、高速船に乗り込んで、片道四十分で到着する。案外都会的だった石垣島と比べて、西表島はいわゆる離島の雰囲気が強かった。  イリオモテヤマネコを飼育している施設はなかった。その代わり、イリオモテヤマネコの骨格標本や剥製を展示している施設があった。一般的なイエネコよりも、足は短く尻尾は太く、ずんぐりとしていた。想像よりも体は小さく、この小さな体で亜熱帯のジャングルを生きているのだと思うと、逞しい生命力を感じた。もう死んでいる、剥製なのに。   「……まぁ、猫は猫だな」 「猫は猫でも、天然記念物で絶滅危惧種の猫だぜ。それに結構かわいいじゃん」 「これなら普通の猫でいい」 「そう言うなって~」    生きているのを見なくていいのかと伊依が言うと、機会があればなと返ってきた。ロードキルが問題になっているようだから、運転中にうっかり出くわす可能性もなくはないが、やはり山に入らなければ出会えないのではないかとも思った。  水牛車で海を渡り、由布島に渡った。人よりも水牛の数が多い、西表島からしか行けない小さな島だった。何があるということもなく、亜熱帯の植物とマングローブの林を見ながら遊歩道を歩いた。帰りは徒歩で海を渡った。かなり遠浅の海で、一番深いところでも膝までは濡れなかった。  西表島は、沖縄で二番目に大きな島だという。予約をしていた宿は、由布島から見て島の反対側にあり、車で向かって四十分かかった。途中、見晴らしのよさそうな展望台があったり、海の上を走る海中道路があったりしたが、どこにも立ち寄らなかった。口には出さなかったが、お互いに長旅で疲れていた。  だいぶ早い時間に宿に着いたが、チェックインさせてもらった。旅館と銘打ってはいるものの、昔ながらの民宿だった。日に焼けた畳は、どこか懐かしいにおいがした。窓の向こうには海が見えた。  今の時期は夕日が綺麗に見えるのだと、宿の女将が教えてくれた。日没まで砂浜で過ごした。泳ぐ気にはなれず、ただ足首だけを濡らして、波打ち際を歩いた。  砂浜に寝転んで、波の音を聞いていると、いくらでも時間が溶けた。輪郭から溶け出して、沖まで連れていかれる気分になった。    日が陰って、風が湿る。真夏のピークが続いている沖縄だが、暦の上ではとっくに秋だ。こちらへ来て、もう何日が過ぎただろう。欠勤の理由に仮病を使い続けているが、それもそろそろ限界かもしれない。  そこまで考えて、伊依はふとおかしくなった。自分はまだ、あそこに戻るつもりでいたのかと。都会の外れの小さな町に。哲司と暮らした、思い出しかないあの部屋に。あれは伊依の人生そのものだった。  帰りたいと思った。懐かしいものしかない、あの町での平凡な暮らしに。帰れないと分かっているのに、そう思えば思うほど焦がれた。何もかもを捨てて、過去を断ち切って、遥か遠い南の島まで来たはずなのに、まだ何も諦めることができずにいる。    赤いな、と哲司が言った。昼間あんなに青かった海が、血を流したように赤い。白い雲が燃えている。  真っ直ぐに世界を隔てる水平線の向こうには、一体何があるのだろう。何もないことを知っている。逃げた先に、楽園などありはしない。どこへ逃げても、いずれは過去に追いつかれる。  砂の上で手が重なった。少し汗ばんだ、哲司の手の温みを感じた。伊依から指を絡めて、手を握った。哲司の真っ直ぐな横顔が、夕日に照らされて濃い陰影を描いていた。硬く癖のある髪が、薄闇の中に浮かび上がった。   「好きだよ」    哲司が言った。伊依も同じことを言おうと思っていた。好きだよ、と哲司はもう一度繰り返した。伊依は、繋いだ手をきつく握りしめた。汗でぴったりと張り付いた。  なぜ、と言おうとして、伊依は唇を食い締めた。言葉が出ない代わりに、唇を寄せた。伊依が口の端に触れると、哲司はこちらへ顔を向けた。  音もなく唇が重なった。一日を生きた男の汗のにおいがした。嗅ぎ慣れたそのにおいに、気持ちが疼いた。体が熱を帯び始める。  自分から舌を入れた。哲司も舌を絡めてくる。くちゅくちゅと唾液を混ぜ合う。欲望の糸が織られていく。甘いにおいが口腔を満たす。くらくらした。  哲司の唾液は、甘すぎるほど甘い。しかし嫌な甘ったるさはない。爽やかな甘さで、後味もすっきりしていて、でも後を引く。例えるなら、花の蜜を吸っているような、そんな感覚になる。