5 / 37
第五話 特別な日
翌朝、地下の対策室に降りると、三条 はもう来ていた。
デスクに広げた地図の上を、骨ばった長い指がゆっくりと滑っている。机のスタンドの灯りが、サングラスのレンズと、すっと通った鼻筋を白く縁取っていた。引き結んだ口元から顎にかけての線が、人から生まれたとは思えないくらい整っている。正面から眺めると妙に据わりが悪いので、俺はこいつの顔をまじまじと見ないようにしている。
昨夜、俺の台所でフライパンに盛った五合の飯をほぼひとりで平らげた男と同じとは思えない、張り詰めた横顔だった。
「おはよう。早いな」
「おはようございます、桃山 刑事。昨夜は、よく眠れましたか」
「飯食ったら、よく寝たよ……お前のおかげとは、言わねえけどな」
三条はほんの少し笑って、すぐ地図に目を戻した。切り替えが早い。
「篠田マナさんの居所、つかめそうですか」
「そっちは俺の領分だ」
こういうときに動くのが、刑事の足だ。出向の身でも、警察の人間であることに変わりはない。ゆうべ電話をくれた武蔵野署の同期に頼んで、篠田マナの身辺をざっと洗ってもらった。
今年で二十七歳。吉祥寺のアパートで一人暮らしで、IT企業の事務職。半年ほど前から、地方の母親とは疎遠状態。勤め先を数日前から無断欠勤している。
生活の糸が、切れかけている人間の形だ。現場で何度も見てきた。
「行くぞ。吉祥寺だ」
「——お供します」
「猫はいねえの?」
三条はふっと口元をゆるませると、地図を畳んだ。
吉祥寺のアパートは、井の頭公園からほど近い、古い二階建てだった。
郵便受けには数日ぶんのチラシと封筒が溜まっている。インターホンを押しても、応答はない。
三条はためらいもなく、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。
「おい。令状もなしに、勝手に踏み込んでいいのかよ」
「問題ありません。こういう事案のための、私たちですから」
聞けば対策室には、霊異の絡む事案に限って、表の手続きを飛び越して動ける後ろ盾があるという。久世 さんが「これは対策室の領分」と認めさえすれば、令状も捜査本部も必要ないらしい。今朝のうちに、もうこの話は通してあるそうだ。
便利なもんだ。便利すぎて、薄ら寒い。
俺の胸ポケットには警察手帳があるし、職質も聞き込みもできる。だが令状を取って踏み込む後ろ盾は、出向した俺にはない。ずっと令状一枚に頭を下げてきた身だ。それを一足飛びにする身軽さは、どうにも尻が落ち着かなかった。
「……警察なら絶対やらねえぞ、こんなのは」
「ですから、特殊霊異対策室は表の組織ではないのです」
三条はこともなげに言って、ドアを開けた。違法捜査まがいの手順も辞さない組織だ。俺はあらためて自分がどこに配属されてしまったのか思い知る。
六畳ほどの部屋には人の気配はないが、香のにおいが充満していた。嗅いだことのない甘ったるい煙の名残だ。窓は閉め切られ、薄いカーテンの隙間から差す光に、埃と煙がうっすら漂って見える。壁には手書きの護符が何枚も貼られていた。机の上には、見覚えのある筆跡のノート。護符が入っていた封筒と同じ字だ。
梱包用の資材や緩衝材も、まだ隅に積んだままだ。つい先日まで、ここで護符を売りさばいていたのだろう。それが、ここ数日でぱたりと途絶えている。
その脇に「鬼灯講 」というタイトルの、つやのあるパンフレットが重ねてあった。ヨガと瞑想とスピリチュアルを謳う、合宿サークルの案内だ。入会金、月会費、合宿費。ご丁寧に、高額の振込明細まで挟まっている。
「典型的なやつだな」
俺は鼻を鳴らした。うさんくさい団体に、寂しい人間が一人、はまり込んでいく。手口としては、世間にいくらでも転がっている。
三条は黙って、壁の護符を見つめていた。サングラスごしの視線が、一枚一枚を、なぞるように追っていく。
「これは、市販の素人レベルではありませんね」
声の温度が、すっと下がった。
「マナさんは本物のなにかに、ふれています」
パンフレットの隅に、それらしき主宰者の名前があった。ただ一文字、『先生』とだけ刷られている。
「なにが『先生』だよ。要は、こいつが弱った女を食い物にしてる元締めってことだろ」
久しぶりに、刑事の血が騒ぐ。出向だなんだと言われても、性根はこっちだ。
「上等だ。引っ張って叩けば、洗いざらい吐かせられる」
言ってから、苦い唾を飲み込む。いまの俺に、その権限はない。
「……っつっても、今の俺にゃ、その権限もねえか」
「権限の話なら、まだ良かったのですが」
三条は、静かに首を振る。
「そもそも、相手が人間とは限りません」
その一言で、俺は黙るしかなかった。手錠も留置場も、生きた人間にしか効かない。実体のないものには、まったく届かないからな。笑って死んでいた、あの仏さんの前でも、同じことを思った。
俺が机のノートをめくっていると、その隅に、見覚えのあるものが転がっているのに気づいた。
小さくて赤い、乾いたほおずきの実だ。
季節外れの、たった一個。玉川上水の草むらに落ちていたのと、瓜二つだった。
「三条。これ——」
言いかけて、口をつぐむ。あの日と同じで、三条の横顔がすっと真顔になっていた。懐から和紙を取り出し、壊れ物でも扱うようにそっと包む。
