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第五話 石垣島

 西表島に数日間滞在した。そろそろ波照間島を目指してもいいのかもしれないという雰囲気になっていた時、台風発生のニュースが流れた。フィリピン海で勢力を増している。本州に上陸するかもしれないと、気象予報士が言っている。  西表島から石垣島に戻ることはできたが、波照間行きは欠航になっていた。台風が去るまでは欠航が続くだろうとのことだった。他の八重山の離島と違い、外洋へ出ることになるため、波照間行きは欠航率が高いらしい。  石垣島から一番近い離島である、竹富島に渡った。台風が近づいているとは思えないほど、海も空も青かった。赤瓦の屋根とサンゴの石垣、白砂を敷いた小道は、沖縄の原風景と呼ばれるらしい。  こちらへ来て何度目になるか分からない、沖縄そばを食べた。とはいえ、八重山のものは八重山そばといい、沖縄本島のものや宮古そばとはまた別物らしい。島胡椒をたっぷりかけて食べた。有名な西桟橋を歩き、コンドイ浜で星砂を探して、最終便で石垣港に戻った。竹富島には宿を取れなかった。    翌日は石垣島で過ごした。川平湾のグラスボートに乗る予定だったが、海況が悪いということで欠航になった。他にやることを考えておらず、レンタカーで島内を回った。低山に登り、展望台から島や海を眺めた。空はまだ青かった。  いよいよ台風が近づいている。風が強く、波は高い。離島行きの船は軒並み欠航で、飛行機もとうとう飛ばなくなった。足止めを食らった観光客が一気に押し寄せたのか、ホテルがなかなか取れなかった。  せっかくだからリゾートホテルにでも泊まってみるか、と哲司が言った。台風が去れば波照間島だ。あちらにはリゾートホテルなどないだろう。最後に少し贅沢をしようという話になった。  ネットから予約を進めた。これで二人分の料金か、それにしても高いなと思っていたら、表示されていたのは一人分の料金だった。支払い時に倍の値段が表示されたことで気がついた。  正直、目玉の飛び出る金額だった。今まで、民宿やビジネスホテルにばかり泊まっていたから、余計にそう感じた。リゾートホテルに一泊する料金で、民宿なら一週間は滞在できそうだ。  しかし、ぐずぐずしているとまた予約が埋まってしまう。台風の接近する中、路上で夜を明かすのはごめんだ。背水の陣で予約を入れた。    後から調べて知ったことだが、石垣島でも一二を争う人気リゾートらしかった。部屋は生活できそうなほど広く、バルコニーからは海が見え、プライベートビーチと屋外プールも完備である。海外リゾートのような雰囲気で──本物を知らないが──ともかく、値段相応に高級感のあるホテルだった。  とはいえ、この天気ではポテンシャルを発揮できていない。空には雲が重く垂れ込め、高波のうねる海はグレー一色だ。プールサイドに植えられたヤシの木は、みな同じ方向へ傾いでいるし、プールの水面にも高い波が立っている。泳ぐことなど、とてもできそうにない。  そんなわけで、宿泊客は基本的に屋内で過ごす。最上級のクラブ棟には専用ラウンジがあって、アフタヌーンティーだのイブニングカクテルだのが楽しめるらしいが、どうも場違いな感じがして気後れし、結局はほとんどの時間を部屋で過ごした。  台風情報をラジオが喋っている。今夜にも石垣島の上空を通過し、明日には沖縄本島へ上陸する見込みだと。対策を万全にして、安全にお過ごしください。それではお別れはこの曲で。  流れたのは、ドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』だ。さようなら、ミス・アメリカンパイ。ウイスキーとライで酔っ払おう。今日が俺の死ぬ日になる。音楽が死んだ日に。  伊依はラジオのつまみを回す。バルコニーから中庭を見下ろす。ナイトプールの明かりだけがぼんやりと明るい。大きな窓ガラスに大粒の雨が打ち付けて、音楽を掻き消していく。    どうして、こんなところにいるのだろう。どうして哲司は、自分なんかと一緒に、こんなところまで来たのだろう。  哲司まで罪を犯す必要はなかった。伊依と違い、あの男を殺さずとも、哲司は生きていけたのだ。それなのに、一文の得にもならないのに、それどころか、破滅への道を突き進むことになるというのに、伊依に付き合って人殺しになった。共犯という言葉が甘美に響いて、胸を押し潰す。  哲司は愛を知っていた。それは伊依との決定的な違いだった。伊依は初めから何も持っていなかった。  それなのに、哲司は、ある日突然全てを奪われたのだ。父親が死んで、唯一頼れる親戚からは蔑ろにされ、たった一人でどうにか生きていた。  哀れだと思った。初めから何も持っていないのと、持っていた全てを奪われるのと、どちらが哀れなのだろうと、興味が湧いた。そして、教えてほしいと思った。おれにはない、お前の中にはある、愛というものの形を教えてほしいと思った。  