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第十話 悪夢へのいざない
山を下りる頃には、日が傾いていた。
三条 は岩場を離れてからも、ずっと口数が少ない。あの長い髪の影を俺が見たと言ってから、こいつの様子は明らかにおかしかった。
高尾山口まで戻って、車に乗り込む。エンジンをかける前に、俺はキーを握ったまま、運転席で動かなかった。
「お前、さっきなににあんなに動揺してたんだ」
三条は助手席の窓の外を見たまま、すぐには答えなかった。サングラスの奥がどこを見ているのか、視線が読めない。
「あの岩に映った、長い髪の影。あれを俺が見たって言ったとき、お前、固まったろ」
俺は続けた。
「ガキの頃から見てる夢の男と、同じだった……ような気がする。封印されてる、その荒海庚人 ってのと、関係あるんじゃねえのか」
「……鋭いですね、本当に」
三条が息を吐いた。観念した、というより、はぐらかし方を選んでいる。
「桃山 刑事。あなたがなにを見たのか、私にはまだ、はっきりとは言えません。確かめないといけないことが、いくつもある」
「言えねえ、じゃなくて、言わねえんだろ」
「……申し訳ありません、今はまだ」
珍しく、正直に認めた。だからかえって、こいつが本気でなにかを抱えているのがわかる。
「ひとつだけ、お約束します」
三条がこちらを向いた。
「あなたに危険が及ぶことだけは、させません。なにが起きようと、お守り申し上げる。それはずっと変わりませんよ」
「お前さ、自分のことは約束しねえのな」
三条は答えなかった。それが答えみたいなものだ。俺は舌打ちして、エンジンをかける。
その日のうちに帰れると思っていたが、甘かった。
久世 さんから連絡が入って、封印の経過観察のため、今夜は高尾の麓に泊まれという。緩みかけた結び目が、夜のあいだにどう動くか見届けろ、と。対策室が押さえている古い宿坊が一軒あるそうで、俺たちはそこに通された。
修験の宿坊だけあって、飾り気のない和室がひと間。布団が、二組。
「……ひと部屋かよ」
「経費の都合でしょう」
三条は涼しい顔だ。
「それとも、別々がよろしかったですか。いけずですね」
「黙れよ」
飯は宿坊の精進料理だった。三条は朝のしおらしさがどこへやら、山菜の天ぷらだの胡麻豆腐だのを、結局おかわりまでして平らげていた。障気 の二日酔いとやらは抜けたらしい。
山の夜は更けるのが早い。街の闇と違う闇をまとって、窓の外が墨を流したみたいに真っ黒だ。虫の音なのか、羽ばたきみたいな音がする。天狗の使い、ってやつかもしれない。考えると寝つけないので、考えないことにする。
俺は壁際の布団に潜って、目を閉じた。
隣の布団で、三条はサングラスを外していた。相変わらず規格外の美形ぶりだ。ちょっとしたギャグみたいに、すれ違う人間が卒倒するレベル。
天井を見上げたまま、俺はずっと引っかかっていたことを訊いた。
「なあ。鬼灯衆 ってのは、結局、なんなんだ」
暗がりで、三条がこちらを向く気配がした。
「井の頭公園でも、目黒でも、今日の高尾でも、必ずあのほおずきが出てくる。あれを使う連中なんだろ」
「……ええ」
三条は、少し迷うように間を置いてから、低い声で語りはじめた。
「鬼灯衆は、陰陽道の中でも、忌み嫌われてきた異端の一派です。彼らの術は、たった一つ。人の魂を、ほおずきの実の中に封じ込める」
篠田マナの事件を思い出す。井の頭の弁天で、女の魂を実に移し替えようとしていた。
「本来、陰陽道は人々を守るためにあります。穢れを祓い、災いを遠ざける。けれど彼らは、それを逆さに使う。寄る辺ない人間に近づいて、特別な救いがあると囁いて、最後に魂ごと、実に詰める。そうやって集めた魂を、力に変えるんです」
「えげつねえな」
「だからこそ、七百年前に一度、滅ぼされかけた」
三条の声が、ほんの少し、遠くなった。
「頭目が封じられて、残った者は散り散りになりました。表向きは、滅んだことになっている。けれど、根絶は出来なかった。商人に紛れ、町人に紛れ、世俗に溶けて、ずっと生き延びてきたのです。そして今、また集まりはじめている。SNSだの、スピリチュアルだの、現代の言葉に化けて」
「その頭目ってのが、荒海 庚人 か」
三条は、それには直接答えなかった。代わりに、こう言った。
「とにかく、彼らは魂を弄ぶ連中です。あなたが現場で、あのほおずきを見つけたら、絶対に素手でさわらないでください。約束してくださいますか」
「お前はいつも素手で拾って、和紙に包んでるじゃねえか……あれは、なんなんだよ」
俺のツッコミに三条はふっと黙る。
「……それは」
その先を、言わなかった。
しばらく待ったが、答えは返ってこない。寝たふりでもするつもりか。俺もそれ以上は追わなかった。訊いても、はぐらかされる。
俺はもう一度目を閉じた。
どれくらい眠ったか。うなされる声で、目が覚めた。
俺の夢じゃない、隣だ。
三条が布団の中で、苦しげに呻いていた。汗びっしょりで、眉根をきつく寄せて、なにかに耐えるみたいに身を縮めている。なにひとつ崩さないこの男が、子供みたいに丸まって震えていた。
「おい、三条……三条!」
声をかけても起きる様子がなく、うわごとみたいになにか呟いている。聞き取れない。古い言葉みたいだった。その途切れ途切れの中に一度だけ、はっきりと誰かの名前らしき響きが混じる。
見ていられないくらいに苦しそうだ。気づいたら、手が伸びていた。
震える肩に、そっとふれる。その瞬間だった。
三条の身体から、どっと力が抜けたような気がする。
あれだけ強張っていた眉がほどけて、荒かった息がすうっと、静かになっていく。ずっと探していたものに、やっとふれられたみたいに。三条は丸めていた背中をほどいて、深く長い息を吐いた。
寝顔がおそろしく無防備だ。
いつものサングラスもない、からかう笑いもない。ただ、安心しきって眠る、一人の男の顔だ。長い睫毛が、頬に影を落としている。さっきまでの苦しみが、嘘みたいに消えていた。
なんだ、これ。
なんで俺がさわると、こいつは静かになるんだ。
目黒でもそうだ。よろけた三条を支えたら、震えが止まった。「あなたの背中をお借りします」と言った。隣だとよく眠れそうだと、何度も言っていた。
全部、繋がっている気がする。だが、その先は見当もつかない。
手を離せなかった。
離してしまったら、またこいつが苦しむ気がして。
俺は布団の上に座り込んだまま、三条の肩に手を置いて、その無防備な寝顔を、ただ見ていた。
虫の音が、やけに大きい。
胸の奥がわけもなくざわついていた。これはなんの感情だと自分に問うてみても、答えは出ない。俺はずいぶん長いこと、眠る男の顔から目を離せずにいた。
翌朝に目を覚ますと、三条はもう起きていて、サングラスをかけて、窓の外の山を見ていた。いつもの顔だ。昨夜のことなど、なにもなかったみたいに。
「おはようございます、桃山刑事。よく眠れましたか」
「……お前は、眠れたのかよ」
三条の肩が、ほんの一瞬、止まった。
それから振り返って、笑った。
いつものからかいはどこにもない。なにかこらえているみたいな笑い方だった。
「ええ」
三条は、言った。
「……久しぶりに、よく眠れました」
久しぶりの意味を、俺はまだ知らない。
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