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第十四話 甘い残り香
翌日、再び大手町へ向かった。三条 が将門塚の地中を調べるあいだ、俺は周辺のビルへ聞き込みをしていく。
将門塚の異変と、鬼灯講 の捜査。表向きは別件だが、俺の中ではもう一本の線だ。武蔵境の拠点を引き払った『先生』が、次にどこへ潜ったか。鬼灯衆 が将門塚に仕掛けているなら、実行役がこの近辺に出入りしているはずだ。だから聞き込みでは異変のことと一緒に、『先生』の似顔絵も見せて回った。
収穫は半分。異変の証言は山ほど集まった。エレベーターの誤停止は先週だけで七件、カラスの群れは日増しに増えて、ビルの窓清掃業者が怖がって作業を中断した。だが似顔絵のほうは空振りだ。誰も見ていない。
まあいい。空振りも捜査のうちだ。見ていないという事実が、絞り込みの材料になる。
三棟目のビルを出たところで、休憩スペースのベンチに若い女が座っていた。
昼休みのOLだろう。パンツスーツに小さな紙袋、カフェチェーンのコーヒー。大手町ではよく見る光景で、とくに引っかかるものはなかった。
「すみません、ちょっとお訊きしてもいいですか」
声をかけると、女はカップを膝に置いて顔を上げた。二十代の後半くらい。整った顔立ちで、どことなく人を安心させる雰囲気がある。
「はい、なんでしょう」
「警視庁の桃山 と言います。最近このあたりで変わったことはなかったですか。エレベーターが止まるとか、電波がおかしいとか」
「ああ——」
女は少し考えるように首をかしげた。
「たしかに、先週うちのビルでもエレベーターが停まって。三十二階に閉じ込められた同僚が泣いてました。あと、カラスがすごいですよね。塚のまわりにいつもいて。東京のカラス、減ったってニュースを見たんですけど。また増えちゃったんですかね」
「ですよね。それと、この男に見覚えは」
俺はスマホの似顔絵を見せた。例の人相書きだ。
女は画面をじっと見た。ほんの一拍、長く見た気がする。
「……いいえ。見たことないです。この人、なにかしたんですか」
「いえ、参考までに。お時間取らせました」
立ち去ろうとしたとき、女が言った。
「刑事さん、寝不足?」
足が止まる。
「……そう見えますかね」
「私ね、観察力だけはあるんです」
女は笑った。屈託のない、明るい笑い方だ。
「目の下のクマ、けっこう出てますよ。不眠ぎみだったときがあるから、わかるんです」
お気になさらず、と口にしながら、実際に夢のせいでまともに眠れていない。高尾の宿坊で三条がそばにいたあの夜だけは眠れたが、最近は頻繁に長い髪の男があらわれる夢で目が覚める。
女がバッグから小さな袋を取り出した。布製の、手のひらに収まる小袋だ。
「もし嫌じゃなかったら。香袋なんですけど、枕元に置くとよく眠れるんです。いい香りってリラックスできるでしょ」
気がつくと、受け取っていた。あきらかにあやしい。断るべきなのに、香袋が俺の手の中にある。差し出された瞬間は覚えている。だが、受け取ろうと判断した記憶がない。手が勝手に動いた。
「——ありがとうございます」
勝手に口が動いていた。自分で考えて出した言葉じゃない。
女はにっこり笑って「効果てきめんですよ」と言い、ベンチを立って人混みに紛れていく。
ポケットに香袋をしまいながら、俺はなにかに引っかかっていた。刑事は聞き込み先から物を受け取らない。新人の頃にたたき込まれた基本だ。捨ててしまえばいいけれど、いったん三条に見せるべきだ、という気がする。
もうひとつ。似顔絵を見たときの、あの一拍。見たことのない人間の顔を、人はあんなに長く見ない。
考えがまとまらないうちに、三条が塚の裏手から戻ってきた。
「地中にもうひとつ、深くほおずきが埋まっています。五色不動 や高尾よりさらに深い。応急では抜けません、道具を揃えて出直す必要がある」
「了解。いったん戻るか」
女のことを話そうかと思ったが、なにをどう話せばいいのかわからなかった。親切なOLに香袋をもらった、似顔絵を一拍長く見た。少し考えをまとめて、車の中で報告しよう。
違和感だけ、胸の奥に畳んでおいた。
帰りの車中、うっかり助手席で目を閉じた。
妙に疲れていた。俺は刑事になってから、相棒の運転で居眠りなんてしたことはない。職務中だから当然のことだ。それなのに、信号待ちのたびにうとうとと、意識が沈んでいく。三条の運転が、妙に心地いいせいだ。
ポケットの中の香袋が、ほんのかすかに温かい。それに気づく前に、もう落ちていた。
暗い場所にいる。
いつもの夢と同じだが、今回は違った。はっきりしている。壁も床も天井も見える。狭い部屋だ。石の壁で、冷たくて、湿っている。
小さな自分が座り込んでいる。泣きたいのに声が出ない。
目の前に、男が立っていた。
長い髪。白い指。やわらかく微笑んでいる。その笑顔がこわい。やさしいのに、目が笑っていない。
