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第九話 霊山

 その朝、三条(さんじょう)は飯を作りに来なかった。  不気味なエプロンをつけて台所に立っている大男がいない。合鍵で勝手に上がり込んでくるくせに。出汁のにおいのしない朝が、こんなに落ち着かないものだとは。断りもせず慣らされている自分にも、舌打ちしたくなる。仕方なくコンビニのパンをかじって出勤した。  地下にある対策室のデスクに、三条が座っている。  コンビニのおにぎりを行儀よく和紙の上に置いて食べていた。傍らには、しじみの味噌汁。インスタントの、紙カップのやつだ。フライパン一杯の炒飯を一人でさらえる男が、おにぎり一個をちまちまかじって、紙カップの味噌汁。どことなく調子が狂う。 「なんか元気ねえじゃん」 「お見通しですか」 「大食漢がそれだけって、もはや体調不良だろ。どうしたんだよ」 「障気(しょうき)に、あたりすぎまして」  三条はしじみの汁をずずっとすすった。仕草がじじくさい。年齢は訊いちゃいないが、肌つやからして俺より年下だろうに。 「二日酔いみたいなものです」 「……それでしじみの味噌汁かよ」  しじみは肝臓にいい。二日酔いの定番だ。だが障気って、あれだろ。昨日、目黒で締め直したあの黒いやつ。 「障気って、アルコールかなにかなのか?」 「似ていますね。浴びすぎると、内側から効いてくる」  三条は、ふっと笑った。いつもよりだいぶ、弱い笑いだ。 「お恥ずかしい。本来、これしきで酔う身ではないのですが」  本来、ねえ。  しじみで養生してる陰陽師、なかなかシュールな絵面だった。 「ちょうどいい、二人とも来ていますね」  奥のデスクから、久世(くぜ)さんが顔を上げた。地図を広げている。東京の西のはずれ、高尾山だ。山を取り巻くように、赤い線が何本も引かれていた。 「昨日、五色不動(ごしきふどう)から吸い上げられた力が、ここへ流れ込みました。高尾山の封印が、緩み始めています」 「また封印か……」 「そうです。東京っていうのはね、呪術的によく考えられた計画都市なのよ」  久世さんは、少し間を置いた。 「私たちが今日まで、特殊霊異対策室として残っている理由です。もちろん、それだけではないけれど。番人として、東京に置かれる必要があった」  明治に解体されたとされる陰陽寮、この人と三条、それに昨日なんとか五色不動を鎮めた人たちはその末裔だという。まだ異動して一ヶ月も経っていないのに、目まぐるしい新情報が俺を襲ってくる。  たまに刑事仲間が様子を窺ってくれるけれど、どこから話せばいい。誰も信じてくれないだろう。霊符(れいふ)と呪術が飛び交う、刺激的な現場ですってか。 「七百年前、高尾山でひとつ封じられたものがあります。それを見張り続けるために、陰陽寮は解体のあとも、形を変えて生き延びてきた」  俺の頭の中で、ばらばらだった点が、いくつか繋がった。 「じゃあ、山手線とか、五色不動とかも」 「最たる理由と言えるでしょうね」  久世さんはうなずく。 「東京じゅうに張りめぐらせた結界は、ぜんぶ、その封印を守るための仕掛け。山手線も、中央線も、五色不動の五本の杭も」 「それ……ラスボスかなにかっすか?」  久世さんは、笑わなかった。珍しく歯切れ悪くつぶやく。 「荒海(あらみ)庚人(かのと)」  初めて聞く名だったのに、口の中がひやりと乾いた。あまりその名前を口に出したくはない気がする。 「鎌倉の頃から、私たちが封じ続けている者の名です。詳しいことは、いずれ」 「お言葉ですが、そうやっていつも誤魔化し続けられています。俺だってここの所属なんです。情報を隠された状態で、ベストな仕事なんか、できるわけないでしょう」  実地で仕事を覚えるのは俺だって賛成だが、この雰囲気はちょっと違う。きっと俺にはまだ言えない。重大なことが隠されていると刑事の勘が告げている。 「ごめんなさい。わざとではありません……あなたの他に過去、何人も警察関係者を受け入れて来ました。私たちは内閣府の下にあるけれど、警察組織と連携した方が動きやすいからです。