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第七話 迷ヶ辻
長い髪の男が、こちらをのぞき込んでいる。
顔は見えない。やわらかい声でなにか言っているのに、聞き取ろうとするほど耳の奥が冷たくなる。逃げようとして身体が動かない。指一本、持ち上がらなかった。声がぐっと近づいてくる。やめろ、来るな、と思うのに口も開かない。男の指が、頬にふれて——。
「お目覚めですか?」
至近距離に、きらりと光るサングラスがあった。
「うわっ……なんでいんだよ!」
跳ね起きて、ベッドの上で後ずさる。枕元に三条衣織 が膝をついて、寝ていた俺の顔を、すぐ上からのぞき込んでいた。長い影が落ちるほどの近さだ。
「……心配で」
三条 はてへっと恥じらうように、身をくねらせた。控えめに言って、殴りたい。
「心配で、じゃねえよ! 寝てる人間の顔、至近距離でガン見すんな」
「だいぶ、うなされておいででしたから」
背中が汗で湿っているのに気づいた。心臓がまだ早い。夢の中身は、もう半分溶けている。子供の頃からときどき見る夢だ。長い髪の、きれいな男。それ以上は、思い出せたためしがない。
ただの夢だ。
俺は汗を手の甲で拭って、息を整えた。
「つーか玄関の鍵、ゆうべ俺がかけて寝たよな。なんで入れんの。不法侵入で通報されたいのかよ」
「ひどいですねえ、相棒を突き出そうとするなんて。合鍵をくれたじゃありませんか」
「まったく覚えがない!」
三条はにこやかに立ち上がって、台所へ戻っていく。答えになっていない。昨晩押しかけたこいつを、俺はしっかり追い出したはずだ。
合鍵の出どころを訊いても、たぶんはぐらかされる。気づけば飯を食わされ、風呂の順番まで決められ、いつのまにか合鍵まで握られて、なし崩しに一週間だ。もはや三条が俺の家に寝泊まりするのも時間の問題だった。
絶対に阻止したい。なにがなんでも阻止だ。オンボロアパートの手狭な1DKに図体のでかい俺と、もっとデカい自動販売機サイズの男が仲良く暮らすだなんて。
全身の鳥肌を必死でおさえつつ居間に出ると、出汁のにおいが充満していた。
三条は白いフリルのエプロンを黒シャツの上に締めて、なぜか屋内でもサングラスをかけたまま、菜箸を握っている。なあ、おい。そのサイズのエプロン、どこで買った。いや、知りたくない。
流しの脇には焼き上がったばかりの鮭と、湯気の立つ味噌汁と、小鉢が三つ。炊飯器の蓋は開けっ放しで、中はほぼ空だった。
「お前、いつから台所に立ってんの」
「五時には。桃山 刑事の冷蔵庫は寂しいので、駅前まで買い出しに」
しれっと言って、三条は茶碗に飯をよそう。それを俺の前に置くと、自分の茶碗にも盛る。漫画みたいな盛り方だ。
「お前さ、その量、毎度よく入るな。太るぞ」
「私は太れない体質なんです」
言いながら、もう三杯目を食っている。骨太の俺が逆立ちしても敵わない食いっぷりだ。昨夜だってフライパン一杯の炒飯を一人でさらえた男が、朝からこの調子で、腹はぺたんこなんだから、人体の不思議としか言いようがない。
「これは美味しいですねえ」
「お前が作ったんだろうが」
「だから、よくわかるんです」
意味がわからん。俺は黙って鮭をほぐした。悔しいが、飯はうまい。出汁の利いた味噌汁も、ほどよく脂ののった鮭も、出向先のお役所がよこした相棒が朝五時から仕込んだものだ。味わうのは、なんだか負けた気がする。それでも食べ物は粗末にできない。
「なぜ、うなされていたんですか?」
三条が、ふいに言った。
「……ああ。ガキの頃から繰り返し見るんだよ。長い髪の、男の夢」
茶碗を持つ三条の手が、ほんの一瞬だけ止まった。気のせいかもしれない。
「顔は出てこねえ。なにか言ってる気がすんだけど、目が覚めると忘れてる。べつに、どうってことねえ夢だ」
「なるほど」
すぐに、いつもの声に戻る。