男がしゃがんで、小さな自分の頬に手を伸ばした。冷たい指がふれる。
「見つけたよ」
甘い声が、耳の奥に注がれるように染みてくる。
「やっと見つけた。ずっと探してたんだ——」
赤い光が、男の手の中で灯った。ほおずきみたいな、小さな赤い光。
知っている。俺はこの声を知っている。この光を知っている。
もしかして——こいつが——。
「——桃山刑事!」
肩をつかまれて目が覚めた。冷や汗が全身を濡らしている。手が震えて止まらない。車は路肩に停まっていた。三条が運転席から身を乗り出して、俺を覗き込んでいる。サングラスの奥が大きく見開かれていた。
そのとき三条の鼻が、ぴくりと動いた。
俺のポケットを見る。視線が鋭くなった。
「桃山刑事。ポケットの中に、なにか」
「ああ、香袋……聞き込みのときに、女が」
三条が俺のポケットに手を入れて、香袋を引きずり出した。甘いにおいがふわりと車内に広がる。
嗅いだことがあると、気づいた。マナの部屋に充満していた、あの甘ったるい煙と同じにおいだ。
三条の顔が青ざめる。
「鬼灯衆の香です」
低い声だった。怒りではない。もっと深い、恐怖に近い。
三条が窓を開けて小袋を車外へ放り、懐から霊符 を抜いた。指で印を結ぶ。アスファルトの上で小袋が青白い光に包まれ、燃え上がりもせず、しゅう、と音を立てて縮んでいく。甘いにおいが焦げたにおいに変わって散った。
「解呪します、動かないで」
三条が俺の額に手を当てた。低く速く、呪 を唱える。
「百邪の鬼を断ち、万邪気を正せ、急々如律令 !」
冷たかった頭の奥がすうっと溶けるように温まって、手の震えがゆっくり止まっていく。
解呪が終わっても三条は手を下ろさず、そのまま俺を抱きしめた。
シートベルトが食い込むのも構わず、両腕で俺の頭と背中を包み込むように。骨が軋むほどきつい。
俺を抱く腕が、かすかに震えていた。
「三条——」
「少しだけ」
声がかすれていた。
「少しだけ、このままで」
三条はただ必死に、俺を手放すまいとしている。なにがそんなに怖いんだ。俺がちょっと変な夢を見ただけだろう。
なのにこいつは、俺が一度死にかけたみたいに、震えている。
俺は抱き返せなかった。押しつけられた胸から、速い鼓動がスーツ越しに伝わってくる。かすかに線香のにおいがした。こいつの腕の中で、あの夢の甘い声が、まだ耳の奥にこびりついている。
見つけたよ。やっと見つけた。
——もしかして、あの声は。あの長い髪の男は。庚人 、なのか。
口には出さなかった。訊いたら三条が答えてしまう気がする。答えを聞いたら、もう戻れない場所に行ってしまうような。
三条の腕がようやく緩んだ。少しだけ離れて、俺の顔を覗き込む。サングラスがずれていた。素の目が、すぐ近くにある。今にも泣きそうで、焦りが剥き出しになっていた。
ちりちりと胸が痛む。なぜ知り合ったばかりの相棒に、お前はこんなに。
「……すみません。取り乱しました」
「いいよ、別に」
なんでもない顔で返したつもりだが、声が少し揺れたのは、たぶん、ばれている。
三条がサングラスを直して、シートベルトを締め直した。
「その女の特徴を、教えてください」
声はもう、いつもの仕事の温度に戻っていた。だが急いでいる。
「二十代後半。細身で中背、パンツスーツ。整った顔で、人当たりがいい。OL風だが……」
言いながら、頭の中で像を結び直す。刑事のさがで、人相は勝手に頭に刻まれている。
「似顔絵を見せたとき、一拍長く見た。見覚えのない顔を見る目じゃなかった。あれは、知ってる顔を、知らないふりして見る目だ」
「……『先生』の似顔絵ですね」
「ああ。それと袋を渡されたとき、断れなかった。断るって選択肢が、頭から消えてた。あれも術式なのかよ」
「……おそらく、暗示の類いです」
三条の声が一段沈んだ。
「今までの術式よりも高度です。あなたが会ったのは、鬼灯衆でもかなり上位の」
言いかけて、三条は止めた。サングラスの奥で、なにかを考えている。
「とにかく、今日のことは室長に報告します。それから桃山刑事。今夜から、私があなたの家に泊まります」
「はあ、おい、なに自然に決定事項にしてんだよ」
「あなたは狙われた。一人にはできません」
いつも押しかけて来る軽さじゃなかった。どうも冗談じゃなく本気なようで、断っても無駄なやつだ。
「……勝手にしろ。だが、俺が狙われた理由に心当たりがあるんなら、洗いざらい話せよ」
「——善処します」
車が走り出す。窓の外を、夕暮れの大手町が流れていく。
あの女は何者だ。『先生』の顔を知っていて、俺に呪物を渡し、人混みに消えた。俺の捜査は誰かの足を踏んだのかもしれない。だとしたら、踏まれた誰かは、次にどう動く。
刑事の勘が、嫌な音を立てていた。
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