でもだいたいは平和に任期を終えられて、みなさん戻られました。緊急事態で出向に来たのはあなたがはじめてだし、長い歴史のある我々のことをすべて伝えることは不可能でしょう?」 「そりゃ、そうなんですが」  三条はしじみの味噌汁の紙カップを、両手で包んだまま、なにも言わなかった。否定もしない。 「三条ばかりが危険な目に遭っている。俺を相棒と任命したでしょう。俺なりの仕事をさせてくれよ」 「……桃山(ももやま)刑事」  サングラスの下で、形のいい唇がわずかに開いていた。あいつが本気で面食らっている。いや、ちょっとかっこつけたけどさ。俺だって役に立っている実感が欲しいっていうか。給料泥棒は避けたいってやつだ。 「刑事はいてくださるだけで、私の役に立っています」  さっきまで弱々しかった三条がすくっと立ち上がって、俺をにこにこと見る。なんで喜んでんの。 「衣織(いおり)くんの言う通り。そもそもあなたは優秀な刑事で、その腕っぷしも助かっているわ」  頬杖をついて久世さんも笑っている。俺は痒くなって、「で、高尾山っすか! 小学生の遠足以来だなー」と雰囲気を変えようとした。 「ええ、参りましょう」  三条はうやうやしく、執事のように手を扉の方へ向ける。もうその態度には慣れたけどさ、お茶会に行くんじゃなくて俺たちは山に行くんだぞ。  高尾へは公用車で向かった。ちょっと揉めたが、今日は俺が運転するといって無理やりハンドルを奪う。  中央道を西へ走る。新宿の高層ビルがバックミラーの中で小さくなって、やがて窓の外は、緑の濃い山がちな景色に変わっていく。三条は窓を眺めながら、ずっと無言だった。 「……お前さ」  信号待ちで、俺は口を開く。 「行きたくねえなら、そう言えばいいだろ」  三条が、こちらを向いた。サングラス越しでも、少し驚いているのがわかった。 「……どうして、そう思うんです」 「朝から飯食わねえし、口数も少ねえ。お前にしちゃ、青天の霹靂ってやつなんだろ」  三条はふっと、力の抜けた笑い方をした。からかう笑いじゃない。 「敵いませんね、あなたには」 「伊達に人を見てねえからな」 「行きたくは、ありません」  三条は流れる窓の景色に視線を戻す。 「けれど、行かないわけにも、いかないんです。私があの山には、いちばん、義理があるので」  義理なんて妙な言葉を使う。突っ込みたかったが、三条からはそれ以上訊いてほしくない、という気配が滲んでいた。  俺は黙って、青に変わった信号を見つつ、アクセルを踏んだ。  高尾山口に車を停めると、三条が大きく伸びをしている。さっきまでの陰気はどこへやら、やけに晴れやかな声だった。 「さあ、桃山刑事。山登りをしましょう」 「はい?」 「今日は……歩きやすそうな靴ですね。よかった」 「いや待て。まじで登るのかよ。ケーブルカーあるだろ。え、ガチの登山?」 「なんのなんの、高尾山はレベルとしては初心者向けですよ。この時期の高尾山はいいですよねえ、緑豊かで」  三条は参道の入口を見上げて、深呼吸までしている。発言だけなら、登山客だが、ふたりそろって真っ黒なスーツで、片方はサングラスだ。家族連れもカップルも、軽装のハイキングルックで楽しげに登っていく中で。 「俺たち、超絶に浮いてね?」 「ご安心を。一般参道は使いませんよ」  三条がにこやかに脇道を指した。 「通だけが知っている、裏道があるんです。頑張って着いてきてくださいね」  通だけが知っている裏道。要は結界の管理者しか通らない道、ってことだろう。観光地の顔をした霊山の、その裏側だ。  杉の巨木が両側に立ち並び、空が細く切り取られている。空気がひんやりと湿って、青い木々のにおいがした。表の参道のざわめきが、数歩で嘘みたいに遠のく。 「なあ。なんで高尾なんだ」  登りながら、俺は訊いた。三条の言う通り、そこまできつい山道じゃないが、スーツで山登りとは笑える。 「東京なんて、神社も寺も山ほどあるだろ。なんで、わざわざこんな西のはずれの山に封じた」 「いい質問です」  三条の声に、薀蓄を語るときの、いつもの張りが戻ってきた。 