4 / 37

第四話 素人の食卓

 その日の俺は、定時で上がれた。ラッシュの中央線に乗るなんて久しぶりで、少しばかり嬉しい。  東小金井のはずれ、家賃の安さだけが取り柄の1DK。自転車で職場へ行ける立地を気に入って借りたが、霞が関まで通勤するはめになってしまった。  スーツの上着を放り、コンビニ袋を食卓代わりのローテーブルに置く。中身は唐揚げ弁当とおにぎり二個、それから黄色いエナジードリンク。独身刑事の晩飯なんて、八年こんなものだ。  箸を割る前に、昼間のことが頭をよぎった。  三条(さんじょう)いわく、護符の出品者である『マナの呪術講座』と武蔵野市がきな臭いらしい。まっさきに浮かんだのが去年、武蔵野署へ異動した同期だ。  昼休みに電話をかけ、俺がちょっと説明しにくいところへ異動したことを報告した。「令和だよな?」と驚かれたのは無視。フリマアプリで『マナ』ってアカウントの女があやしいものを売りつけている、それを仕事で調査している、武蔵野署でなにか被害届だったり相談が来ていないかと伝えた。まだ返事は来ない。  弁当の蓋に手をかけたところで、インターホンが鳴った。  この時間に誰かが訪ねてくる心当たりはない。宅配の予定もない。出るのを少し迷って、覗き穴に目を当てる。  黒いスーツに、夜だってのにサングラス、うさんくさい薄い笑み。 「……お前、なんでここにいんの」  ドアを開けるなり、俺は言った。三条は玄関先に背筋を伸ばして立っている。片手に小ぶりの風呂敷包みを提げていた。 「こんばんは、桃山(ももやま)刑事」 「あ、ちっす——じゃなくて!」 「あなたも素人であることを、失念しておりました」  三条はやけに神妙な顔で、そう切り出した。 「は?」 「あの護符の一件です。妙なものをほかにも買い込んでいないか、確認に参りました」  言われて、すぐには言葉が出てこなかった。  たしかに俺は釘を刺されたそばから、縁切り護符をポチった前科がある。三条からすれば、こいつはまたなにか変なものを引き当てているかもしれない、と疑うのが筋なんだろう。  見える血筋のくせに、呪術に関してはずぶの素人。その自覚もなくホイホイ買う男。  ……否定はできない。 「だいたい、なんで俺んちの住所知ってんだよ」 「出向の書類に、記載がありましたので」 「気軽に部下の住所覚えんなよ」 「あなたは部下ではなく、相棒です」  うまいことかわされた。のれんに腕押しだ。久世(くぜ)さんから聞いたが、三条の肩書は『特別顧問』らしい。顧問かなんだか知らないが、俺は出向しようと中身は刑事のままだ。役所のご大層な肩書には、興味がわかない。  突っ立っていても始まらないし、確認だけなら早く済ませたい。俺は渋々ドアを大きく開けた。三条は靴を揃えて上がり込むと、ぐるりと部屋を見回す。サングラスの奥の視線が、壁、天井、隅の段ボールへと、丁寧に這っていくのがわかった。 「護符の類は、ないようですね」 「だから言っただろ。買ったのはあれだけだって」 「念のためです。あなたの場合、念には念を入れても足りない」  失礼な男だ。事実なので言い返せない。  ひととおり検分を終えて、三条はほっと肩の力を抜く。それから、台所のほうへ視線を移した。  移した、と思ったら、もう冷蔵庫の前にいる。 「桃山刑事。ちょっと失礼します」 「おい、勝手に開けるなっつの!」  止める間もなく、三条は冷蔵庫を開けた。  冷蔵庫内は、見事になにもない。ビールの缶が数本と、いつ買ったか忘れたマヨネーズ。野菜室には芽の出かけた玉ねぎが一個、ころんと転がっているきりだ。  三条が冷蔵庫の扉を持ったまま、固まった。  護符を見つけたときより、よっぽど深刻な顔をしている。 「……これは」 「言っとくけど、呪われてねえからな、その玉ねぎ」 「呪いの話はしておりません」  三条は冷蔵庫をそっと閉じ、今度はローテーブルのコンビニ袋に目を留めた。唐揚げ弁当、おにぎり、エナジードリンク。証拠品でもあらためるみたいに、ひとつずつ手に取って並べていく。 「これが、夕飯ですか」 「悪いかよ。手っ取り早いんだ」 「朝は」 「コーヒーとあんぱん」 「昼は」 「職員食堂のかけそば」  三条は、しばらく黙った。  怒っているふうでも、呆れているふうでもない。明らかに俺を憐れんでいる。 「桃山刑事。あなたは、自分の身体を、なんだと思っているんですか」 「なんだって、俺の身体だろ」 「こんな生活を続けていたら、いつか必ず倒れますよ」  えらい剣幕だった。サングラスごしでもわかるくらい、本気で案じている。出会って数日の相棒に、ここまで凄むもんなのか。  俺は自慢じゃないが、健康優良児として関東でも代表になれると思う。健康診断で引っかかったこともない。たいていのことは気合と根性で片がつく。