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第六話 灯る
待つほどに、夜は更けていった。
日が落ちきってから、どれだけ経ったか。井の頭の池は、墨を流したように黒い。昼間あれだけいた人の姿は、もうどこにもいなかった。木立はざわざわと風に鳴り、街灯の光は水際で力尽きて、池の中ほどまでは届いていなかった。その闇の奥にある弁財天の社へ渡る朱塗りの橋が、ぼうっと浮かんでいる。
俺たちは木立の陰に身を潜めて、橋の先をうかがい続けた。
日付が変わるころ、橋を渡っていく影が、ひとつ、またひとつと増えていった。やがて社の前に、人影がいくつか集まる。輪になって、低くなにかを唱えはじめた。輪の中心に篠田マナが、ぺたりと座らされている。
その輪の正面に、ひときわ背の高い男が立っていた。両手を広げ、ゆったりとした所作で、周りの人間に差配している。あれが『先生』か。
マナの膝の上に小さな赤いものが乗っているのが、目を凝らすと、遠目にもそれとわかった。
ほおずきだ。
乾いていない。つやつやと熟れた、季節外れのほおずき。
三条 は低い声で「始まっていますね」とつぶやく。
「あの実にマナさんの魂を移し替えるつもりです。古いやり口でして、器に魂を封じて捧げる」
俺は三条へ「止めるぞ」と凄んだ。被疑者確保は三条に任せるとして、俺はマナの保護に努めよう。こいつらを被疑者と呼んでいいのかは知らん。
ええい、悪の組織には正義の味方が駆けつけるもんだ。三条がジャパニーズ・オカルティック・パワーなら、俺はジャスティス・デカ・パワーだっつの!
「ええ、間に合わせます」
言うが早いか、三条は橋へ踏み出していた。
気配で気づいたのだろう、『先生』がこちらを向く。輪の男たちが立ち上がり、懐から札を抜いて構えた。べたべたと墨で塗りつぶしたような、不格好な札だ。マナの部屋にもあった、素人が中途半端に手を出した筆使い。
「邪魔者か」
『先生』が、ねっとりと笑った。
男たちが札を投げる。札は宙で青白く光り、矢のように三条へ走った。
三条は足を止めない。懐から抜いた霊符 一枚を、ひらりと宙に置く。きっちりと整った、習字のお手本のような筆跡。指が短く印を結ぶと、三条の霊符はふれもせずに、向かってきた札をことごとく弾き落とした。光は霧消し、男たちの札は、ただの濡れた紙くずになって池に散る。
「手順を飛ばした術は、脆いのです!」
三条は歩きながら、懐からまた霊符を取り出し、声を張り上げた。
「悪を止め、善を成す、天地人、一切内外障気 を祓いたまえ!」
次の一歩で、三条はもう輪の中にいた。どうやって距離を詰めたのか、俺の目には追えない。男の一人が殴りかかるのを、三条は振り向きもせず手の甲で払う。男は声もなく崩れた。べつだん力んだふうでもないのに、骨ごと握られたあの腕力を思い出して、俺は背筋が冷えた。
やっぱりただ者じゃない。陰陽師ってのは、みんなこうなのか。それとも、こいつだけが。
三条が霊符を一枚、輪の中央へ滑らせる。地面にふれた瞬間、男たちが組み上げていた術が、内側からほどけた。張り詰めていた空気が、ぷつりと緩む。
「——っ、おのれ!」
『先生』が、マナの膝のほおずきへ手を伸ばした。最後に、実だけでも持ち去る心づもりらしい。
「桃山 刑事!」
言われるより先に、俺は動いていた。刑事の足だけは、こういうとき裏切らない。橋を蹴って、マナと『先生』の間に上半身をねじ込む。
「警察だ! そこまでにしとけよ」
手錠はないし、引っ張る権限もないが、立ちはだかることはできる。ちょっとのタックルでも動かない図体が取り柄だ。
『先生』は俺を一瞥すると、ちっと舌を打った。
「……今宵は、退く」
地を蹴る音もなかった。木立の闇に、男の姿がすうっと紛れて消える。人間業じゃない逃げ足だ。残った輪の男たちも、糸の切れた人形 みたいにへたり込み、やがてのろのろと這って散っていく。
追えなかった。追ったところで、こいつら全員をしょっぴくことはできない。容疑がないし、俺たちは行方不明者の確保をしに来たのだ。