彼が父の形見として持っていた腕時計を思い出す。細かい傷のついた、古い時計だった。高価なものなのかと問えば、そうでもないと言った。ただ、親父がずっと使っていたから、これだけは捨てられないのだと。  その感覚が、伊依にはよく分からなかった。父親が使っていたからというのは、物を大切にする理由にはならない気がした。  伊依は、母の指輪も祖母の着物も、とっくに売り払ってしまった。売れないものは処分した。父からは、形のあるものをもらったことがない。    祖母が死んで、父に会いに行った。生活費を世話してもらおうと思ったのだ。他に頼れる相手がいなかった。  父に会うのは二度目だった。一度目は母の葬式だった。古い写真と、メモにあった住所を頼りに会いに行った。  伊依を見て、父であるはずのその男は、他人のような顔をした。家の奥から、小さな足音が駆けてきた。父の背中に飛び付いて、パパと言った。小学生の娘が二人だ。家を間違えていると言って、玄関は閉じられた。伊依はもう一度インターホンを鳴らそうとして、やめた。  父には別に家族があった。それは伊依と母ではない。もとより分かっていたことだ。そうでなければ、母は父と結婚できていただろうし、伊依もあの家に住んでいたかもしれない。  しかし全ては仮定の話だ。そうはならなかったから、伊依は今、ここにいる。  もう一度父を訪ねた。職場へ押しかけ、退勤の時間を狙って会いに行った。  今度は他人のふりはされなかったが、往来で罵倒された。お前達親子はどこまで強欲なのかと。どこまで搾り取れば気が済むのかと。他人の財布に寄生して、お前達はまるでヒルだ。と言われた。  母が死んで以降、祖母は慰謝料として、父に金の無心をしていたらしい。度々まとまった金をもらっては、生活費の足しにしていた。と父は言う。そんな話を、伊依は今初めて聞いた。  祖母と二人の暮らし向きは楽ではなかった。田畑は持っていたものの、細々とした年金暮らしである。贅沢なんて一度もした記憶はなく、だからこそ、自分は男に売られたのだと、伊依は思っていた。それでも、生活費の足しになるならと、自分を納得させていた。  そうではなかったのなら、なぜ自分は男に売られたのか。売られなければならなかったのか。祖母は何を思っていたのか。真相は分からないままだ。明らかにする気力もなかった。  父は、金は定期的に振り込むから、二度と会いに来ないでくれと言った。家になど絶対に押しかけてこないでくれと。それが、父と交わした最初で最後の会話だった。    愛というものが、伊依には完全に分からなくなった。みな気軽に愛を口にするけれど、その存在を本気で信じている者など、この世にどれだけいるのだろう。  愛などというものは、存在を証明できないあやふやなものだ。到底、信じるに足る価値はない。ただの錯覚、集団幻覚、口先だけの絵空事だ。もしもそうでないというなら、誰か愛を証明してくれ。  父と母の間に愛はなかった。父母と伊依との間にも愛はなかった。父にとって、伊依は息子でも何でもない。母にとっての大切なものにもなれなかった。愛があれば、母は伊依を残して一人で死んだりしなかったはずだ。  祖母にとって、伊依は仕方なく引き取っただけの厄介者だ。そして、時には小銭を稼ぐ道具だった。あの男──曽根崎にとっては、具合のいい穴のついた手頃な人形。一時の欲望を発散するのにちょうどいい慰み者だった。    なぜ哲司は、伊依と共に罪を犯したのか。どうして、共に地獄に堕ちることを選んだのか。そんな義理はなかったのに、どうして、自分なんかに付き合って、こんな南の果てまでやってきたのか。  お前のことが好きだから、お前を独りにしたくなかった。あの日、哲司はそう言った。伊依が死に損なった、あの夏の日、あの崖の上で。  罪を犯したとは思わないとも言った。嘘をついていると、伊依には分かっていた。罪は罪。殺人は殺人だ。哲司が一番よく分かっているはずだと、伊依には分かっていた。  だったら、なぜ。一緒に罪を犯して、地獄に堕ちてまで、人生を共にしてくれたのは、なぜ。彼の人生とは何の関係もない男を殺して、死体を埋めて、今日まで伊依と共にいてくれたのは、なぜ。  それこそが、愛の証明だ。十五年前のあの殺人。あれは哲司の愛だった。それから十五年間、一緒に生きてくれたこと。それも確かに愛だった。紛れもない、哲司の愛だ。  図らずも、愛の存在は証明された。信じるに足る価値のあるものだと。一つの死体と、二人の男の人生を犠牲に、証明された。  哲司は愛を知っている。かつて全てを失ったのに、伊依に愛を与えてくれた。そしてまた、全てを失うことになる。  この、優しく、愚かで、哀れな男が、この世の何より愛しかった。他の何を犠牲にしても、この男だけは守りたかった。自分の命よりも、この男が大切だった。この男が、伊依にとっての全てだった。

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