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第八話 五つの楔
石段を上りきると、本堂の前に出た。
耳には車を降りる前に三条 が渡してきた、小型の無線がねじ込んである。イヤホンほどの大きさで、対策室が現場に出るときに装備するものだという。回線の向こうには、今日はやけに大勢の気配がある。
いざというとき派遣される陰陽師が、対策室の外にいるらしいとは聞いていた。久世 さんの家の筋だの、協力する家だのが、全国に散らばっているのだとか。だが俺は誰ひとりとも、顔を合わせたことがない。会う機会があるとすれば、忘年会くらいか。この連中が揃って仲良く忘年会なんぞやるのか。やらねえな、絶対。
線香の煙が、風もないのに横へ流れている。煙は本来、まっすぐ立ちのぼるものだ。それが地を這うように、ゆらゆらと本堂の裏手へと吸い込まれていく。
「こっちです」
三条の声はさっきからずっと張り詰めている。
本堂の脇を回り込む。参拝客は来ない。立入禁止の柵の向こう、古い井戸のそばに、杭と呼ばれるものがあった。
地面に丸い染みが滲んでいる。墨を一滴落として広げたような、黒い円。その中心に、小さな赤いものが埋め込まれていた。
ほおずきだ。つやつやと熟れて、地面の下から脈打つように、かすかに光っている。
「これが、杭か」
「正しくは、杭を留めている結び目です。目黒不動という杭の、いちばん深いところ」
三条は片膝をついて、染みのふちに指を近づけた。ふれる手前で止める。
「ここに、ほおずきを一個ねじ込んで、内側から結びを腐らせている。なかなかの『プロの仕事』ですね」
「井の頭のと、同じかよ」
「同じ系統です」
三条の声が低くなる。
「あの『先生』の、その上にいる誰かの仕業でしょう。手管が妙に手慣れているし、複雑な術式を用いています」
耳の奥で、無線が鳴った。久世さんだ。
『桃山 くん。そちらの様子は』
「結び目を見つけました。ほおずきがひとつ、埋まってます。三条が井の頭と同じだと」
一拍、沈黙があった。
『やはり、目黒が一番深い。他の四本はまだ綻び始めたばかりです。久世の手の者を散らせていますが、目黒だけは衣織 くんがやらねば』
道理で。五本まとめて狙われて、その中でいちばん厄介なくじを、俺たちが引いたわけだ。
「室長」
三条が、襟元の送話口に向けて言う。
「締め直します。しばしお時間をいただきます」
『お願いします。こちらも、手が空き次第そちらへ回します』
ぷつ、と久世さんの声が引っ込んだ。だが回線は、切れない。
三条は懐から呪符を何枚も抜いて、染みの周りに置いていく。きっちりと整った、定規で引いたような筆跡。一枚置くごとに、短く印を結ぶ。黒い円のふちが、じり、と内側へ後退した。
「桃山刑事。下がっていてください。ここから先は、力ずくになる」
言われて、二歩下がる。
三条が両手を染みにかざした。指先から、見えないなにかが流れ込むのがわかる。空気がびりびり鳴って、井戸の水面が、ありもしない風に波立った。
黒い円が、震えながら縮んでいく。
「悪を止め、善を成す、天地人、一切内外障気 を祓いたまえ。除八方 凶封殺 ! 急々如律令 !」
いける。
耳の奥で、回線が一気に騒がしくなった。これまで沈黙していた、顔も知らない大勢の声が、堰を切ったように飛び交いはじめる。
『当主っ、目白、持ちません——!』
若い男の、悲鳴に近い声だった。間を置かず、別の声がかぶる。
『こちら目赤、押し戻されます。退かせてください、申し訳——』
喉が裂けそうな響きで、年配の女の声がする。あちこちで若い声も老いた声も、男も女も入り乱れて俺には理解不能の術を叫び、呻いていた。回線一本にいくつもの修羅場が、まるごと流れ込んでくる。
会ったこともない連中の声なのに、こいつらが今どれだけ追い詰められているかだけは、いやというほど伝わった。
『落ち着きなさい!』
阿鼻叫喚の中、久世さんの声だけが低く静かで、揺るがない。
『目白は手放していい。人を退かせて。目赤、深追いしないで。衣織くんが、目黒を抑えています』
当主、と誰かが呼んだ。室長じゃなく、当主、と。
ああ、そうか。この人は、こっち側じゃ、そういう立場の人なのか。
「三条、目白が! てか、どこもしっちゃかめっちゃかだぞ!」
「聞こえています、お静かに!」
三条の額に、初めて汗が滲んでいた。黒い円は半分まで縮んだが、そこから先が動かない。締めるそばから、地面の下でなにかが引き戻されている。
