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終幕

 台風一過とはまさにこのことだ。雲一つない、抜けるような青天が広がっていた。波はまだ少し高いが、波照間島行きの船は予定通り出港するようだった。  貨客船で二時間の航海になる。外洋へ出るため、船はかなり揺れるらしい。本人は認めようとしないが、三半規管の弱い伊依にはしっかりと酔い止めを飲ませた。  西表島や竹富島へ渡った時に乗った高速船と比べると、かなり大きな船だった。しかし、二時間の航海をするには少し心許ないようにも感じた。  タラップを上がり、船首側に雑魚寝スペースがあり、シート席がずらりと並んでいた。船尾側にはソファ席があって、デッキにもベンチがあった。  十五年前、小笠原まで旅をした時のことを思い出した。父島母島間を結ぶ船と、雰囲気は少し似ていた。波照間島は、石垣島から南へ六十キロのところにあるので、距離感もあの時と少し似ていた。  シート席の後方に座った。座席は半分ほど埋まっていた。座席のテーブルを下ろして、フェリーターミナルで買った朝食を広げた。  沖縄に来て何度食べたか分からないポーク玉子おにぎりと、サーターアンダギー。それから、石垣島名物のマリヤシェイクを買った。これも、こちらへ来て何度か飲んでいる。哲司は黒糖味が気に入って、今回もそれにした。伊依は、甘いものの気分ではないと言って、さんぴん茶を買っていた。こちらも、沖縄で何度飲んだか分からない。どこへ行っても売っていた。  まもなく出港ですとアナウンスが入る。伊依は席を立った。   「どこ行くの」 「便所」 「お手洗いって言えよな~」    トイレは客室を出てすぐのところにある。伊依が扉を閉めたところまで見送って、哲司は席に座り直した。  客室の前方には、大きな液晶画面がある。テレビの電波はいずれ届かなくなるだろうから、何か録画した映像を流しているのだろう。紅型の着物を着て髪を結った女性歌手が、三線を弾きながら朗々と歌う。訛りが強かったが、歌詞が表示されたので意味は分かった。  私の想いを汲んでください、あなたの情けが頼りですと、一途な恋心を歌ったものらしかった。三線の音色が物哀しく響いた。  出港を知らせる汽笛が鳴る。船はゆっくりと岸壁を離れる。窓の向こうに見える海が、太陽を浴びて眩しく光る。  伊依がなかなか戻ってこない。まさか、この一瞬で船酔いしたわけではないだろうな。哲司はトイレを確認した。個室は全て空いていた。  何か見落としただろうかと、前方の雑魚寝スペースを確認した。横になっている人が数名いた。伊依の姿はなかった。  デッキへ出た。ベンチにもテラス席にも、人の姿はなかった。ただ波の音が響いていた。白波が立っていた。  甲板を一周して、哲司はもう一度客室に戻った。シート席の後方に、荷物はそのまま置いてある。おにぎりもさんぴん茶も、そのまま同じ位置にある。  哲司は客室を飛び出した。トイレはやはり空室で、デッキは無人だった。甲板の手すりから身を乗り出して、たった今離れた港を探した。もうずいぶん距離ができていた。伊依の姿はどこにもなかった。  目を皿のようにして探した。荒波の立つ海にも、後方へ置いてきた港にも、どこにも伊依の姿はなかった。  哲司は座席に戻った。荷物はそのまま置いてある。ボストンバッグのファスナーが、ほんの少しだけ開いていた。  カバンを開けると、手紙が入っていた。石垣の海が描かれた封筒に、ホテルのロゴの入った便箋が入れられていた。長い間世話になったという書き出しで始まる長い手紙に綴られていたのは、確かに伊依の文字だった。      長い間世話になった。こんなにも長い間、お前の厄介になるつもりはなかった。元々、お前を巻き込むつもりではなかった。お前を巻き込んでしまったことを、悔やんだこともあった。それでも、この十五年間、おれは確かに幸せだった。  おれがこれからすることは、せめてものお前への償いだ。おれの個人的な復讐に巻き込んで、お前の人生を半分も奪ってしまった。もしも、おれに対してまだ情が残っているのなら、おれの選択を理解してほしい。  あれはおれの殺人だった。おれが一人で背負うべき罪だった。だから、十五年も過ぎてしまったが、そうさせてほしい。お前の背負うべきものは何もない。あれは、おれが一人で犯した罪だ。  あの男への償いのためにするのではない。お前を生かすためにすることだ。そして、お前がもしも待っていてくれるのなら、何年かかるか分からないが、その時こそ、おれはもう一度人生を始めてみようと思う。  警察に何を聞かれても、お前は何も知らなかったと答えてほしい。おれの身の上を聞いて哀れに思って、そばにいてやっただけだと答えてほしい。おれが何か隠していることには気づいていたが、事件に関わっていたとは夢にも思わなかったと答えてほしい。  最善の幕引きについて、ずっと考えていた。そして出した答えだ。おれが出頭して罪を認めるのが、全てを丸く収める唯一の方法だと思う。おれにはあの男を殺す道理があった。少しでも罪を軽くするなら、こうするのが一番だと思う。どうか聞き入れてほしい。  一日でも早く出所して、お前に会いたい。一日でも長く、お前と生きたい。おれは、おれを生かすために、警察に行く。