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第七話 最後の夜(♡)

 少しして目を開けた。三十分ほど眠っていた。哲司があれこれ世話を焼いてくれたようだったが、腹の奥には快感が燻っていた。   「……なぁ」    思った以上に掠れた声だったが、伊依が呼べば哲司はすぐに振り向いた。ペットボトルのキャップを開けて、水を飲むよう言ってくる。   「……うるさかったか」 「なにが」 「……声」    今更気にしても遅いが、これだけ喉が嗄れているということは、それなりに喘いでいたということだ。ラブホテルでもないホテルで、隣には子供連れが泊まっているかもしれないというのに、行為に夢中になり過ぎた。   「まぁな、すげぇ気持ちよさそうだったし」 「……そうか」 「けど、気にすることねぇよ。外すげぇうるせぇもん」    そうだった。今夜は台風のピークで、窓ガラスを一枚隔てた向こうでは、風が轟々と唸りを上げているのだった。高級ホテルというだけあって、窓の建付けが悪くガタガタ言うようなことはないが、それでも、四方八方から建物を打つ雨音はまるで石をぶつけたように激しく、外の様子などは雨垂れに遮られて何も分からないのだった。   「……なぁ、哲司」 「なに」 「もっと、したい」    思いがけず、甘えたような口調になった。哲司は、優しく笑ってベッドに座り、伊依の腰を摩った。   「体きつくねぇの」 「平気だ」 「ゴムする? お腹痛くない?」 「いい。お前を感じたい」    うつ伏せになった伊依の上に、哲司が馬乗りになる。挿れるぜと一言告げられ、寝バックで犯された。  押し込まれる快楽に、体が仰け反った。弓なりにぴんと張り詰めたのち、深くベッドに沈み込む。切なさに腰が動いた。こんなにも満たされているのに欲しくなる。己の欲深さが露呈するようだった。そう思うとより切なくなって、体が震えた。  顔の脇に置かれた哲司の手が目に入る。赤い跡が残っていた。たった今ついたばかりの、生々しい傷だった。  それが歯型だと気づいた時、伊依は、前にペアグラスを割った時のことを思い出した。あの時、哲司は伊依の怪我ばかり気にしていたが、実際には、破片の始末をした哲司の方が、手を傷だらけにしていたのである。それに気づいたのは風呂に入った時で、お湯が沁みると思ったらあちこち切れていたというのだ。鈍感すぎて参っちまうなと言って笑った、この男が愛しかった。  伊依は哲司の手を握った。歯型のついた指先を口に入れた。傷跡を舌でなぞった。くすぐったいと笑いながら、哲司は体を密着させてくる。背中に彼の重みを感じる。汗ばんだ肌がぴったり張り付く。彼の温もりと鼓動に包まれる。   「……おれは、愛されていたんだな」    ふと呟くと、キスされた。顎をすくわれ、後ろを向かされて、キスされた。深く舌が入ってくる。苦しいのが気持ちよかった。  唇が離れる。視線が絡む。哲司は、どこか泣き出しそうな顔をしていた。やっと気づいたかよ、と呟くように言った。  仰向けに体を返されて、正常位で抱かれた。きつく抱きしめられて、体を密着させたまま、最奥を押し込むように捏ねられた。衝撃を逃がそうとして腰が跳ねるのを、哲司の体重で押さえ込まれる。その反動で、また腰が浮く。奥が擦れて快感を呼んだ。  こんがりと焼けた哲司の首筋に、伊依は顔を埋める。汗のにおいがした。ここにも歯型がついていた。  背中に手を回す。ここには爪の跡があった。快感で訳が分からなくなった時、何かに縋り付きたくて必死で、手当たり次第に引っ掻いた。そうしてできた傷だった。  いつも伊依を安心させてくれる、逞しい腕にも。歯型と爪跡が残っていた。肘から先には歯型が、日焼け跡がくっきりと残る二の腕には爪跡が残っていた。沖縄の強い日差しに焼かれた肌ばかり目にしていたから、元の肌はこんな色だったなと、しみじみ思った。  この男はいつもそうだ。いとも容易く、伊依の代わりに傷を負う。伊依が行為中の声を気にして唇を噛む癖があるのを知っているから、そうなる前に自らの指を噛ませて安心させる。そうして傷を背負うことを、まるで苦にも思っていない。当たり前の顔をしてそうするのだ。  愛されていた。ずっと、愛されていた。痛いくらいに愛されていた。実感するほど胸が痛い。   「あいしてる」    伊依が言うと、またキスされた。俺が言いたかったのに、と哲司は笑った。好きだよと囁かれて、もう一度キスされた。   