「こちらが一本締め直すあいだに、向こうは二本外してくるでしょう」
三条が歯を食いしばって、小さく呻いた。俺はただ突っ立って見ていることしかできない。
「……せめて、ここだけでも!」
黒い円が、ぐっと押し返してきた。
自動販売機みたいにデカい三条が、わずかによろける。
俺は考えるより先に、身体を支えようと踏み込んでいた。背中を、両手でぐっと押す。俺は陰陽師じゃないし、今ここで役に立つことは少ない。こいつを倒れさせるわけにはいかない、それだけだ。
三条が、ちらと振り返る。サングラスの奥で、目が見開かれた。
「桃山刑事……」
「いいから集中しろ! 支えてやるからっ!」
次の瞬間、三条の腕が伸びて、俺の腰を抱き寄せた。引きつけるような強い力だった。背中合わせに近い格好で、こいつの体温が、ぴったりと寄る。
「動かないで、踏ん張ってください。あなたの背中をお借りします!」
「は——?」
なにを言われたのか、わからなかった。
俺がふれた瞬間、よろけていた三条の身体から、ふっと震えが消える。黒い円が、また一段、縮む。半分が、四分の一になる。
なんだ。なんで、俺がさわると。
息を整える間もなく、三条が短く呪 を唱えた。黒い円が、きゅっと点に縮んで消える寸前で止まる。
ほおずきの実はまだ地面に埋まっていた。色を失ってしなびてはいるが、抜けてはいない。
「……ここまでです」
三条が、ふうと息を吐いた。
「根は抜けない。ですが、これ以上は腐らないでしょう。目黒は首の皮一枚で繋ぎ止めることができました」
耳の奥で、また悲鳴が走った。
『目青、揺らぎ始めました——!』
一難去ってまた一難、もう間に合わない。一体全体、なにが起こるのか。令和の東京で百鬼夜行の妖怪パレードって?
ふっと、空気が緩んだ。
地を這っていた線香の煙が、ためらうように止まり、ゆらりと向きを変える。井戸の水面の波が、静まっていく。押し寄せていたなにかが、潮みたいに、すうっと引いていくのがわかった。
耳元で、久世さんの声がする。
『桃山くん、衣織くん。引きました。目青の揺らぎも止まったようです。久世の手の者で、残りはなんとか食い止めています』
「……勝った、んすか」
『いいえ』
久世さんの声は、晴れていなかった。
『向こうが、退いたのです。こちらが押し返したのではなく』
三条がゆっくりと立ち上がる。しなびたほおずきを、いつもの和紙にくるむ。また一つ、増えた。その横顔は汗で湿ったまま、ちっとも安堵していない。
「わかりやすい手を使う」
三条がつぶやいた。
「五本まとめて外しにかかり、目黒だけ深々と食い込ませて、私たちを釘付けにして、こちらが粘ると見るやあっさり退く」
「どういう意味だよ」
「これは、壊すための崩しではなかった、ということです。五色不動 は、的じゃない。緩めて、漏らすのが目的だ」
「漏らして、どうすんだよ」
三条は、しなびた実を見つめた。
「この杭をほどくと、東京を封じている結界から、力が漏れ出す。やつらはそれを西へ流していた。このほおずきが、脈打って光っていたでしょう。あれはポンプです。私たちが目黒で踏ん張っていたその足元から、結界の力を吸い上げて、本丸へ運んでいた」
「本丸を動かす……燃料ってことかよ」
「それだけじゃない」
汗をぬぐうこともせず、三条は喋り続けた。いつもは蘊蓄をまどろっこしく語るやつが、今は早口で久世さんに伝えている。
「東京の結界が緩むほど、それと連なって張られた、もっと古い封印も緩むということです。七百年前に、西の山で打たれた封印が燃料を運びながら、同じ手で本丸の鍵を開けている。五色不動はそのための下ごしらえだったんです」
久世さんが、回線の向こうで静かに言った。
『衣織くん。気配は、どちらへ』
三条が顔を上げる。サングラスが本堂の屋根の向こう、夕暮れの西の空を向いた。
「西です」と、はっきりした声だ。
「山の気が、騒いでいる。七百年前と、同じにおいだ。——高尾です」
西の空に、薄く雲がたなびいていた。その下にかつては見えたであろう山の稜線を想像してみる。三条は七百年前、と確かに言った。言い伝えレベルのことを、自分が見てきたみたいに、だ。
この男は何者だ。俺と同じ人間、だよな。
ただの夕暮れの景色だ。なのに目が離せなかった。
三条の寄りかかった背中が、まだ熱を孕んでいる。
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