「高尾は、古くからの修験の山でしてね。山伏が何百年も籠もって、霊力を練り続けてきた。山そのものが、もう一つの巨大な呪具のようなものなんです」 「また呪具かよ……」 「はい、それに方位がいい。都の西——江戸城から見て、裏鬼門の守りにあたります。強い霊地であり護りの方位で、しかも薬王院の不動信仰が蓋になる。これだけ条件が揃った山は、そうそうない」  三条は、ちらと振り返って笑った。 「七百年前、あれを封じるのに、ここ以上の場所はなかった。山ごと、牢にしたわけです」  毎日大勢が登って、ソフトクリームや蕎麦を食って、御朱印もらって帰っていく観光地だぞ。その実、七百年もののバケモノを閉じ込めた牢だってのか。背筋が、うっすら寒くなった。 「そんなにやべえやつなの、その……荒海庚人(あらみかのと)。名前からして人間だろ」 「そうです、やべえやつなのです」  三条が即答する。「ソフトクリーム食べる?」ぐらいのテンションだ。 「桃山刑事、帰りにソフトクリームでも食べて帰りますか」  どうして俺はいつの間にこいつのキャラクター掴んでるんだよ。まだ相棒になって二週間だぞ。 「……おう。お前、回復してんじゃん」 「いつまでも、弱気な姿を見せるわけにはいきませんので」  胸を張る三条は、朝しおしおとしじみの味噌汁をすすっていた男じゃ、もうなかった。やせ我慢かもしれない。こいつなりに、自分を立て直したんだろう。  俺はなんとなく、それ以上からかうのをやめた。  登るにつれ、三条の足がまた少しずつ重くなっていく。ゆっくり土を踏みしめて気配を窺い、なにかを確かめ、ふいに立ち止まった。 「桃山刑事。妙なものを見ても、声を上げないでください。山は音に反応する」 「妙なもの、って」 「高尾に住まう天狗さまです」 「へえ、そうかよ……はあ? 天狗っ!」  俺は絶句した。天狗って、あの天狗。冗談かと思ったが三条の声は本気だ。実在してんのか、してるんだろうなあ、その感じ。俺だって、もういちいち驚きたくない。けどなあ、天狗だぞ。  裏道が薬王院の本堂の裏手へ出る。その手前の杉木立。奥の暗がりで、なにかが動いた。  黒い、人くらいの大きさの影。鳥のような、人のような。こちらをうかがって、すっと木の陰に消える。ひとつじゃない。木立のあちこちで、影が、ざわざわと動いている。  うなじが強張ったが、声は呑み込んだ。山は音に反応する。 「……騒いでいますね」  三条が低く言う。 「山の使いが、落ち着かないでいる。封印が緩んで、山の気が乱れている証拠です」  本堂の裏手に立入禁止の縄が張られた、古い岩場があった。  岩の表面に文字とも模様ともつかないものが、びっしりと刻まれている。その一部が焦げたように、黒く爛れていた。 「これが、封印の結び目か」 「そうです」  三条が岩に手をかざした。指先がかすかに震えている。五色不動の杭が同時でも、びくともしなかった男の指が。 「ふたつ、解けています。昨日、目黒から流れた力で、思ったより進んでいる」  黒く爛れた岩の奥から誰かがこちらを見ている気がした。  爛れた岩の表面に、ふっと影が映った。  長い髪の、人の形。  俺は息を呑んだ。ガキの頃から繰り返し見る、あの夢の男に思えてならない。顔なんてわからないのに、長い髪とこちらをのぞき込むような、あの気配。 「——三条」 「なにが見えるんですか」  三条の声が、鋭く跳ねた。サングラスが、勢いよくこちらを向く。 「桃山刑事。あれが、見えるんですか」 「い、いや、影が……長い髪の」  言いかけて、岩を見る。影はもう消えていて、ただの黒く爛れた岩肌があるだけだ。 「……気のせい、か」  三条は、なにも言わなかった。  ただ、顔の向きが落ち着かない。なにを考えているか読めないこの男が、はっきりと狼狽していた。  いったい、どうしてそんなに焦っているのだろう。  訊こうとしたとき、薬王院の鐘が、ごおん、と鳴った。  杉木立の影たちが、いっせいに、ざわっと揺れる。山が身じろぎした。

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