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第四話 素人の食卓
その日の俺は、定時で上がれた。ラッシュの中央線に乗るなんて久しぶりで、少しばかり嬉しい。
東小金井のはずれ、家賃の安さだけが取り柄の1DK。自転車で職場へ行ける立地を気に入って借りたが、霞が関まで通勤するはめになってしまった。
スーツの上着を放り、コンビニ袋を食卓代わりのローテーブルに置く。中身は唐揚げ弁当とおにぎり二個、それから黄色いエナジードリンク。独身刑事の晩飯なんて、八年こんなものだ。
箸を割る前に、昼間のことが頭をよぎった。
三条 いわく、護符の出品者である『マナの呪術講座』と武蔵野市がきな臭いらしい。まっさきに浮かんだのが去年、武蔵野署へ異動した同期だ。
昼休みに電話をかけ、俺がちょっと説明しにくいところへ異動したことを報告した。「令和だよな?」と驚かれたのは無視。フリマアプリで『マナ』ってアカウントの女があやしいものを売りつけている、それを仕事で調査している、武蔵野署でなにか被害届だったり相談が来ていないかと伝えた。まだ返事は来ない。
弁当の蓋に手をかけたところで、インターホンが鳴った。
この時間に誰かが訪ねてくる心当たりはない。宅配の予定もない。出るのを少し迷って、覗き穴に目を当てる。
黒いスーツに、夜だってのにサングラス、うさんくさい薄い笑み。
「……お前、なんでここにいんの」
ドアを開けるなり、俺は言った。三条は玄関先に背筋を伸ばして立っている。片手に小ぶりの風呂敷包みを提げていた。
「こんばんは、桃山 刑事」
「あ、ちっす——じゃなくて!」
「あなたも素人であることを、失念しておりました」
三条はやけに神妙な顔で、そう切り出した。
「は?」
「あの護符の一件です。妙なものをほかにも買い込んでいないか、確認に参りました」
言われて、すぐには言葉が出てこなかった。
たしかに俺は釘を刺されたそばから、縁切り護符をポチった前科がある。三条からすれば、こいつはまたなにか変なものを引き当てているかもしれない、と疑うのが筋なんだろう。
見える血筋のくせに、呪術に関してはずぶの素人。その自覚もなくホイホイ買う男。
……否定はできない。
「だいたい、なんで俺んちの住所知ってんだよ」
「出向の書類に、記載がありましたので」
「気軽に部下の住所覚えんなよ」
「あなたは部下ではなく、相棒です」
うまいことかわされた。のれんに腕押しだ。久世 さんから聞いたが、三条の肩書は『特別顧問』らしい。顧問かなんだか知らないが、俺は出向しようと中身は刑事のままだ。役所のご大層な肩書には、興味がわかない。
突っ立っていても始まらないし、確認だけなら早く済ませたい。俺は渋々ドアを大きく開けた。三条は靴を揃えて上がり込むと、ぐるりと部屋を見回す。サングラスの奥の視線が、壁、天井、隅の段ボールへと、丁寧に這っていくのがわかった。
「護符の類は、ないようですね」
「だから言っただろ。買ったのはあれだけだって」
「念のためです。あなたの場合、念には念を入れても足りない」
失礼な男だ。事実なので言い返せない。
ひととおり検分を終えて、三条はほっと肩の力を抜く。それから、台所のほうへ視線を移した。
移した、と思ったら、もう冷蔵庫の前にいる。
「桃山刑事。ちょっと失礼します」
「おい、勝手に開けるなっつの!」
止める間もなく、三条は冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫内は、見事になにもない。ビールの缶が数本と、いつ買ったか忘れたマヨネーズ。野菜室には芽の出かけた玉ねぎが一個、ころんと転がっているきりだ。
三条が冷蔵庫の扉を持ったまま、固まった。
護符を見つけたときより、よっぽど深刻な顔をしている。
「……これは」
「言っとくけど、呪われてねえからな、その玉ねぎ」
「呪いの話はしておりません」
三条は冷蔵庫をそっと閉じ、今度はローテーブルのコンビニ袋に目を留めた。唐揚げ弁当、おにぎり、エナジードリンク。証拠品でもあらためるみたいに、ひとつずつ手に取って並べていく。
「これが、夕飯ですか」
「悪いかよ。手っ取り早いんだ」
「朝は」
「コーヒーとあんぱん」
「昼は」
「職員食堂のかけそば」
三条は、しばらく黙った。
怒っているふうでも、呆れているふうでもない。明らかに俺を憐れんでいる。
「桃山刑事。あなたは、自分の身体を、なんだと思っているんですか」
「なんだって、俺の身体だろ」
「こんな生活を続けていたら、いつか必ず倒れますよ」
えらい剣幕だった。サングラスごしでもわかるくらい、本気で案じている。出会って数日の相棒に、ここまで凄むもんなのか。