なのに三条のこの真顔の前では、なぜだか言い返しづらい。 「三条さん。お前、母ちゃんかよ」 「いいえ、私はあなたの母君ではありません」  言わずもがな、俺だってお前のこと母親だとは思ってないよ。押し問答の状態だった。  三条は提げてきた風呂敷包みを、ローテーブルの上でほどく。中から出てきたのは、ねぎ、卵、出汁の小袋、ちんまりした調味料の瓶、それに小さな米の袋。はじめからこうなると見越していたみたいな品揃えだ。 「ちょっと、お借りしますね」  言うが早いか、三条は俺の狭い台所に立った。  台所の隅の炊飯器を見つけて、三条が軽くたずねる。 「これは、使えますか」 「……たぶん」  一人暮らしを始めたとき勢いで買ったきり、米を炊いた記憶はほとんどない。すっかり置物と化して、上にはコンビニの割り箸の袋がうずたかく積もっていた。  動くか怪しいもんだが、三条は布巾でさっと埃を払い、当然のように米を研ぎはじめる。久しく忘れられていた炊飯器が、本来の仕事を思い出したみたいに、ことこと湯気を立てはじめた。  結論から言う。  異常に、うまかった。  あり合わせの玉ねぎと卵で、三条はあっという間に親子丼みたいなものを作ってしまった。出汁の利いた汁が飯に染みて、半熟の卵がとろりとからむ。コンビニ弁当とは、住んでいる世界が違う。 「うまい」 「お口に合いましたか」  三条は満足そうに目を細めて、自分のぶんを勢いよくかき込み始めた。俺の家には丼がひとつしかないってんで、フライパンで。  ……入るなあ。  俺の倍はあろうかという大盛りを、三条は涼しい顔で平らげていく。あんなにすらりとした身体のどこに入るのか。おかわりまでして、なお余裕がある。さっき俺の飯に説教を垂れていた男が、いざ食卓につくと、見ていて気持ちのいいほどの食いっぷりを見せる。 「お前、よく食うな」 「ええ。食べないと、調子が出ないもので」 「でかいと、燃費悪いからか」 「燃費の問題ではないですね」  俺は箸を止めて、向かいで黙々とフライパンを空けていく三条を眺めた。確認に来たはずの男が、いつのまにか俺の台所で飯を五合も炊き、ほぼひとりで平らげている。報告書には書けない光景だ。  なのに不思議と、嫌な感じはしなかった。  据わりの悪い、それでいて、悪くない。 「ごちそうさん」と俺は手を合わせる。三条はうれしそうに「おそまつさまでした」と返した。 「あのな、三条」 「はい」 「明日からは、ちゃんと飯くらい食う。だから、わざわざ確認に来なくていい」  言ってから、しまった、と思った。なんだか来てほしいみたいな言い方だった。  三条はほんの少しだけ、嬉しそうにした。気のせいかもしれない。  インスタントのコーヒーを淹れてもらっている間、スーツの内ポケットでスマホが震えた。  画面に出ていたのは、昼間に連絡を取った同期の名前だった。折り返しにしては、ずいぶん遅い。いやな予感がする。 「もしもし……おう、こんな時間にどうした」  電話の向こうの声は、低く焦っているふうだった。 「昼間お前が言ってた、『マナ』な。割れたぞ。篠田マナってんだ、吉祥寺在住の成人女性」  その名前が出て、俺は背筋を伸ばす。  同期いわく照会をかけたら、ちょうど今日、その篠田マナの母親から署に相談が入っていたという。地方に住む母親が、娘と連絡が取れない、と。最近は疎遠で、虫の知らせみたいなものだと母親は笑っていたらしい。だが、いつもの折り返しがもう何日もない。  事件性があるわけでもなし、失踪届を出すような段階でもない。署が正式に動く話じゃない。ただ、昼間にお前が同じ名前を出してきたのが、どうにも引っかかったと。ひとまず母親から入手した写真を転送してくれた。  俺は礼を言って電話を切る。  気配もなく、三条がすぐそばに立っていた。マグカップを二つ持ったままでこちらを見ている。さっきまで飯をかき込んでいた呑気な顔は、すっかり消えていた。 「篠田マナさん、というんですね」 「ああ。本名と住所が割れた。吉祥寺だ……で、本人と連絡が取れないらしい」  三条はマグカップを静かにテーブルに置いた。 「護符を売っていた当人が、姿を消した。これはあまり良い兆候ではありません」 「良くないって、どういう」 「素人が本物にふれていた、と申し上げましたね。その素人本人が、消えた」  三条は湯呑みに目を落としたまま、しばらく口を開かなかった。声に、まだ軽さが戻っていない。  窓の外、東小金井の夜は静かだった。エナジードリンクの黄色い缶だけが、まだローテーブルの隅に転がっている。 「桃山刑事。明日、動きましょう。発信者を……マナさん本人を、追います」 「ああ」  俺は頷いた。  うまい飯の余韻は、もうどこかへ行ってしまっていた。

ともだちにシェアしよう!