たくさん食べるものじゃないのに、もっと欲しくなってしまう。  息が続かず、唇を離した。濃厚に絡み合った唾液が、夕日を浴びて鮮血のように滴り落ちた。その唾液ごと、伊依は再び唇を重ねた。夢中でキスを貪った。  きつく指を絡ませたまま、哲司にもたれるように体を傾けた。哲司の手が腰に回り、抱き寄せるように支えてくれた。甘い舌を突き立てられて、ぐるりと口内をなぞられる。ぞくぞくと腰が震えた。  海に溶けた夕日の赤が、水平線から漏れている。燃えていた空が、透き通るような青になり、淡い紫へと変化する。やがてグラデーションを描きながら、藍色の夜が下りてくる。  薄闇の砂浜で、二人の影が一つに重なる。いつまでもそうしていた。    翌日は、白浜港から船に乗り、船浮という西表島で最も秘境にある集落へ行こうと話していた。島内屈指の透明度を誇るビーチがある上、イリオモテヤマネコ発見捕獲の地ということで有名らしかった。  しかし、宿から一歩も出ることはなかった。昨晩の激しい行為が尾を引いた。日の出と共に浅い眠りから覚め、朝焼けに白む海を見て、再び行為に没頭した。何度交わっても足りない気がした。哲司の全てが欲しかった。  この部屋を懐かしいと感じたのは、十年過ごした祖母の家に似ていたからだ。日に焼けた畳、窓のアルミサッシ、古い木のにおい。思い出など何一つないと思っていたが、あの男を殺した後、哲司と二人で住んでいた時期がある。だから懐かしさを覚えたのだ。   「水、ちゃんと飲んどけよ。いっぱい汗かいたんだから」    冷えたペットボトルが頬に触れる。冷たさが心地よくて、伊依は目を瞑った。  あの家にいた頃も、哲司はよくこうして、冷えた麦茶を汲んできてくれた。あの家にはエアコンがなかったから、壊れかけの扇風機で暑さを凌いでいた。汗だくでセックスをして、麦茶で喉を潤して、またセックスをした。十代の夏は、セックスばかりしていた。  そして今も、なんだかあの頃に戻ったみたいだ。あの頃の焦燥と、慣れ親しんだ諦観が甦る。気持ちばかりが急いて、体は鉛のように重い。  窓の向こうには海が見えた。気の遠くなるような青い海。世界はこんなに広いのに、もうどこにも行かれないなんて。  哲司が、ペットボトルのキャップを開けてくれた。伊依はそれを一口飲み、二口目を口に含んで、哲司の胸倉を取った。畳の上にゆっくりと押し倒してまたがって、唇を重ねた。体温を含んでぬるくなった麦茶を、ゆっくりと哲司の口内に注ぎ込む。哲司は喉を鳴らしてそれを飲んだ。唇が離れると熱い息を漏らし、哲司は笑った。   「俺が飲んでどうすんだよ」    おれにも飲ませてくれと伊依は言った。再び唇が重なった。  こうしていないと、また目の奥が痛くなる。まだ足りない、まだ足りないと、体の奥が叫んでいる。全てを満たして、壊してほしくて、今この瞬間に世界が終わらないことを呪った。  夜になり、夕食を求めて外に出た。月の明るい夜だった。どこかの民宿か居酒屋の屋外席で、宴会をしていた。三線の音色に合わせ、節をつけた歌声が響いた。月が美しいのは十三夜、娘が美しいのは十七つ、と歌う。  空を見れば、確かに今夜は十三夜。満月には足りない月が、夜の海を照らしている。  十七の頃に戻れるなら、きっともっとうまくやる。一人で殺して、一人で死ぬ。十七の頃に戻れるなら、哲司に人生を返してやれるのに。  飲食店はどこも閉まっていた。昨日、港近くの商店で買ったカップ麺と缶詰が、まだ残っていたはずだ。宿への道をまた戻った。  街灯などあるはずもない道だ。スマホのライトで足元を照らした。ガサッと何かが茂みを揺らし、哲司はビクついてライトを向けた。ただ暗い藪があるだけだった。   「なんだよ、風?」 「ハブかもな」 「おい、怖ぇこと言うなって」    哲司は藪の奥をライトで照らす。闇が濃くて、何も見えなかった。ヤマネコかもしれないと言って、しばらく探した。ハブもヤマネコもいなかった。見つかったのは、季節外れの蛍が一匹だ。  夜風に揺れる葉の陰に、たった一匹で休んでいた。まるで、行き場を失った魂が彷徨い歩いているように、冷たい光がゆっくりと明滅を繰り返す。光の輪郭は曖昧で、刹那のうちに闇へと溶ける。  夏はもう終わったのに、夏にいつまでも囚われている。頭の中で、先程の民謡が鳴っている。一番美しい十七の夏に、死にたかった。

ともだちにシェアしよう!