「では、私が添い寝して差し上げましょうか」
「いるかそんなもん」
「遠慮なさらず。私も桃山刑事の隣ですと、よく眠れそうな気がします」
「なんでお前が眠る側なんだよ。つーか出てけ、飯だけ食って出てけ」
三条はふふ、と笑って、四杯目をよそった。聞いちゃいない。
飯を食い終えて立ち上がると、三条がすっと寄ってきた。
「桃山刑事、襟が」
長い指が、俺のシャツの襟元に伸びる。直すだけなら一瞬のはずが、その手つきはやけにゆっくりで、指の背が首筋をかすめていく。
「……曲がって、おりますよ」
「直ったろ。もういいって」
「桃山刑事は照れ屋さんですね」
「なぁ、ほんと……はぁ、いいよ」
俺はいろいろと諦めた。サングラスの奥で、三条が楽しそうに目を細めたのが、レンズ越しでもわかる。なにが目的なのかは、相変わらず一ミリも読めないが。
きっと俺をさんざんからかって、そのうち飽きるだろう。こういうのは反応しないのがいちばんいい。
中央合同庁舎の地下、特殊霊異対策室は、今日も薄暗く、お香のにおいが染みついている。
奥のデスクで久世 さんが書類に判をついていた。室長の久世千鶴 さん。五十がらみで、紺の着物にショートブーツ、今日は長い髪をゆるく結っている。物腰は穏やかだが、この人が「やりなさい」と言うときの声には、妙に逆らえない芯がある。京都の古い陰陽師の家の出だと聞いた。
「おはよう、桃山くん。衣織 くん」
「おはようございます、千鶴 さん」
三条が会釈する。この男の肩書は『特別顧問』とかで、組織の序列でいうと久世さんの下のはずなのに、二人の並びはどうにも横並びに見える。出向初日に人事表を見せられたが、三条のところだけ枠の外にぽつんと書いてあった。役所の人間のくせに、役所の階段に乗っていない。
そもそも対策室で常勤している職員は久世さんと三条のみで、所属の陰陽師たちは非常勤扱いらしい。どうりで毎日出勤しているのに同僚と会わないはずだ。
「ちょうどよかった。一件、見てほしいものがあります」
久世さんがタブレットをこちらに向けた。地図と、何枚かの写真。住所を確認すると目黒の、寺の石段だ。
「目黒不動、瀧泉寺です。ここ二週間ばかり、参拝客の事故が続いている。石段で足を踏み外す、急に方角がわからなくなる、めまいを起こして座り込む。救急車を呼んだのが、半月で六件」
「人が多い寺なら、転ぶ年寄りの一人や二人は出るでしょう」
俺が言うと、久世さんは静かに首を振った。
「転んだのは、二十代、三十代がほとんど。みんな口を揃えて言っていたそうです。『上りの途中で、自分がどっちを向いているかわからなくなった』、とね」
背中のあたりが、うっすら寒くなった。
三条はタブレットを覗き込んだまま、声が一段低くなった。
「目黒不動が、緩んでいますね」
「ええ。私もそう見ています」
「桃山刑事」
三条がこちらを向く。
「以前、東京は丸ごと一枚の結界だとお話ししましたね。山手線がその環で、中央線が西へ伸びる補助線だと」
「ああ、太極図がどうとか」
「その環の上に、五つの楔が打ってあるんです。五色不動 。目黒、目白、目赤、目青、目黄。江戸の頃から都内に祀られている五つのお不動さまでして、これが結界を地面に留めておく杭の役目を果たしている。明治の連中が選んだのではなく、もとからそこにあった霊地を、そのまま杭に使った」
「で、その杭の一本が緩んでる、と」
「ええ。誰かが、抜こうとしているのかもしれません」
室内が、しんとした。久世さんと三条が、目だけでなにかを交わす。陰陽師ではない俺には、まだ半分しか読めない。
「衣織くん」
久世さんが、低く言った。
「井の頭の一件と、繋げて考えていいのですね?」
「まだなんとも。ただ——」
三条は懐に手をやった。あの和紙の包みがあるあたりだ。
「同じにおいが、しないとも言い切れません」
鬼灯講 。口には出さなかったが、三条がそう思っているのはわかった。井の頭で取り逃がした『先生』の、その背後にいるなにか。