俺は自慢じゃないが、健康優良児として関東でも代表になれると思う。健康診断で引っかかったこともない。たいていのことは気合と根性で片がつく。なのに三条のこの真顔の前では、なぜだか言い返しづらい。
「三条さん。お前、母ちゃんかよ」
「いいえ、私はあなたの母君ではありません」
言わずもがな、俺だってお前のこと母親だとは思ってないよ。押し問答の状態だった。
三条は提げてきた風呂敷包みを、ローテーブルの上でほどく。中から出てきたのは、ねぎ、卵、出汁の小袋、ちんまりした調味料の瓶、それに小さな米の袋。はじめからこうなると見越していたみたいな品揃えだ。
「ちょっと、お借りしますね」
言うが早いか、三条は俺の狭い台所に立った。
台所の隅の炊飯器を見つけて、三条が軽くたずねる。
「これは、使えますか」
「……たぶん」
一人暮らしを始めたとき勢いで買ったきり、米を炊いた記憶はほとんどない。すっかり置物と化して、上にはコンビニの割り箸の袋がうずたかく積もっていた。
動くか怪しいもんだが、三条は布巾でさっと埃を払い、当然のように米を研ぎはじめる。久しく忘れられていた炊飯器が、本来の仕事を思い出したみたいに、ことこと湯気を立てはじめた。
結論から言う。
異常に、うまかった。
あり合わせの玉ねぎと卵で、三条はあっという間に親子丼みたいなものを作ってしまった。出汁の利いた汁が飯に染みて、半熟の卵がとろりとからむ。コンビニ弁当とは、住んでいる世界が違う。
「うまい」
「お口に合いましたか」
三条は満足そうに目を細めて、自分のぶんを勢いよくかき込み始めた。俺の家には丼がひとつしかないってんで、フライパンで。
……入るなあ。
俺の倍はあろうかという大盛りを、三条は涼しい顔で平らげていく。あんなにすらりとした身体のどこに入るのか。おかわりまでして、なお余裕がある。さっき俺の飯に説教を垂れていた男が、いざ食卓につくと、見ていて気持ちのいいほどの食いっぷりを見せる。
「お前、よく食うな」
「ええ。食べないと、調子が出ないもので」
「でかいと、燃費悪いからか」
「燃費の問題ではないですね」
俺は箸を止めて、向かいで黙々とフライパンを空けていく三条を眺めた。確認に来たはずの男が、いつのまにか俺の台所で飯を五合も炊き、ほぼひとりで平らげている。報告書には書けない光景だ。
なのに不思議と、嫌な感じはしなかった。
据わりの悪い、それでいて、悪くない。
「ごちそうさん」と俺は手を合わせる。三条はうれしそうに「おそまつさまでした」と返した。
「あのな、三条」
「はい」
「明日からは、ちゃんと飯くらい食う。だから、わざわざ確認に来なくていい」
言ってから、しまった、と思った。なんだか来てほしいみたいな言い方だった。
三条はほんの少しだけ、嬉しそうにした。気のせいかもしれない。
インスタントのコーヒーを淹れてもらっている間、スーツの内ポケットでスマホが震えた。
画面に出ていたのは、昼間に連絡を取った同期の名前だった。折り返しにしては、ずいぶん遅い。いやな予感がする。
「もしもし……おう、こんな時間にどうした」
電話の向こうの声は、低く焦っているふうだった。
「昼間お前が言ってた、『マナ』な。割れたぞ。篠田マナってんだ、吉祥寺在住の成人女性」
その名前が出て、俺は背筋を伸ばす。
同期いわく照会をかけたら、ちょうど今日、その篠田マナの母親から署に相談が入っていたという。地方に住む母親が、娘と連絡が取れない、と。最近は疎遠で、虫の知らせみたいなものだと母親は笑っていたらしい。だが、いつもの折り返しがもう何日もない。
事件性があるわけでもなし、失踪届を出すような段階でもない。署が正式に動く話じゃない。ただ、昼間にお前が同じ名前を出してきたのが、どうにも引っかかったと。ひとまず母親から入手した写真を転送してくれた。
俺は礼を言って電話を切る。
気配もなく、三条がすぐそばに立っていた。マグカップを二つ持ったままでこちらを見ている。さっきまで飯をかき込んでいた呑気な顔は、すっかり消えていた。
「篠田マナさん、というんですね」
「ああ。本名と住所が割れた。吉祥寺だ……で、本人と連絡が取れないらしい」
三条はマグカップを静かにテーブルに置いた。
「護符を売っていた当人が、姿を消した。これはあまり良い兆候ではありません」
「良くないって、どういう」
「素人が本物にふれていた、と申し上げましたね。その素人本人が、消えた」
三条は湯呑みに目を落としたまま、しばらく口を開かなかった。声に、まだ軽さが戻っていない。
窓の外、東小金井の夜は静かだった。エナジードリンクの黄色い缶だけが、まだローテーブルの隅に転がっている。
「桃山刑事。明日、動きましょう。発信者を……マナさん本人を、追います」
「ああ」
俺は頷いた。
うまい飯の余韻は、もうどこかへ行ってしまっていた。
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