「あい、してる」 「うん」 「なぁ、おれだって」 「分かってる。お前が好きだよ」    いくら言葉を紡いでも、足りない気がする。伝えたいことの半分も伝えられないように思う。  ああ、だから人は、愛する人と体を繋げるのだ。寸分の隙間もなく体を重ねて、体の中心の一番柔らかいところで繋がって、そうしていると、想いまで伝わる気がするから。  哲司の想いが、胸に流れ込んでくる。温かくて、気持ちがいい。セックスをして気持ちがいいと感じるのは、きっと、だからだ。  互いに一度ずつ果てた。少しの休憩を挟んだのち、哲司が再び求めてくる。快感が纏わり付いて重くなった腰を抱かれて、伊依は身を捩った。   「……まだ、するのか」 「うん。したい」    だめ?と甘えた声で求められる。伊依は自ら腰を浮かせた。半ばほど勃ち上がった哲司のそれに、尻の谷間を擦り付ける。まだ足りないのは伊依も同じだった。  バックで挿れられた。中はすっかり哲司の形を覚えてしまった。奥まで入って、僅かな凹凸まで埋められる。一番太いところも、括れた部分も、伊依の腹にぴったりと収まっている。  欠けた部分を埋められる。これが己のあるべき姿、正解の形なのだと感じる。この男と一つになるために生まれてきたのだと、純粋に信じられた。  中を掻き回されると、奥に放たれた精液が押し出されて溢れた。太腿を伝うそれを惜しいと思い、伊依は尻のあわいに手をやった。精液を指先に絡めて、体内へ押し戻そうとした。  自然と結合部に触れた。目一杯口を開いて哲司のそれを咥え込んでいる、己の体。そんな狭い穴を目一杯押し広げて根元まで埋まっている、哲司のそれ。そのちょうど結び目の部分に触れた。二人を隔てる、唯一の境界線だ。確かめるように指先でなぞると、思い切り腰を打ち付けられた。  腰を掴む哲司の手が、乱暴なくらい力強い。跡が残りそうなくらい、強く掴まれている。指先が肉に食い込む。脳天を突き抜ける衝撃に、伊依は狂ったように喘いだ。    体勢を変えて、対面座位で繋がった。伊依はもう腰が立たず、膝も震えていたから、哲司に支えられながら彼の上にまたがり、ゆっくりと腰を落とした。己の重みで深いところまで突き刺さる。制御できない快感に悶えた。  哲司にしがみつきながら腰を浮かし、彼に支えられながら腰をくねらせた。欲しいところにうまく当てられず泣きそうになっていると、哲司が下から突き上げてくれた。  下から突き上げられながら、腰を掴まれ体を上下に揺さぶられる。凄まじい快感が幾重にも連なり、脳天から爪の先にまで広がっていく。  自分がいつイッているのか分からなくなった。伊依が腰を打ち付けて、哲司が最奥を貫いた時、二人の体の間で揺れていたペニスから、何かが噴き出した。薄まった精液なのか、潮なのか、よく分からなかった。勢いよく飛び散って、伊依の胸を濡らした。  哲司の首筋に歯を立て、肩に爪を立ててしがみついていた。しかし、過ぎた快楽に姿勢を保つこともできなくなった。ふっと力が抜けて、伊依は仰向けに倒れ込んだ。腹を満たしていたペニスがすっぽ抜けた。その感覚にさえ、浅ましい体が震えた。  哲司は再び伊依に覆い被さってくる。股関節がバカになって閉じなくなった足を掴まれて、そそり立つペニスをねじ込まれた。挿れられただけで、精が漏れた。だめ、だめ、と伊依は涙を散らした。   「いま、いっ、いって、だめっ」 「もうちょっとだけ……おねがい」    その声も表情も、切実そのものだった。こちらを見つめる視線が熱い。身を焦がされる思いがして、伊依は哲司に抱きついた。   「ごめん、ちょっと強引だったな」 「いい、もっと……」 「いいの」 「もっと、ぜんぶ……奥まできて」    目一杯足を開く。哲司の腰に足を絡ませ、抱き寄せる。腰を押し付けて、擦り付けるように揺らめかせる。   「おれのぜんぶをお前にやるから……お前のぜんぶをおれにくれ」    だから、愛して。壊れるまで愛してくれ。その後はもう、何もいらない。  言葉は全て、快楽を告げる音になる。肌の表面も、体の内側も、互いの体液が混じり合っている。ぐちゃぐちゃに溶け合って、二人を結び付けている。まるで接着剤のように、決して離れないように。   「あっ、や、あい、あいして」 「ん、好きだよ」 「おれ、も、おれ、おまえが」 「わかってる。全部わかってるから」    波のように押し寄せた快楽に溺れる。意識が遠のきそうになる。それでも、まだ哲司を感じていたくて、伊依は必死に息を継いだ。   