「行ってきてください」
久世さんが判子を置く。
「桃山くん、衣織くんを頼みます」
「俺がこいつの保護者みたいな言い方やめてくれませんかね」
「あら、逆かもしれないでしょう」
ほんの少しだけ意味ありげに、久世さんが微笑んだ。
目黒不動へは、対策室の公用車で向かうことになった。
地下駐車場に降りると、三条がまた助手席のドアに手をかけて、うやうやしくこちらへ手のひらを向けてくる。前にもやられた小芝居だ。今度は俺も、いちいち突っ張る気力がなかった。
「……乗ればいいのね」
「はい」
三条が、やけに嬉しそうにうなずいた。釈然としないまま、俺はぴかぴかに磨かれた助手席に収まる。お姫さま扱いも、毎回となると抵抗するだけ無駄だ。
運転中も三条はまた結界の薀蓄を垂れはじめた。山手線がどうの、五色不動がどうの。高架をくぐるとき、こいつは窓の外の銀色の電車を指して、あれが街を封じる呪術装置の環なのだと当たり前みたいな顔で言う。
俺が毎朝惰性で乗っているただの通勤電車が、と返すと、「これが結界の上手いところです、誰も気にしない」と満足そうにうなずいた。
寺の手前のコインパーキングに車を入れて、そこから歩いていると、隣の気配が消える。
三条がいない。
人混みの先、和菓子屋の店先で、串団子を真剣な顔で吟味している長身の男を見つけた。サングラス。黒スーツ。嘘みたいに整った横顔。
「おい、三条。どこ行ってんだ」
小走りで戻ってきた三条は、悪びれもせず団子の袋を掲げた。
「桃山刑事の分もありますよ」
「そういう話じゃねえ。現場行く途中で迷子になるな、いい大人だろうが」
「ふふ。では、鈴でもつけて頂きましょうか」
「猫かよ、お前は」
言ってから、なんでそう言ったのか自分でもわからなかった。三条はやけに嬉しそうに、団子を一本くわえる。
男坂と呼ばれる急な石段の下に着いたのは、昼前だった。
線香の煙と、参拝客のざわめき。表向きは、どこにでもある下町の寺の景色だ。だが石段を見上げた瞬間、足の裏がすうっと頼りなくなった。
段の数も傾きも見たままのはずなのに、目で追っていくと途中でどこを見ているのかわからなくなる。登っているのか降りているのか、ほんの一拍、判断が鈍ってしまう。
俺の目の前、五段ほど上で、若い女がふいに足を止めた。スマホを構えたまま、ゆっくりと首をめぐらせる。上を見て、下を見て、また上を見る。自分がどっちへ進んでいたのか、わからなくなった顔だった。膝が、かくんと折れる。
「あぶねえっ!」
俺は石段を駆け上がって、倒れかけた女の腕をつかんだ。華奢な身体だが、魂が抜けたみたいに力が入っていない。
「大丈夫っすか。手すり、つかまって。ゆっくりでいいから」
「……あれ。私、なんで、ここ……」
焦点の合わない目で、女は俺を見上げた。井の頭公園で見た、マナのあの遠い目つきに似ている。下まで付き添って手すりを握らせると、女はようやく自分の足で立った。
「桃山刑事、目を石段から離してください。手すりだけ見て上るんです」
三条の声は硬かった。懐から霊符 を一枚抜き、指で短く印を結ぶ。足の裏の頼りなさが、すっと引いた。
「これが、緩んでる杭の感触か」
「ええ。ご丁寧に外しにかかっていますね」
石段の中ほど、人の流れの切れ間に、赤いものが落ちているのが目に入った。
乾いた、季節外れのほおずきの実。
また、こいつだ。
三条が無言でそれを拾い、いつもの和紙にくるんで懐へしまう。その横顔を見ながら、俺はなぜだか、今朝の夢を思い出していた。長い髪の、きれいな男。こちらをのぞき込む、やわらかい声。
顔はやっぱり思い出せない。背中だけが、また冷たくなった。
ただの夢だ。
俺はそう自分に言い聞かせて、手すりを握り、石段を上りはじめた。
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