「……拾っておきます」
なにか言いたげな空気だったが、俺はあえて訊かなかった。訊いても、はぐらかされる。それより、急いだほうがいい。
部屋を出て、近所を当たった。
コンビニ、クリーニング屋、公園の入口。俺は聞き込みでどさ回りは慣れているが、三条も根気よくついて来る。
写真を見せて回ると、ジョギング中の男が、井の頭公園のベンチにそれらしい女性がいると教えてくれた。
気持ちの良い、初夏の夕方だった。ベンチではベビーカー連れが休み、池ではスワンボートがのろのろ回っている。
俺と三条は早足で、池のほとりのベンチを見て回った。とうとう若い女がぽつんとひとりで座っている姿を見つける。
刑事のさがで、つい人相と服装を頭に書き留めてしまう。中肉中背、髪は顎のあたりで切りそろえたボブ。化粧っ気は、ほとんどない。着ているのは麻みたいなざっくりした生地の、ゆったりした服で、草木染めとでもいうのか、きなりと茶のくすんだ色合いだ。アジアンテイストの色物ストールを、ゆるく肩にかけている。
膝の上で両手を組んで水面をじっと見ている姿からして、同期から送られた写真と照らし合わせても篠田マナに間違いない。
どこにでもいる、大人しそうな女だ。あやしげな護符をばらまくタイプには思えない。悪意がないからこそ、こわいってやつか。
「俺が行く。お前は、離れてろ」
「……ええ」
三条が前に出ると、通行人が片端から見とれて騒ぎになる。こういう地味な聞き込みは、俺の領分だ。気さくな散歩者の顔をこしらえて、俺はベンチに近づいた。
「いい天気っすね。隣いいですか、人と待ち合わせしてて」
「……はい、どうぞ」
マナは、ふんわりと微笑んだ。受け答えはごく普通で、落ち着いている。知的な印象のある目元だが、焦点がどこか遠い。俺を見ているようで、俺の向こうのなにかを見ている。
「体調、大丈夫ですか。顔色、ちょっと疲れてるみたいだけど」
「平気です……大切な時期だから、ちょっと頑張っちゃって」
マナは骨の浮いた細い手を組んで、きゅっと力を込めた。
「今夜、特別な日なんです」
背筋が、ひやりとした。
「へえ、記念日とかっすか?」
「先生がね、私だけ、別に呼んでくださって」
マナはうっとりと、初恋を語る少女みたいな顔をして目を細める。
「ほんとに嬉しくて。先生が特別だっておっしゃるんです。ずっと、待っていたんです。今夜やっと本物の儀式に参加できる」
刑事を八年やってると、カルト宗教にのめり込んだ被害者とも対峙するが、こんなの危ないに決まってるじゃないか。カルトっていうか、なんだ、これ。
エクソシストとか呼んだほうがいい? あ、こっちには陰陽師がいるじゃねえか。ジャパニーズ・オカルティック・パワーが。
俺が次の言葉を探しているうちに、マナはふらりと立ち上がった。
「そろそろ、支度をしないと」と微笑んで、軽く会釈をする。
引き止める理屈が、とっさに出てこなかった。失踪届は出されていない、罪も犯していない。ただ特別な日を待っている不安定な女、それだけだ。
ストールの裾を風になびかせて、マナの後ろ姿が公園の木立の向こうへ消えていく。
離れて見ていた三条が、足早に近づいてきた。サングラスの下にある表情に、珍しく焦りが浮いている。
「桃山刑事。聞こえました。今夜、と」
「ああ。特別な日、本物の儀式、だとよ。穏やかじゃねえ」
「ことは、もう動き出しています」
三条は井の頭池の奥、こんもりと茂った木立の、その先へ目をやった。声が低く硬い。
「あの方は今夜、どこかへ連れていかれます。あの香のにおい、あの護符。そして、ここに落ちていたほおずき。点が、繋がりすぎている」
「連れていかれるって、どこへ」
「水のある場所です。気配が、そちらへ向かって流れている」
三条の視線の先で、池の中ほどの小さな島に、朱塗りの社が見えた。井の頭弁財天。古くから、この池の水を守ってきた、水の神を祀る社だ。
「井の頭公園は人も多い。おそらく人の気が絶える、真夜中に儀式は行われる」
「真夜中かよ……まだ、間があるな」
罪を犯したわけでもない女を、夕暮れの公園で縛れる道理はなかった。
「おい、時間まで張るぞ。連中が篠田さんを連れてくる前に、こっちが入っちまえばいい。儀式ってやつを妨害して、あの人は親御さんのとこへ返してやる」
「よろしいかと思います、ただし——」
三条が、ふいに俺の腕をつかんだ。飯の量に小言を言っていたときとは、別人の力だった。骨ごと握られるような、有無を言わさぬ強さ。
「桃山刑事。今夜は、私から離れないでください」
「あなたを、危ない目には遭わせません……絶対に、勝手に動かないで」
なんでお前が、そこまで。
その問いを、俺はまた飲み込んだ。今は、それどころじゃない。
「わかった。行くぞ」
その前に武蔵野署の同期に、一本だけ連絡を入れておくことにする。井の頭公園にあやしい集団が出る、無断欠勤中の篠田マナもそこにいるかもしれねえ、と。出向の身でも、刑事の伝手だけは死んじゃいない。あとはあいつが、察して所轄を動かしてくれる。
俺たちは、暮れていく公園を、弁天の島へ向かって歩き出した。
ともだちにシェアしよう!

