24 / 34
第24話 さよなら
荷物は持っていけない。雪翔に気づかれる可能性がある。持っていけるのはスマートフォンくらいだった。だから、雪翔は家出の準備をしないまま、夜を待った。
「さ、寝ましょうか」
雪翔がベッドに入って、隣を空けてくれる。伊織はそこに入って、雪翔に寄り添った。
──これで、もう、最後……。
「ゆきと、くん」
「ん、どうしました?」
「ぎゅーって……してくれる……?」
「そんなの、お易い御用ですよ」
雪翔はぎゅう、と伊織を抱き締めてくれる。ああ、この温もりを失いたくない。ずっとここにいたい。雪翔の、隣に。
「雪翔くん……」
好きだ、好きだ、好きだ。どうしようもなく、雪翔を愛していた。
「僕のこと、離さないで……」
最後にこぼれた、わがままな本音。逃げられないほどに、伊織を抱き締めてほしかった。
「離しませんよ。俺はずっと、伊織さんの傍にいますから」
ちゅ、と額に口づけが落ちる。これが最後、なら。
「口が、いい……」
「……なんか今日の伊織さん、すげーデレデレ。可愛い……」
唇を奪われる。優しい体温。ああ、これが最後のキスなのだ。もう二度と、伊織は雪翔の目の前に現れてはいけなかった。
「……ありがとう、おやすみ……」
「はい、おやすみなさい」
雪翔は幸せそうに目を閉じる。その笑顔を焼き付けて、伊織はひと筋涙を零した。
「すう……すう……」
雪翔が眠ったのを確認してからベッドを出る。パジャマから私服に着替えて、今まで雪翔からもらった金をリビングに置いた。
『僕は君に相応しくありません。今までありがとう。幸せでした。お金は返します。伊織』
置き手紙を残して、音を立てないように家を出る。
「っ…………」
行くあてなどなかった。夜の街を、伊織は独りで歩き続ける。
それはやがて、早歩きになって、いつの間にか走り出していた。
「っ、ぁ、あぁっ……! ひっ、ぅ、うぁあっ……!」
涙が止まらない、帰りたい、帰りたい! 今すぐ雪翔のところに戻って、愛おしさの中で眠りたかった。
けれど、伊織では駄目だった。雪翔の隣で笑って生きていいのは、こんななんの取り柄もない男ではいけない。
全部、全部幸せな夢だった。でも、伊織は大人だから、夢から覚めなければいけない。
「っ、ふっ、うっ……」
ただひたすら、走り続ける。幸せの形をした居場所を去って、伊織はひとりぼっちになった。
走っていると、どん、と誰かにぶつかった。
「おい、危ねえな!」
「…………すみません……」
相手は酔っぱらいのようだった。伊織をじろじろと見たあと、にやりと笑う。
「……へえ、アンタ随分美人じゃねえか。どうだ? 駅前のホテル一緒に入ったらぶつかったの許してやるよ」
男はにやにやと笑って、伊織の肩を抱いた。
──もう、帰れない、なら。どうなっても、いいよね。
「……いいですよ、僕、泊まるところ探してたんです」
伊織は男を誘惑するように身体にしなだれかかる。
「へへ、こいつは上玉捕まえたな……」
男は遠慮なく伊織の尻をまさぐる。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
雪翔以外に触れられたくない。雪翔のところに帰りたい。でも、でも、でも。
──雪翔くん、これで僕のこと、嫌いになってくれるよね?
伊織は幸せになる資格を失って、死んだ目で男に微笑んだ。
ともだちにシェアしよう!