むやみに人生が続いていくことが、もう怖くはない。  お前を愛している。お前に愛されていたことも知っている。だから今日まで生きてこられた。だからこれからも生きていける。  最後に、この手紙は燃やしてほしい。証拠を残さないように、全て灰にしてほしい。おれがいつでもお前を想っているということだけ、忘れないでいてほしい。      文字が滲んで読めなかった。哲司は手紙を握りしめる。くしゃくしゃと細かい皺が寄った。  ずっと、考えていた。この旅に終わりがあるとするならば、それは死以外にないのではないかと。まるで十五年前の再演だ。しかし、それ以外の終わらせ方を、哲司は思いつくことができなかった。  もちろん、伊依を死なせるつもりはなかった。自分が死ぬつもりもなかった。それでも、死以外にこの旅を終わらせる方法がないのだとしたら、どうすればよかったのだろう。  少年だったあの頃とは違い、今は多くの選択肢がある。貯金だってそれなりにあるし、働こうと思えばどこででも働ける。捜査が進む前にパスポートを取って海外へ逃げるという手もある。その気があれば、いくらでも二人で生き延びられる。  しかし、それは平穏とは程遠い。終わりのない逃避行だ。常に何かに怯え、隠れて、息を潜めて逃げ続けなければならない。そんな生活が、きっと死ぬまで続くのだ。  終わりのない旅は、放浪と同じだ。行く当てもなく、帰る先もない旅は、消耗しか生まない。今回の旅で身に沁みた。帰れる我が家があるというのが、どれほどの幸福だったか。  あの男のために罪を償うくらいなら死ぬ。伊依はかつてそう言った。その気持ちは、今も変わらずにあるはずだ。あいつは、平気な顔をして死に向かう。  自分が全ての罪を被れば全てうまくいくのだろうかと、考えたこともある。選択肢としては常に持っていた。しかし、伊依を一人にしても大丈夫だという確信が持てなかった。そばを離れることができなかった。それだけ、死はいつもあいつの近くにあった。    伊依を死なせるつもりはなかった。しかし、この旅の行く先が死しかないのだとしたら、伊依を幸せにしてやる道を他に見つけられないのだとしたら、心中する覚悟はあった。それが、哲司にできる最後の愛だった。  だが、伊依はとうに、生きることを選んでいた。生きるために、罪を償うと決めていた。十年後、二十年後も、二人で生きていられるように、全ての罪を一人で背負う覚悟をしていた。  伊依のことなら何でも分かると思っていた。何しろ十五年も一緒にいた。人生のおよそ半分を共に過ごした。分からないことなど何もないと言えるほどには、多くの時間を共に過ごした。  この十五年で、伊依の中の何かを変えることができたのだろうか。この世には生きるに値するものがあると、伊依に思わせてくれる何かを、哲司は見つけることができたのだろうか。  握りしめた便箋の皺を伸ばし、折り目に沿って畳み直して、封筒に戻した。デッキに出ると、熱い風が頬を撫でた。石垣の港は遥か後方に、影さえ見えなくなっていた。  それでも、伊依がそこに生きているのなら、この程度の荒波は、何の障壁にもなりはしない。南国の日差しに灼かれた碧い海が、どこまでもどこまでも広がっていた。      *      黒髪を潮風に靡かせて、伊依が空に落ちていく。哲司は、力いっぱい地面を蹴った。伊依を追って空を飛び、崖下へと落ちていく。  海の底に深く沈んだ。胸が潰れて、吐く息もない。血管が破裂しそうなほど、こめかみが熱く脈打っている。銅鑼を鳴らしたような耳鳴りが響いて、猛烈な眩暈に襲われる。全身を切り裂く感覚に指先までが痺れて、己の在処を見失う。  吐いた息が、白く泡立って足元へと昇っていった。見上げれば、それは青一色の世界だった。水面へと真っ直ぐに差し込んだ日差しが、波間を縫って揺らめいて、レース模様を編んでいた。透き通った青い海に、無数の細かな光の粒が、重なっては弾けていた。海の底から見上げた世界は、この世のものとは思えないほど、青くて、透明で、美しかった。  光の差す方へ夢中で泳いだ。腕の中には、伊依をしっかりと抱いていた。水面に顔を出して息を吸った。見渡す限り、青が澄んでいた。  岸へ向かって必死で泳いだ。名前も知らない小さな入り江に打ち上げられた。哲司は息をしていた。伊依も、息をしていた。  濡れた体は温かかった。息をする度上下に動いた。脈打つ鼓動が伝わってきた。きつく抱きしめると、伊依の熱が哲司の体に溶け込んだ。  濡れた体がぴったりと張り付く。二人を隔てる輪郭線まで溶けていく。何もかもが曖昧へと溶け出していく。胸に抱いた伊依の熱だけが確かだった。  は、はは、と息を切らしながら伊依が声を漏らした。笑っているようにも見えたが、頬はびっしょり濡れていた。「やっぱり、まだ、死にたくない」と呟いた。   「お前のせいだ……」 「……責任、取るよ」 「……なんで……」 「だから、一緒に生きてくれ」 「……」    伊依は笑った。美しく、迷いのない笑顔だった。睫毛を濡らして、水滴が一筋零れ落ちた。夏の日差しに煌めいた雫が美しかった。  ああ、この世には確かに生きる価値がある。伊依がそこにいるからだ。

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