「逃がしたな」
「今は都合がいい。あれはひとりで動いているのではありません。泳がせておきましょう」
三条は闇の奥を見据えたまま、それだけ言った。背後にもっと大きななにかがいる。そう聞こえたが、三条はそれ以上、口を開かない。
マナは力なく座り込んでいた。
膝のほおずきはいつのまにか、つやを失っている。乾いて縮んで、ただの枯れた実になっていた。間に合った、ということなんだろう。
ほどなく、所轄の連中が駆けつけた。先に一報を入れておいたからだ。
女性警官がマナに毛布をかけ、肩を抱いて立たせる。
「篠田さん。もう、大丈夫だ」
俺はできるだけ、穏やかに声をかけた。
「親御さんに連絡が行ってる。家に帰ったら、まずは身体を休めてください」
マナが勢いよく顔を上げる。
焦点の遠かった目に、初めて、はっきりと俺が映る。その顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「……なんで」
「え?」
「なんで、邪魔したの!」
か細い声が震えながら、せり上がってくる。
「あと少しだったのに。私、やっと特別になれたのに。先生が、私だけを選んでくれたのに。生きてる意味が、やっとできたのに……あんたが、あんたたちが全部、台無しにした!」
女性警官の腕の中で、マナは身をよじって叫んだ。
「あんたのせいよ! 返してよ、私の、特別を——!」
言葉が出てこなかった。
俺たちはマナを助けたけれど、本人は救われたとは思っていない。むしろ、奪われたと思っている。毎日をただ必死に生きてきた女が、生まれて初めて「お前は特別だ」と言われて、その嘘にすがって息をしていた。俺はその嘘を、叩き落としただけなのか。
女性警官に支えられて、マナは泣きながら連れていかれる。その背中が見えなくなっても、俺はその場に突っ立っていた。
「気に病んでいますか」
いつのまにか、三条が隣に立っている。
「古来から人は不安があれば、神や霊的なものにすがって解いてきました。寄る辺ない者ほど、すがるものを求める。あの方が縋ったのが、たまたま、まがいものだった。それだけのことです」
長い間、見てきたような静かな言い方だった。慰めというより、ただ事実を置くような。
「……わかってるよ」と、夜の池に向かってため息をつく。
「市民を守るのが、俺の仕事だ。人生の面倒までは見られねえ。意味だの、生きがいだの、そんなもんを俺が用意してやれるわけがない。だがな、篠田さんは生きてる。守られたんだ。これからの人生に意味があるかどうかは、歯ァ食いしばって、自分で見つけるしかねえ」
言いながら、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「それでも、生きてなきゃ、見つけることもできねえだろ。だから、これでいい」
しばらく三条は黙っていたが、ふいに、腰に腕が回った。
三条が俺の腰をぐいと抱き寄せている。スーツごしにも、腕の熱がわかった。かすかに、お香のにおいがする。サングラスの奥の瞳が、まっすぐ俺を見ていた。はぐらかしでも、とぼけでもない。はじめて見る素の顔だった。
「美しいですね、あなたは——変わらず」
「……は?」
「いえ、こちらの話です」
三条は、ふっと笑って、腕をほどいた。もう、いつもの顔に戻っている。なにを言うつもりだったのか、その奥にあるものは、やっぱり俺には読めなかった。
その感触だけが胸に残った。
足元で、ことり、と転がる気配がある。
枯れたほおずきの実が一個、転がっていた。マナの膝にあったやつだ。三条は身をかがめ、いつもの和紙でそれを包むと、大事そうに胸の内ポケットへしまった。
また、ひとつ増えた。
なんのために、こいつはほおずきを集めているんだろう。
訊いても、どうせはぐらかされる。わかってはいたが、その夜はなぜだか、訊いてみたい気がした。
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