「だめ、も、きもち、だめっ」 「イきそう? ナカうねってる」 「やっ、う、まだ、や」    口が寂しいと訴え、キスをねだる形で唇を差し出すと、ほとんど食われるような勢いで唇を吸われた。舌をねじ込まれ、口腔内を満たされる。彼の唾液と吐息を吸って一生を終えられたらいいのにと思う。   「やっ、い、もうい、いく」 「いいよ、いっぱいイきな」 「や、ああだめ、いく、いっっ────」    快感から逃れたくて、哲司の背中を引っ掻いた。しかし、突き上げるものから逃れられない。耐えれば耐えただけ、快感は大きくなった。伊依は全身を痙攣させた。  絶頂の余韻も冷めやらぬうちに、最奥を捏ねられた。力の入らない腕で、伊依は哲司にしがみつく。動かせない腰が勝手に跳ねる。   「あっ、あ゛、いまいっ、いった、いったのにっ」 「ごめ、俺もイかせて」 「やっ、んう゛、またいく、いっ、いっちゃ、ああ゛っ」 「一緒にイッて。ナカ出させて」    切羽詰まった声で言う。こちらを見つめる哲司の眼差しは、熱いだけじゃない。抑え切れない獣じみた激しさが見え隠れしている。この腹を空かせた獣に、今から食われてしまうのだと思うと、ぞくぞくしたものが駆け上がった。例えようもなく昂った。  腹の中が微痙攣を繰り返す。哲司の形をはっきりと感じる。敏感になり過ぎた体を、容赦なく責め立てられる。ペニスを押し込まれる度、電撃が走ったように体が震える。脳天を突き抜ける快感に、全てを支配されていた。   「はあ゛っ、あ゛っも、だめっ、だめぇっ」 「ん、俺もでそ」 「い゛っっ、あ゛あだめっ、くるっ、くるう゛っ、なんかくっ、きちゃ、いう゛っ、い゛っ────ん゛ぅう゛っっ────ッッ♡♡♡」    もういよいよ限界だった。容量を超える快感に、意識が遠のいた。腹の奥に熱いものが迸るのを感じ、それが体の隅々にまで行き渡るのを感じた。  重すぎる快感は死に近い。真っ暗な穴の中に落ちていくような。深い海の底に沈んでいくような。胸が苦しくて、息ができない。脈打つような頭痛と耳鳴りが頭に響いて、くらくらする。指先まで痺れて、己の在処を見失う。それなのに、視界は妙に明るい。  体の内側も外側も、全てが過不足なく満たされていた。彼のにおいに包まれている。彼の重みを肌で感じる。彼の鼓動が己のそれに重なって響く。彼の熱が全身を満たしている。  輪郭が溶けて、二人を隔てる境界が消える。体温も鼓動も、何もかもが一つに溶ける。  それが、今この瞬間、伊依に感じられる全てだった。何もかもが曖昧な世界で、哲司の熱だけが確かだった。  視界が真っ白に爆ぜる。目の奥で、白い光がチカチカと弾けている。  ゆっくりと意識が浮上した。やけにうるさく響くのは、鼓動が高鳴っているからだ。指先までじんと痺れて汗ばんでいる。呼吸が早まり、胸が喘ぐ。まだ頭がぼんやりしている。  ちくりと甘い痛みが走った。哲司が胸元に顔を埋めていた。鎖骨を噛まれ、首筋を吸われて、小さな痕を残された。  伊依は、動かない体を捩じらせる。哲司の唇が頬を滑る。額と、それから左の瞼に、そっと口づけを落とされた。  この光は、伊依だけのものだ。灰が舞うように、雪が積もるように、視界を遮る白い影は、この光は、伊依だけのものだ。誰にも譲ることはできない。誰にも肩代わりはできない。今も昔も、未来においても、伊依だけのものだ。   「哲司……」    呼べば唇を塞がれた。深く舌が入ってくる。伊依は四肢を絡めてしがみついた。   「っ、も……」 「まだする?」 「して……」    四肢を絡ませ、抱きしめられた。決して解けないように、ずっとそうしていた。夜が明けるまで、そうしていた。  窓の向こうでは、嵐が続いている。大雨と強風が、渦を巻いて唸っている。今夜いっぱいは嵐になる。そして、日の出と共に終わりが来る。  いずれにしても、今夜で終わり。明日晴れたら。船が出たら。もう何もかもおしまいだ。  終わりの見えているセックスがこんなにも気持ちいいものだなんて、初めて知った。凄まじい快感に何度か死にかけ、そして何度も、今この瞬間に死にたいと思った。日の出と共に死ねたらいいのにと何度も願った。朝なんて永遠に来なければいいのにと。  ラジオで流れた『アメリカン・パイ』が、頭の中で鳴っている。音楽の死んだ日。ウイスキーとライで酔っ払って、今日が俺の死ぬ日になる。さようなら、さようならと歌っている。ギターの音色が胸に響いた。

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